第34話
「たすかりました」
桜は助手席から、運転席の横顔に声をかけた。彼女は「いいのよ」って答えた。
車の外で救急車を待っている間、彼女はスポーツカーで現れ、血まみれで意識を失っている遠藤に自分の車のトランクから灰色の毛布を3枚被せた。
「大丈夫よ。心配しなくていいわ」
手慣れた感じだった。後で聞いたら、看護師さんだった。
彼女は4枚目の毛布を取り出して、私に被せた。
救急車の音はまだ聞こえない。指先が白くなっていく。
「大丈夫。あの位で人は死なないわ」
促(うなが)され、私は彼女の車で救急車を待った。やがて救急車が到着し、遠藤を預けて、見送って、タクシーを呼ぼうとしているところ彼女が送ってくれることになって今に至る。
「大丈夫でしょうか?」
「大丈夫よ。今夜のスタッフなら問題ないわ。私もさっき電話で指示しておいたし」
わかったような、わからなかったような言葉にただ頷く。
「お腹空いた? 我慢できる?」
「あ、大丈夫です」
麻帆が待つファミレスへ一刻も早く向かいたかった。
彼女は「そう」と興味なさげに返事した後、信号で止まった時にドライビングシートの後ろの袋からトニックウォーターを2本取り出して渡してくれた。正面の信号が青に変わる。
その1本のキャップを開けて運転席側のドリンクホルダーに挿して、「ありがとうございます」と言ってもう1本に口を点けた。炭酸と糖分と苦い香り。足元も、顔に直撃する暖気も心地よかった。もう一度、「たすかりました。ありがとうございます」と言った。彼女ももう一度、「いいのよ」って言った。
「電話、してもいいわよ。さっきからずっとスマホ握ってるでしょ」
あ。
「すみません。ありがとうございます。少しだけ」
スマホから、かすみの番号を選んでコールする。2コール目で通話になる。
「かすみ? 今だいじょうぶ?」
「ごめん。ちょっと色々あって、遅くなった。あと30分くらいで着くと思う」
「20分で十分よ」
「え? あ、はい。あと20分だって。麻帆と会えた?」
「よかった。麻帆と代われる?」
「電話してないよ。着信もなかったし」
「うん。うん。麻帆ちゃん、大丈夫。私を信じて。――うん。切るね」
白い車に乗るよう指示し、最後に一言付け加えて電話を切った。麻帆ちゃんが『私、大丈夫だよ。姫夏さんのこと信じてる。けど、なるべく早く迎えに来てね』って言ったのは、男には言わなかった。
「これでいいの?」
男は「ああ」と言ったものの、向けられた拳銃はそのままだった。
「素直に従うんだな」
「大切なメンバーを殺されるわけにはいかないんだ。桜は殺させない」
これが虚勢だっていうのは、私本人でもわかった。
「そうか」
遠くからパトカーのサイレンが聞こえてくる。通報をしてからしばらく経っていた。
男はボストンバックを担ぎ直すと、扉へ向かう。すれ違う瞬間、「警察には絶対に言うなよ」と脅しを利かすのも忘れなかった。私が頷くのは見ないで出ていった。
空き巣の通報を終えて部屋の確認を始めた時、背後から拳銃を突きつけられた。空き巣本人だった。男の目的は金でも私の命でもなかった。彼は麻帆の誘拐だった。どうしてか、私が麻帆を匿(かくま)っていたのを知っていた。麻帆が外出していたのは不幸中の幸いだったが、結果は同じになろうとしている。
麻帆ちゃんのことは大事。でも、桜のことも大事。これでよかったんだ。
思っても、思っても、思っても、思っても、涙が流れた。
膝が落ちて、お尻がフローリングに落ちた。
パトカーのサイレンが近付いてくる。
一瞬だけ我に返る。
少しだけでいい。少しだけでいいから、冷静になって、わたし。
手の中でブラックアウトしていたスマホの液晶に光を灯した。
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