第6話
翌朝、男が目を覚ますといつもと変わらない景色が広がっていた。
ロッジのような、事務所のような、中身の抜けたようなこの建物は10年前まで洋食屋だった。しかし、ある事件でオーナーだった夫婦が亡くなり、事故物件となっていたものを去年購入して住処にしている。掃除を一切していないので、生活に必要最低限の家具以外は埃まみれている。
黄ばみ切ったカーテンの隙間から日光が差し込んできて、部屋の塵(ちり)が星屑のようにキラキラしていた。
帰ってきて部屋に転がっていたビールを一気飲みしてそのまま寝付いて一度も起きることなくこの時間を迎えてしまった。だが、頭の痛みは活動するのを阻害するほどではなかった。
枕元のモニターを見ると、昨日誘拐してきた女がベッドで横になっていた。今寝返りをうったので、生きてはいそうだった。女は2階の住宅部分で足だけ縛って寝かせている。逃げることのできる状態ではないと思うが、また自殺されてはされては困る。
スマホの電源を入れるが、誰からも着信はなかった。
誘拐を依頼されていざ誘拐したら依頼主と連絡がつかない、なんて状況があるだろうか。思考をめぐらせたが、答えは出ない。
依頼があったのは突然のことだった。会社をクビになり、酒の勢いに任せて暴力事件を起こして警察の世話になった。彼女にも逃げられ働く気にもなれず、転落していった。貯金も底を尽いたころ、ここの郵便受けに10万円とメールアドレスの書かれたメモが入れられていた。20代の女を誘拐するだけで1,000万円の報酬は喉から手が出るほど魅力的だった。
前金で500万円。成功報酬で、もう500万円も簡単に手に入るはずだった。
「おはようございます」
後ろから声がかかる。中山が近所のスーパーの袋をふたつぶら下げていた。「ここに置いていいスか」と、部屋の中で唯一きれいに拭かれているテーブルに食料を並べ、「遠藤さんにはこれ」とビールを投げた。
中山は「おれ、音がないと落ち着かないんで」とテレビを点ける。当たり前のようにディスプレイは全面が埃で真っ白になっている。バケツにかかっていた雑巾で拭(ぬぐ)うと、汚いなりに何が流れているかわかった。ちょうど例の火事が報道されている。
遠藤はビールのプルトップに人差し指をかけたが、そういう気分になれずに指を離した。中山のコーラでももらうか。
「遠藤さん、遠藤さん」
あ?
「昨日誘拐してきたのって、『小梨 桜』って言いましたっけ」
「ああ。どうした? 昨日の火事で親は死んだか」
「ええ」
そうか……。知り合いでも何でもないが、彼女の気持ちを考えると嫌な気分になった。やっぱりビールにするか。
中山は続ける。
「それに……」
「『小梨 桜』本人も死んでます」
え?
起き上がって画面を観ると、確かにその名前があった。聞いていた年齢も同じ。
では、俺たちが誘拐してきた女はいったい――
「遠藤さん!」
呼ばれて、意識を呼び戻される。
「監視モニター!!」
視線を移すと、さっきまでベッドで寝ていた女の姿が消えていた。
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