第19話 誠と雪子と牡丹雪

(誠と雪子と牡丹雪)


「雪子ちゃん、……」と、山荘の入り口の方から声がする。


 雪子は、山荘の入り口から山荘の棟にそって伸びるテラスの中にある4人掛けくらいの木のテ―ブルを背もたれにして、後ろ向きになって、暗い星空を遠くに見ながら座っていた。


 誠の声に、引かれて雪子はテ―ブルを前にして座り直した。


「誠さん、話はもう終わったの?」


「……、そう、話すことなんか、最初からなかったからねー」


 誠も雪子の前に座った。


「雪子ちゃん、そんな浴衣一枚で寒くないの?」


「大丈夫、わたし、雪ん子だから……」


 雪子は上げていた髪を下して、雪ん子らしく見せた。


「どうして、家を出たの?」

 雪子は、もう一度、空を見ながら訊いた。


「……、さ―あー、急にリンゴ作りが嫌になったのかな。目標がなくなって、それなら好きな山で生きようと思った……」

 

 誠も、星空を見ていた。


「目標って、加代さんのこと……」


「えっ、……、誰から訊いたんだ?」

 

 誠は、驚いて雪子を見た。


「風のうわさよ―」


「……、もうここには、帰ってくるつもりはなかったから、酷い出て行き方をしてしまった。たくさん、心配もかけたから、……、やっぱり謝りたかった……」


 誠は、再び星空を見た。


「それで、お爺さんに謝ったの? なんて言っていた?」


 雪子は相変わらず、誠を見ていなかった。


「……、帰って来いって、お母さんも待っているって……」


「そうね―、お婆さん、いつも沈んでいて、元気ないわ……、誠さんのお兄さんが入院しているせいかもしれないけど……」


「……、でも、帰れない、山荘が終われば、下のホテルで通訳兼フロント、コンシェルジュをやることになっているから。でも、家には行くよ。お母さんも心配してるって言うから。顔を見せないとね、リンゴも手伝うって言っておいたっ!」


