第30話

 真横を大きなトレーラーが通り過ぎて、麻帆は両耳を手でふさぐ。直後、車両に巻き上げられた風がコートの裾とフードを揺らした。風が止んだら手を離す。また、大型トレーラーが通り過ぎる。それの繰り返し。東京の道は夜になると、巨大な流通ルートへと姿を変える。私はそれに溶け込むように進んでいる。

 姉に電話は繋がらなかったが私のスイッチが入ってしまい、姫夏さんのアパートを出たものの行く当てはない。自宅は火事で全焼して無くなってしまったし、おばあちゃんの家に行くにはここからだと遠すぎる。

「さむい」

 口に出しても変わらないが、つい言葉にしてしまう。姫夏さんから勝手に借りたローブっぽいコートはあたたかいが、指先とおでこの冷たさはどうにもならなかった。

 お腹が空いたな、と食べ物の看板を目で追う。黄色、赤、黄色、白と緑、視線でたどっているうちに不思議な既視感におそわれた。この道知ってる。

 無意識に歩いていた道は、姉の桜とよく一緒に歩いた道だった。お姉ちゃんはよく中学校に私を迎えに来て、トレーニングと称してこの道をふたりでランニングした。ランニングと言ってもそれは始めの10分くらいで残りはおしゃべりしていた。アイドルになって、ダンスレッスン、ボイストレーニングなどで忙しくなったお姉ちゃんと一緒にいられる大切な時間だった。

 一際大きなトラックが私の右を走り抜けて、目じりをひんやりさせた。

 区界(くざかい)を示す看板を横目に進む。

 正面の信号の青が点滅する。渡ろうと一歩を踏み出したが、やっぱり引き返した。赤に変わる。

 太陽が出ていないから、夜は時間がわからない。

 スマホを開くと、姫夏さんからの着信が5件あった。一緒のこたつに入って、勉強を教えてくれる姫夏さんの横顔が浮かぶ。クールに振舞っている彼女の優しいさを私は知っている。けど今は、最後の最後まで私はお姉ちゃんの妹をちゃんとやりたいと思った。

 画面の端に映る時間を確認する。姫夏さんの家を出て1時間ほど経っていた。電話アプリを開く。

 次に誰も出なかったら、今夜はあきらめよう。

 祈るように、お姉ちゃんのスマホに発信する。正面の信号がまた青になる。渡らず、歩道の隅に寄る。

 1回、2回……

 コールが進む。親戚の中にひとり苦手なおじさんがいたことを思い出す。その人が出るかもしれないと思うと少し憂鬱になった。

 3回、4回……

 対向車線をバイクが速いスピードで走り抜けていき、びっくりする。

 9回、10回……

 耳に当てていたスマホを目の前に戻し、「切る」をタップしようとしたとき、表示が「通話」に変わり、通話時間のカウントがはじまる。

 2秒、3秒……

「……もしもし」

 恐る恐る言う。

『もしもし。麻帆?』

 え?

 この声は――


「お姉ちゃん?」


「お姉ちゃん、なの?」

 涙があふれる。比喩じゃない。本当に目が涙でいっぱいになる。

『そうだよ。麻帆、大丈夫?』

 涙が目から離れて、ほっぺの内側に筋を作って、唇に届く。しょっぱい。

「大丈夫ってどういうこと??」

『いや、何度も電話したのに出ないじゃん』

「お姉ちゃんこそ、さっき電話したのに出てくれなかったじゃん」

『え? 本当に? ……あ、ほんとだ。ごめん』

「もう、お姉ちゃんたら」

 火事のことを聞いた時から、お姉ちゃんが死んだって聞いた時から、伝えなかったことを後悔した言葉、ちゃんと伝えたかった気持ちを何度も考えた。お姉ちゃんがもし生きていたら、もし目の前にいたら言わなきゃいけないことがいっぱいあった。でも、いざお姉ちゃんが生きていて、話したら、大切なことが全然言えなかった。お姉ちゃんがいる、それだけで全部十分だった。

『とにかく、会おう。今、どこにいるの?』

「えっと――」

 だいたいの位置を伝え、集合場所を決める。何度か行ったかすみさんの家の近くのファミレス。ここからなら10分くらいだろう。

「うん、わかった」

『私はもう少し時間かかりそうだから、かすみにも連絡しておく。ふたりであったかい物でも食べてて。そうだ、タクシー使う? お金ある?』

「道わかるから大丈夫。お姉ちゃん、、お姉ちゃんなんだよね?」

『ん? ……私だよ。ちゃんと生きてる』

「麻帆こそ大丈夫? 元気?」

『うん。元気だよ』

 お互いが元気か、それが1番聞きたいことだった。ちゃんと口に出すのが恥ずかしくて、でもやっぱり聞きたくて、結局、会話の終盤になってしまう。それは私もお姉ちゃんも一緒だった。それでもって、「心配してるよ」はちゃんと言えない。でも、お姉ちゃんの気持ちはちゃんと伝わった。私の「心配してるよ。早く会いたい」もちゃんと伝わってたらいいな。

 じゃあ、またねって、いつもの様(よう)に、「今日はライブの後にかすみの家に泊まるから明日帰るね」って言われたときみたいに、「うん、わかった。じゃあ、明日ね」って感じで電話を切った。

 しばらく放心して、通話履歴を見て夢じゃないのを確認して、寒くなって、歩みを進めた。さっきまでは気付かなかったけど、今日は雲一つない夜の快晴だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る