第29話

 夜の10時を少し過ぎた時刻。男は速足である場所へ向かっていた。息が切れる。それでも足を小走りの足を止めない。ようやく居場所がわかったのだ。こんなうれしいことはない。笑みがこぼれる。気持ち悪いと思われてもいい。ようやく会えるのだ、あの子に会えると思うと笑いが止まらなかった。



 麻帆は数学の問題集から視線を上げ、そして、両手で伸びをして、こたつの台に突っ伏す。スマホを見つめる。姫夏に言われた通り誰にも連絡していない。開くと姉の桜のスマホから何度も着信が入っていた。親戚の誰かがお姉ちゃんのスマホを使って連絡してきているのだろう。でも、お父さんもお母さんも、何よりお姉ちゃんのいない世界に何の興味もなかった。受験勉強をしたくない言い訳ではない。少なくても、今の私にはそれが真実だった。

 スマホを置くと、その向こうにある姫夏さんのモバイルPCのランプが点灯しているのに気が付いた。いつもは電源を落としているが、急いで出かけたので消し忘れたようだ。ごめんなさいって思いながらも、画面を起こす。過去のライブの名前がついた動画のアイコンが並んでいる。その中から1番日付の古い映像をバックグラウンドで流す。1つ上の階層に移動すると、写真のフォルダを見つけて、そっちも開く。ファンの方が撮ったライブ中の写真に混ざって、楽屋での写真も入っている。右矢印でザッピングしていると1枚の写真で指が止まった。

「お姉ちゃん……」

 かすみさんの生誕祭。私も花束を渡すプレゼンターの一人に選ばれた。緊張する私に、お姉ちゃんが駆け寄ってきて声をかけてくれている場面。全然気づかなかったが、姫夏さんが隠れて撮ったのだろうか。アイドルの衣装の上に真っ白なパーカーを羽織ったお姉ちゃんに声をかけられ、真っ赤になった私がかすみさんを見上げている。この後、結局私は1歩も歩けず、かすみさんがステージを下りてきて、花束を受けてってくれた。その場面の写真。その時、はっきり覚えていないが、お姉ちゃんはこんなに優しい顔で私を見てくれていたんだって、心がすごく嬉しくてはずかしかった。

 もうお姉ちゃんはいない。

 でも、お姉ちゃんを最期にちゃんとお見送りをしたい。

 「お見送り」って思うと、ライブ終わりに私やファンの人たちを見送るお姉ちゃんの姿が浮かんだ。それとは少し違うけど、お姉ちゃんに感謝するって意味では近いのかもしれない。

 姫夏さん、ごめん。私やっぱり、最期にお姉ちゃんに会いたい。

 スマホからお姉ちゃんの番号を見つけ、発信ボダンを押す。コールする。

 1回……2回……3回……



 男は姫夏の住むアパートの敷地に入るところだった。メールを開いて部屋番号を確認する。ようやく麻帆に会える。早く彼女に会いたい。恋焦がれた運命の人に出会うように胸が高鳴った。両手がびしょびしょに汗をかいている。呼吸がせわしなくなる。荒くなる。止まらない。



 4回……5回……

 回数が進んでも、その電話に姉の桜は出ない。

 6回……7回……

 10回を数えたところで留守番電話に切り替える。メッセージを吹き込む気にはなれず、電話を切った。

 スマホを右手に握ったまま、こたつで横になった。天井の照明が白々と私を照らす。この時、急に睡魔が襲ってきた。勉強もやる気がしないので、そのまま眠ることにした。PCからはソロパートを歌うお姉ちゃんの声が聞こえてくる。目が覚めた時、このウトウトと、あと、不安や悩みが全部無くなっていることを願った。



 男が姫夏の部屋にたどり着くまで時間を要しなかった。インターホンを押す。部屋の中でピンポーンとなるのが聞こえる。しかし、中で人が動く様子はない。寝てしまったのだろうか。もう一度鳴らすが、またしても反応はなかった。男には時間がなかった。

 鞄を漁って茶封筒から鍵を取り出す。それを挿し込み、難なく扉を開錠した。ゆっくりと扉を開ける。玄関に姿はない。次に居間に向かう。扉に指をかけ、ひと思いに開け放つ。


 そこには誰も入っていないこたつだけが鎮座していた。他の部屋も家中探したが、麻帆の姿はなかった。

「何でだ! 何でだあ!!!!!」

 男が叫び声を上げて怒り狂う。手元にあったキャベツを壁に投げつけ、みかんの箱を蹴り潰し、冷蔵庫を力任せに倒す。それでもやり足りなかった。麻帆を失った怒りはこんなもので全然おさまらなかった。

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