第26話 テディベア恐怖症
おれは、妹の部屋には入らない。
それは妹が、「おにい部屋に入ってこないで」と強くいわれているから。
……という理由もあるが。
実はもうひとつ、大きな理由があるのだ。
入らない、というと紳士的だが。
ハッキリいおう。
怖いのだ。
なにが怖いのか。
うっかりノックせずに妹の部屋を開けようもんなら蹴りかパンチが飛んでくる。
これが非常に訓練されており、とても痛いのだが。
それが怖いわけではない。
怖いのは、妹の部屋にあるものだ。
絶対におれは、アレを見たくはない。
だけど、おれは今、妹の部屋に入らなければいけない状況だ。
妹が助けを求めている。
行かなきゃいけないのに、足が動かない。
妹の部屋のドアの間で、おれはフリーズしてしまっていた。
時はさかのぼること三時間前。
おれは、なんでもない金曜の夜を過ごしていた。
心の洗濯機は、壊れたままで麗は修理をしようとしない。
おれも修理は必要ないと思っていた。
だって、また閉じ込めれたくないし。
まあ、心が洗濯されないと負の感情は積もる積もる。
しかしそれも人生。
大人になったら、もっともっと辛いことがあるだろう。
いや、でもさ……。
担当編集から休日に電話かかってきて彼女と間違えた、これからネズミー、初稿はいまいちだった、以上の苦痛とかあるの?
おれ、たぶんこのこと一生忘れないと思う。
まあそれ以上の苦痛が、大人になったらたくさんあるのだろう。
いやだな……。
それはともかく。
おれは、なんとか学校生活を生き延び、週末は小説を書いたりゲームしたり動画を見たりと忙しく過ごしていた。
そしてまたうれしい金曜日の夜がやってくる。
明日と明後日はなにをしよう、と思いつつスマホをいじる。
「このゲーム、動画の広告とぜんぜん内容がちがうじゃねーか!」
おれがそういってスマホをベッドに投げつけたその瞬間。
「キャアアアアアア」
隣の部屋から悲鳴が聞こえた。
妹だ。
「どうした?!」
おれは急いで妹の部屋のドアを開けようとしてやめた。
勝手にドアを開けることをためらっていると、部屋の中から妹の怯えたような声が聞こえてくる。
「おにい、たすけて……」
「どうした?! なにがあったんだ?!」
おれがドアノブに手をかけた時、妹は大きな声で答える。
「Gが出たの!」
「は?」
「Gだよ! いやあああ。こないでえええ」
「Gってゴキブリのことか?」
「いやだああフルネームいうなあああ」
「なんだ。不審者が入ってきたのかと思った」
「いやいや、これじゅうぶん、不審者でしょ!」
「虫だ虫」
「ねえ、おにい、そんなに冷静なら退治して!」
「わかったよ」
おれはそういうと、リビングから殺虫剤を持ってきて妹の部屋の前に戻る。
そして、ドアを開けようとしてはたと気づく。
妹の部屋にはアレがあることを。
麗ほどではないが、妹もそれなりにアレが好きだ。
いや、アレの仲間たちというべきか。
それはともかく。
おれは、あの一件以来、アレを見るのが怖い。
ぶっちゃけ、ゴキブリよりもずっと嫌だ。
そうだ、アレを見ないようにしてゴキブリ退治をしよう。
おれはそう考えると、意を決して部屋のをドアを開けた。
ゴキブリ退治はあっさりと終了。
妹は大喜びして、こういった。
「ねえ、G退治のお礼におススメの動画を見せたげるよ」
「それならライヌで送ってくれ」
「えー、いっしょに観ようよ! やんのかステップの猫動画だよ」
「やんのかステップ?」
「うん。見ればわかるよ」
妹はニコニコしながら動画を見せてくる。
おれはその間もソワソワしていた。
なるべくベッドのほうを見ないように、真逆の位置にある花柄のカーテンのほうをじっと見つめていた。
「おにい、これ見て」
母のおさがりのパソコンの画面には、猫が毛をさかだて、横に飛んでいる動画。
「なんだこれ!」
おれは途端に画面に目が釘づけになる。
「これだよ、やんのかステップ!」
「確かにやんのかって感じだな!」
「そろそろオチがくる」
「あっ、ベッドから落ちた!」
「きれいに落ちたよねー」
おれと妹はふたりそろって笑う。
妹とこんなに笑うのは、久々な気がする。
ああ、なんかいいな。
こうやって家族と笑うのって、幸せっていうんだろうな。
おれが穏やかな幸福を噛みしめていると。
「ねえ、おにい見て」
妹のほうを見ると、アレが視界に入ってきた。
アレ。
それはぬいぐるみだ。
正式名称は「こんがりテディベア」という。
テディベアをこんがりと揚げた、というコンセプトのきつね色の熊。
もとい、テディベアだ。
妹は、ベッドの上に置いたテディベアを横に動かし、さっきの再現をしてみせる。
「こんな感じだったよねー」
楽しそうな妹とは正反対に、おれの心に大きな恐怖がおそってくる。
テディベア……。
これは、あの時あいつだ。
おれはごくりと唾を飲み込む。
額から、手のひらから、嫌な汗が出てくるのがわかった。
「おにい、どうしたの? 顔色悪いよ」
「ああ、ごめん。ちょっと寝不足なんだ」
「そっかー。じゃあ寝るといいよ!」
妹はご機嫌でおれの背中をバシバシたたきながら部屋から追い出した。
自分の部屋に戻ったおれは、ふうと大きく息を吐いた。
心拍数が速い。
おれはベッドに横になり、額に手を当てる。
テディベア恐怖症。
そんな恐怖症があるかどうかは知らないが。
おれがそうだ。
しかも、すべてのテディベアというよりは、妹が持っているあのこんがりテディベア限定で怖い。あとはまあ平気。
なぜ、特定のテディベアがこんなに怖くなったのか。
あれは、おれが中学二年生の時。
麗が発明で市内の全員をぬいぐるみに変えた時だ。
その時、おれはテディベアになった。
あれは本当に怖かった。
もう思い出すのはよそう。
でも、テディベアを見たせいで、嫌でも脳裏にあの時のことが浮かんでくる。
もうこのまま寝てしまおう。
おれは灯りを消し、布団を頭まですっぽりとかぶる。
すると、あっさりと睡魔がおそってきた。
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