第38話 兎の耳とさよならの日
(兎の耳とさよならの日)
今日は、演奏会の日……
天気は快晴、しかし、気温は低く、時より吹く風は冷たかった。
雪子たちは、隣町の文化ホールに来ていた。
演奏会のメインイベントは午後からだけれど、かなり大勢のお客でエントランスは溢れていた。
「よかったわね! 琴美たちの演奏でもお客が呼べて……」と雪子。
「まー、子供の親たちと学校関係者が揃って見に来れば、結構な数になるけどねー」と真理子。
「……、……」
武は、無口に雪子たちの後に続いた。
会場は、満席に近かった。
しかし、雪子は浮かない顔……
「ここ、暑いわー!」
「そうねー、かなり暖房が効いているみたいねー!」
真理子は、パンフレットで雪子を扇いだ。
じきに、照明が落とされ、オーケストラの演奏者が入場してきた。
琴美も志穂も確認できた。
最後に指揮者、土佐正司が入ってきて、客席に一礼した。
ベートーヴェン交響曲第七番は、音楽的に分かりやすく、リズミカルで、コミカルで、交響曲のポップスと言ってもいい親しみやすさだ。
それでいて、ダイナミクスの表現もあり聴いていて飽きない。
しかし、ベートーヴェン自身は苦悩する中で、この楽曲を生み出したという。
「へー、志穂って凄いわねー、ちゃんと弾けているのは志穂だけよ!」
「わかるのー?」
「耳はいいのよ!兎だから……」
雪子は、それだけ言うと静かに演奏を聴いた。
第四楽章も過強に入ったころ、雪子は真理子に耳打ちした。
「ちょっと出で来る。あなたたちは、最後まで聞いていてね……」
雪子はそっと会場を後にした。
外は文化祭ということで、ホールは解放されていて、演奏会のほかにも、色々なイベントが行われていた。
雪子は、静かな場所を探した。
エントランスの両側から、二階席に上がる階段を見つけた。
それを上がると、二階席に通じる入り口のエントランスが広がっていて、その両側にも三階に通じる階段があり、それも上がって三階に出ると、そこから、もう一段高いところにある展望デッキに通じる階段があった。
雪子は、それも上がって展望デッキに出た。
空は、いつの間にか重い灰色の空で覆われていた。
しかし、遠くの山々は白くはっきり見えた。
ここからは、街が一望でる。
ここにも、幾人かの人がいたが、下よりは静かだった。
琴美たちの演奏も終わり、真理子と武は、雪子を探した。
午後の部への休憩時間ということで、ロビーもエントランスも人でごった返していた。
「雪子、いないわねー?」
真理子は、周りを見ながら、武に言った。
「……、……」
武も探していた。
エントランスから見える空は、今にも泣きだしそうに、どんよりと重い雲が覆っていた。
「朝は、あんなに天気が良かったのに……」
真理子は、空を見ながら一人呟いた。
「えっ! なに……」
真理子は、武を見た。
武は話していなかった。
「雪ん子は、三階の展望デッキにいるわ……、横に見える階段を登って行きなさい……」
「だれっ! お雪さん……」
誰も真理子に話しかけている人はいなかったが、頭の中ではっきり女の人の声が聞こえた。
「武っ! 聞こえた? 雪子は展望デッキよ!」
真理子は、言い終わらないうちに駆け出していた。
武も後に続いた。
「雪子っ! どうしたのよ?」
展望デッキのフェンスの近くで雪子はうずくまっていた。
真理子は、駆け寄り、ひざまずいて、雪子の肩を抱いて、顔を覗いた。
「……、暑いの?」
でも、外の空気は冷たく、寒いくらいだった。
「大丈夫よ……、ちょっと動けなくなっちゃった……」
雪子のいつもの笑顔は、今はなかった。
「雪子っ! あたし、裸になるから、体、冷やして……」
「駄目よ、人が見てるから……」
「かまわないわっ! 武っ! 周りの人を追っ払ってっ!」
真理子は、叫んだ。
武は、すぐさま近くにいる人に、展望デッキから出ていくように事情を説明しているようだった。
「すみませんっ! フェンスの近くで横たわっている女の子、お漏らししたみたいで、ここで着替えたいので、ちょっとここから出て行ってもらえませんか?」
展望デッキにいた仲の良さそうなカップルは、雪子に目をやり、すぐさま展望デッキを下りて行った。
武は、もう一組の壮年の夫婦らしい人にも……
「あそこに倒れている妹が、お漏らしして、ここで着替えさせたいので、展望台を下りてもらえませんか?」
その夫婦は、雪子に目をやり……
「頑張ってね……」と言って、展望デッキを下りて行った。
「……、誰がお漏らしよ……」と、雪子は怒って見せた。
雪子は、少し起き上がり、真理子の膝を両手で抱きかかえ、頭を乗せた。
「……、でも、ありがとう! でも、もういいのよ……、もうじき、誠さんが迎えに来てくれるから……」
「……、どうして?」
「ちょっと、動けそうにないから、呼んだの……」
「……、雪子……」
今までとは違う、弱々しい雪子の変化に、真理子は戸惑った。
「……、ごめんね……、お別れが早くなっちゃったみたい……」
「そんなの、やだよ……」
真理子は、雪子を自分の胸にしっかり抱き寄せ、抱きしめた。
「……、何時?」
「……、多分、今週の土曜日……、明日の夜から三日三晩雪が降るのよ。それで終わり……」
「えっ! もうすぐじゃない……」
「そうね……、琴美たちとお泊り会したかったなー!」
雪子は、真理子の胸の中で呟いた。
「……、雪子っ!」
「……、お泊り会、もし、わたしがいなくなったら、わたしの代わりに、加代さんを連れて来てあげてね。志穂が、おっぱい欲しがっていたから……」
「……、そんなこと……、今、考えなくても……」
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