「よかったじゃない、少しは役に立てれて……」


「……、これからだけどねー。でも雪子ちゃん、僕がスイスで逢った雪女に似ている……」


 誠は、もう一度、雪子を深く見据えて言った。


「お兄さん、それ、鈴子さんに話したでしょう―」


 雪子も、今度は誠を見た。


「そうだけど、僕が吹雪で遭難しそうになったとき、町への道を示してくれた、それと日本に帰るように言われた、雪子ちゃんに似ている……」


「彼女、牡丹雪って言うのよ。私はお雪と呼んでいるけどねー」


「牡丹雪、牡丹雪の雪女……、そう言えば、吹雪が止んで彼女のいる間、牡丹雪が降っていた」


 誠は、思い出すように視線を暗い、今は見えない山の方に向けた。


「お兄さん、雪女に逢ったことを他の誰かに話しちゃ―駄目よ! 命を吸い取られて、氷にされちゃうから……」


 誠は、それを聞いて、吹き出すように笑った。


「……、でもそれは、怪談話だろう。僕の見たのは本物の雪女だった……、彼女が僕を助けてくれた」


「それはね―、お兄さんがいい男で、牡丹雪に愛されたからよ!」


「……、愛された?」


「そうよ、ほら、そこにいるでしょう―」


 雪子は山荘のテラスの一番奥の端の暗いところに、赤い蛇の目傘をさして、こちらを薄笑いを浮かべながら見ている牡丹雪を差した。


「そう、彼女だ―!」


 誠は立ち上がり、牡丹雪に駆け寄ろうとした。


「お兄さん、動いては駄目よっ! そっとここで見ていて……」


「どうして、僕はお礼がいいたい!」


 誠は、立ち上がり動こうとしても足が前に出なかった。


「彼女は、もう分かっているわ。だから、ここから、そっと見ていて……」


 誠は、更に焦るように、慌てるように、そこから駆けだそうと懸命にもがいた。


 いつしかあたりは霧に覆われ牡丹雪が舞っていた。


 牡丹雪は、蛇の目傘をゆっくり回しながら音もなく、はだけた胸元に長い黒髪を揺らしながら、雪子たちに近づいてきた。


 誠は、声を出そうとしても、体を動かそうとしても、金縛りにあったように動けない。


 牡丹雪は雪子の前で止まって、誠に向かって、小首を傾げ、にこりと微笑みを寄せ、照れている様に赤い蛇の目傘を回した。


 何処からともなく風が吹き、牡丹雪の一重の薄い着物がはだけて、真っ白な素肌があらわに見えた。


 その風に流されるように、ゆっくりと、音もなく歩き出し山荘を下りて行った。


「彼女が、牡丹雪のお雪さん、誠さんに逢いに来たのよ……」


 彼女の姿が見えなくなると、さっきまで動けなかった体は元に戻り、誠は力なく、また椅子に腰かけた。


「あっ! 忘れてた! 真理子たちは下にいるんだったっ!」






「……、ねーえ―、手を繋いでいい?」

 真理子は、真っ白な霧の中で武の手を探した。


「……、いいよ」


 その言葉で、真理子は武にしがみ付くように腕を組んだ。

 腕を組んでいないと、霧の中に消えそうなほど何も見えなかった。


「あたし、遭難する人の気持ちが分かったわ。山の天気って、本当に変わりやすいのね―」


 霧で何も見えなくなった峰を二人は手を繋いで歩きだした。


 ヘッドランプを照らすが、霧で反射してまるで役に立たない。

 どちらに向かえばいいのか、それすらも分からない。


「そっちは、駄目よ、崖があるから!」

 白い霧の世界に女の人の声がする。


「こっちに来なさい……」

 あたりは、真っ白な霧の中でも、赤い蛇の目傘の女の人が見えた。


「雪子、雪子が来たわ」と、真理子は、武の手を引っ張って、彼女を追った。


 でも、武と真理子が近づくと、赤い蛇の目傘は遠ざかる。


「ちょっと、待ってよ」と、真理子は叫ぶ。


 道は登りになり、足は重くなる。


「雪子っ! ……」と真理子はもう一度叫ぶ。


 しばらく登ると、霧は頬木で掃いたように山の彼方に消えて行った。


「山荘の明りが見える」と、武が言った。


「よかった! これで帰れるわ……」


 二人が山荘の入り口まで上がってくると……


「お似合いよ、お二人さん!」と、雪子は声をかけた。


 真理子と武は、慌てて繋いでいた手を離した。


「雪子でしょう―! 待ってって言っても、どんどんいちゃって、酷いわ―!」


「なんの話よ―?」


「さっき、霧の中を迎えに来てくれたんでしょう。赤い傘を持って……」


「知らないわよね! お兄さん、私たちずっとここにいたからね! お兄さん!」


「だって、雪子の声がしたもの……」


「そんな、お邪魔虫みたいなことしないわよね! お兄さん!」


「だって、だって、本当よ―! 武さんも見たわよねー?」


 武は、何も言わずに頷いた。


「それは多分、雪女……」と、誠さんが言いかけたとき……


「駄目っ!……」と、雪子は次の言葉を止めた。


「……、雪女っ? 雪ん子じゃなくて……」


 真理子は、誠の言葉尻を捕まえて訊いた。


「雪ん子は、わたし……、これだけ残雪があれば、雪女だっているわよね! お兄さん!」


 雪子はいつもの調子で言った。


「そう言えば、誠さん、雪女に助けられたのよね……」


「えっ、……」と、誠さんは視線を反らした。


「じゃ―、あれは……」と、真理子が言いかけたとき……


「駄目よ、真理子っ!」と、雪子は少し大きな声で言った。


 真理子は、慌てて口を両手で抑えた。


「……、さ―、消灯は過ぎているから、部屋に戻った、戻ったっ!」


 誠さんは、その場を逃げるように立ち上がった。






 消灯を過ぎていたので、部屋は真っ暗だった。


 ヘッドランプ頼りに、寝床を探る。


「お爺さん、寝ているから、踏まないようにね」と、雪子が言う。


「起きてるよ―! ……、帰ってくるまで、心配で眠れるか―」とお爺さん。


「綺麗な星空だったわ―」と雪子。


「霧も出てきたけどね―」と真理子。


「……、白馬はガスもよくかかるからなー。まだ夏が始まったばかりで気象は安定していない。でも天気予報だと明日もいい天気だ……」


「……、よかったね」と雪子。


「あたし、どこで寝るの?」と真理子。


「真理子は一番隅よ、一緒ね寝ましょう……」


 雪子は霧の中で少し湿ってしまった浴衣を脱ぎ捨てて、裸で布団の中に入った。


「……、あたし、まだ着替えてない」と真理子。


「着替えなんか、いらないわよっ! 布団の中で脱がしてあげるから……、ランプ消して、こっちにいらっしゃい」


 真理子は、ダウンジャケットだけ脱ぎ捨てて、ランプを消して布団の中に入った。

 雪子は、真理子の布団の中に潜り込み……


「あ―ん、だめよ―、だめよ、パンツは……」


「……、いいから、いいから」


「あ、う―ん、雪子の体、湯たんぽみたいに、暖かい……」


「……、もっとこっちにきなさいよー! 抱いてあげるから」


「あ―ん、……」




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