第39話 誠と兎

(誠と兎)

 

 その頃、誠はホテルのフロントにいた。

 一面ガラス張りのロビーから見える景色は、真っ白で霧に覆われていた。


「今朝は、あんなに晴れていたのに……」

 もう一人のフロントクラークが囁く。


 誠は、嫌な予感がして、玄関を見た。

 しばらくして、牡丹雪のお雪さんが、蛇の目傘を手にもって、胸元をはだけさせ、音もなく入ってきた。


 ロビーには多くのお客で賑わっていたが、異様な姿のお雪さんを見ると、会話は止まり、体は動けなくなった。


 お雪さんは、誠の前まで来ると、ニコリと微笑みを寄せた。


「雪ん子が、動けなくなった。今、隣町の文化ホールにいる。誠に迎えに来てほしいと言っている。もう、自分の力では帰れない……」


「文化ホールですねっ! すぐ行きます……、文化ホールのどこにいますか?」


「三階の展望デッキに……、誠を待っている……」


「わかりました……」


 誠が、フロントを離れようとすると、お雪の言葉が続いた。


「……、その時が来る……、明日の夜から、三日三晩雪が降る。それで、お別れ……」


「そんなに早く……」


 誠は、振り返って、お雪を見た。


 お雪は、それだけ言うと、振り返り、音もなく玄関を出て言った。


 誠は、支配人に事情を説明して、急いでホテルを出た。


 誠が去ったあと、フロントでは……


「ちょっと、い、今の女の人は何だ……?」

 フロントに詰め寄る何人かのお客がいた。


「いえ、当ホテルとは何の関係もありません」

 

 一人残された、フロントの彼は、またかと思いつつ笑顔を作った。


「そんなことはないだろうー、わしの部屋に呼んでくれ、お金は払う!」


「いえ、そういうことはしておりません!」


「わしのほうが、先だっ! わしの部屋に呼んでくれ!」


「いえ、当ホテルとは何の関係もありません!」


「じゃーどこに頼めばいいんだ!」


「電話番号、教えてくれっ!」


「いえ、そういう斡旋もしておりません……」


 ロビーから見えていた真っ白な霧は、いつの間にか晴れていたが、空はどんより曇っていた。





 誠が、文化ホールの展望デッキに来たとき、雪子は真理子の膝でうつ伏せにうずくまっていた。


「……、お仕事なのに、ごめんなさい……、頼める人がいなくって、お雪を驚かずに見られる人は、誠さんだけだから……」


「いや、頼りにされて、光栄ですよ……、おぶさって行くかい……?」

 誠は雪子の横に、跪いて言った。


「もう、その力もないわ……」


「じゃー、……」


「お姫様抱っこしてもらえれば嬉しいわ……」


「じゃー、喜んで……」


 誠は、真理子の膝から雪子を抱きかかえた。


「……、雪子ちゃん、軽いね……」


「誠さん、女心が分かっているわねー、……」


「いや、ほんとうに……、猫でも抱いている感じだよ……」


「……、猫じゃーなく、兎だけどね……」


「でも、ほんと、軽いよ……」


 誠は、展望デッキの階段を慎重に下りていった。


「……、きっと、雪ん子をお姫様抱っこした人間は、誠さんが初めてよっ!」


「ほんと、……」


「真理子が、やきもち妬くかもね……」


 今まで、心配そうに見守っていた真理子が……

「……、妬かないわよっ! 私も後で抱いてもらうからっ!」


「……、それは大変だー!」

 誠は、嬉しい笑顔で言った。


 二階のエントランスは、次の公演が始まったのか、静かだった。

 その中を誠は、雪子を抱えながら黙々と進んだ。


 真理子は誠の横で、雪子を心配そうに見て歩いていた。

 武は、誠の後ろを黙々と歩いていた。


 沈黙を気にしてか雪子が話し始めた……

「……、鈴子さんがねー、山で転んで捻挫して歩けなくなったところに、将さんが通りかかって、おんぶしてもらって、山を下りたんだって……」


「……、そう」

 誠は、ひとこと言っただけだった。


「それが切っ掛けで、鈴子さんが将さんを好きになって、一緒になったのよ……」


「そうだったんだ……」

 誠は、ひとこと言っただけだった。


「……、男の人に抱かれるって、いいわねー、わたしも好きになっちゃうわー」

 雪子は、微笑んで言った。

 でも、その微笑みは、力なく寂しそうだった。


「……、それは光栄なことで……」

 誠も、微笑んで言った。 



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