第10話
かすみと出会ったのは、1年と少し前になる。合同のボーカリストオーディションの帰り道、ベンチで両足を投げ出して空を見上げていた。右手に持っている炭酸水のボトルはじんわりと汗をかいていた。快晴。どんよりとした曇り空だったり、打ち付ける雨だったりしたらもう少し絵になったのかもしれない。
まだ日は十分に高かったが人は疎らで、犬の散歩をする老夫婦、外水道で帰り支度をする母子(ははこ)、遠くに見えるランニング中の高校生たち、それと離れたベンチでダンスをする女性――それが、かすみだった。その姿が気になって、かすみを横目で見ながらだいぶ遠回りしながら自動販売機を向かった。お金を入れてボタンを押したとき、後ろから声をかけられる。商品が取り出し口にごとんと落ちる。
「おごってくれるの?」
振り返ると、かすみが笑っていた。
「何で?」
「だって、持ってるのにソーダ買ったでしょ」
癖で、また炭酸水を買っていた。取り出し口から出したばかりのそれをかすみに渡す。
「話していかない?」と促され、かすみがダンスをしていた近くのベンチに腰をかけた。キャップを開けると、ぷしゅと炭酸が抜ける。
「オーディションどうだった?」
かすみの開口一番がそれだった。
「桜ちゃんがよくライブしてるライブハウスで私、バイトしてるの。キッチンが多いから知らないと思うけど」
ペットボトルのキャップを閉める。
「ダメだった」
一口も飲まずに閉めたはずなのに、抜けた炭酸の分だけボトルが軽くなった気がした。
「全然。雰囲気に負けたっていうわけじゃなくて、まわりのレベルが、私自身が、正直相手になるレベルじゃなかった。自分の番がはじまる前も終わった後も、地獄だった。あああ、もう当分は歌いたくない」
かすみはオデコに当てていたペットボトルをベンチに置き、「そう」と立ち上がった。
「じゃあ、歌おうよ」
「???」
「私と歌おう」
かすみは私の右手を引っ張って立ち上がらせた。
「歌おう。桜ちゃんが歌えないなら私が一緒に歌う。ううん、歌いたい。私、いつも聴いてたから知ってるよ。だから、私、桜ちゃんと歌いたい。桜ちゃんはこれから先きっと良いシンガーになるよ。桜ちゃんの歌を待ってる人が絶対いるし、あ、ここにひとり居るし、だから、私と一緒に行こう。私には桜ちゃんが必要だよ」
私もだいぶ過大評価されたもんだと笑った。笑って、笑って、泣いて、笑った。その時から、かすみは私の手を離さず繋いでくれている。
何でそんな大切なことを忘れてしまったのだろう。輝くステージに立つことすらできなかった私をこんなに素敵な、大切な場所に連れてきてくれたかすみ、それに、いつも私のことを元気づけてくれた姫夏――。私は、まだ大切な人たちに何もできていない。
ポケットの中でくしゃくしゃになっていたリボンで髪を一つに束ねた。快晴のようなブルーは私のイメージカラーだ。
目をつぶって大きくしっかりと息をはいてから、階段を下りた。
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