第49話

 真っ暗な空間。私たちの曲と歌声しかない空間。ステップを踏む足音すらはっきりと聞こえた。頭が告げる。これは夢で、そして、数日前のライブの記憶。

 Cメロで私に照明が集中して、ステージから客席へ長い影が伸びた。映し出される客席。ペンライトどころか、人の姿がない。打ちっぱなしのアスファルトの床に私の影が吸い込まれて消える。

 うまく歌えているかうまく歌えていないか、スピーカーからはっきり聞こえているはずなのに、無音の中で歌っているようだった。姫夏の水面に透けるような歌声も、3人のダンスも、誰も観てはない。歌い終わって、次の曲に移る。フォーメーション変更をしながら聞くはずの拍手もない。足早に立ち位置に動く。もう耐えられない。

 悪夢の中にいるようなライブだった。こんな日々が続くなら……

 だから私はその日死のうと思った。


 目を覚ますと、額がびしょびしょになっていた。ぬぐった右手はテカテカに光った。大きく息を吐こうとして、咳込んだ。起き上がると、検査着姿の麻帆と目が合った。不思議そうにこちらを見た。

「検査?」

「うん、今終わった。普通の診察の前だったから眠い」

 時計は8時を指していた。

「9時ころには3階の食堂空(す)くみたいだから、ご飯そこにする?」

 「あ、うん」と答えた。まだ夢の余波で頭はぼーっとしていた。麻帆は「昨日の日替わりがチキン南蛮とジャージャー麵だったから、今日は何かな」って楽しそうに着替えを始めた。麻帆の笑顔を見て泣きそうになった。私は「顔洗ってくる」と部屋を出た。


 さくらが病室を出るのを見届けると、麻帆は水色のパーカーを羽織ってベッドに腰を下した。

 昨晩のことを思い出す。嫌な夢だった。いや、昨日の記憶が夢に投影されただけだった。あんなに優して大好きだったお父さんなのに。気持ち悪いほどに優しくて、そして、大嫌いになった。最後に暴力を振るわれなかったら、まだ、私の気持ちに迷いがあったかもしれない。でも、もうお父さんのことを嫌いにことに疑いはなかった。

 お父さんがテーブルにつき、その向かいに私が座る。豪勢で嘘のような食卓の夢。監禁部屋の外からとろけるように優しく私の名前を呼ぶ声。臭いすら思い出せた。かろうじて悲鳴を上げなかったが、たっぷりの汗と多分なみだが顔を湿らせていた。嗚咽しそうな喉を、右手を噛ませて落ち着かせた。お姉ちゃんが向こうの簡易ベッドで眠っていた。お姉ちゃんのところまで歩いていって、抱きつこうとして、とどまって、また自分のベッドに戻った。

 もう一度眠ろうとしたが、眠れなかった。眠ろうと眠ろうと眠ろうとして、眠れない内に検査の時間になっていた。

 昨日の一日で私は変わってしまったかもしれない。解放されて、お姉ちゃんと会うことができて、安全な病院にいても、ずっと心の中を怯えが支配していた。気を抜くと膝が震えてしまいそうだった。涙がまた流れてしまいそうだった。

 タオルで顔を拭いながらお姉ちゃんが帰ってきた。

「もう着替えたの?」

「うん、でもお姉ちゃんはゆっくりでいいよ」

 私はぷらんと両足を投げ出した。その足先がカーテンの間から差し込んだ陽射しにあたって温かくなった。でも、それ以外部分は影の中にいた。

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