第5話
女を誘拐してから、1時間が経っていた。約束の時間を過ぎたが、依頼主は一向に姿を現わさない。連絡用の携帯は電源が切られているようだった。
この時期にしては気温が下がってきており、ガスの抜けたカーエアコンでは肌寒い。死なれては困るので、コートは女に被せている。それも原因のひとつかもしれない。
「腹減りましたね。何か買ってきますか」
「いや、そろそろ来るかもしれない。もう少し待とう」
中山は「はい」とまた、座り直した。
これから連絡が来るかは半信半疑だった。依頼主に直接会ったことがなく、連絡はメールと1回の電話のみ。しかし、前金の500万円は確かに振り込まれていた。もう半額は成功報酬とされていた。
女の口に手を近付けて呼吸の有無を確認する。規則的なリズムで息が当たる。一酸化炭素をどのくらい吸ったかわからないが、今のところ重症化はしてないように見える。
この案件は不可解なことが多すぎる。
まず、この女が誘拐される理由。両親はふたりとも会社員ではあるが、驚くような収入があるわけではない。本人はアイドル活動をしているようだが、収入も影響力もありそうには見えない。所属事務所にでも身代金を要求しようというのだろうか。
ふたつ目に犯行の手順のちぐはぐさ。渡されていた家の見取り図は正確であるにも関わらず、指定された犯行時刻にはターゲット以外にも家族が家にいて、深夜ということを考慮しても失敗のリスクは非常に高かった。
そして、さっき見た練炭自殺未遂と火災。他にも挙げたら切りがない。このまま簡単に終わらない予感がした。
窓の外を見ると、港の向こうに暗闇の海が広がっていた。
その時、スマホが鳴った。依頼主からだった。電話に出る。
『……』
「……誰だ」
『俺と取引しないか』
「あんた誰だ」
聞こえてきた声は前に電話してきた人物とは違っていた。
『誰でもいいだろう。お前たちが誘拐してきた女をよこせ。金は払う』
「前に電話してきた女と替われ。でないと、取引は無しだ」
『今は替われないない。金だけ払えば問題ないだろ』
男は苛立ちを隠さず言った。
「じゃあ、交渉決別だな」
相手のリアクションを確認する前に電話を切った。そのまま電源も落とす。シートにもたれ掛かると、自分が前かがみの姿勢で電話していたことに驚いた。
「これからどうするんですか」と運転席から心配そうな声が聞こえた。その問いに、「いいんだ。俺の家に行ってくれ」と答えた。
3人を乗せたSUVが廃港を出た約30分後、シルバーのセダンが同じ場所に停まった。
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