第9話

 テーブルのペン立てにカッターナイフを見つけた時、何も考えず手に取っていた。両手首を固定されているが握ることはできた。カチカチと刃を出すと、カーテンから漏れた光にギラりと輝く。鈍くはあったが、錆び切ってはいないようだ。その刃と、部屋の闇が、昨日のライブを思い出させた。あんなに在るのが当たり前だったペンライトの光がない恐怖、奈落のように真っ暗な会場、拷問のような時間。呼吸が早くなる。思考が動かない。

 気が付いた時には、首筋にナイフの冷たい感触があった。


「待て!」

 私を誘拐した男が部屋に入ってくる。

「やめろ」

「『やめろ』? あなたが誘拐なんかしなきゃ、私は死ぬことができたんだよ。だから、今から死んでも何が悪いの?」

「死んでどうする。あんたアイドルなんだろ? 夢届けるんだろ?」

「アイドルだからって、みんながキラキラして夢を届けられるわけじゃないんだ。私なんか自分の夢さえ叶えられない」

「これから叶えていけばいいじゃねえか」

「『これから』?」

 私はナイフを握る手に力を込める。

「知ってる? 誰もいないステージに立つ感覚。知らないでしょ? ファンがひとり、またひとり減っていくのを目の当たりにする気分。わからないでしょ? 夢がどんどん目の前から遠ざかっていくんだよ。それなのに、夢を叶えろなんて言わないでよ」

「だからって、死ぬことねえだろ」

「死ぬなって? じゃあ、これから、どうすればいいの?」

 止まっていた涙がふたたび流れ出してくる。視界がぼやけていく。それでも、ナイフの冷たい感触ははっきりと在った。

 ニュースで報道されているとおりになるだけ。私は火事で死んだことになるだけ。来週のレッスンも、来月のライブも行けなくなるけど、ごめん。私がいなくても、私がいない方がきっとうまくいくよね。最後まで役立たずでごめんね。

 両手を持ち上げて、ナイフを頸動脈(けいどうみゃく)に添わせる。その時――


 ねえ、桜、聞いてる?


 かすみの声が聞こえた。

 顔を上げると、男が私のスマホの留守電を再生させていた。

『帰りに私がちゃんと声をかけられなくてごめん。リーダー失格、だね。桜はきっと自分のせいにすると思うけど、桜のせいでもあるけど、私のせいでもあるし、みんなのせいだと思う。だから、これからのことは、これから、また皆んなで考えよう。明日、バイト終わったら久しぶりにカラオケ行こっか。私、桜の歌声大好きだし、このチームに絶対必要だと思うし、入ってくれてありがとうっていつも思ってる。また明日連絡するね。好きなもの食べて、しっかり休みな――え、留守電の時間終わり? じゃ、またね』

 膝から崩れ落ちて、ナイフがフローリングの床を滑った。

「お前が自殺しようとする数分前に録音されていた」

 男は屈(かがむ)と私の手足のロープを解いた。それでも、私は立ち上がることはできない。

「生きた方がいいか、死んだ方がいいか、俺にはわからない。でも、仲間に言葉を返したいんだったら、1階にこのスマホを取りに来い。それまで自分で考えろ」

 男の足音が遠ざかっていく。涙と嗚咽で返事を返せなかった。でも、肩にのしかかっていた何かが軽くなるのがわかった。


 返事なんて、そんなの決まってる――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る