第24話 シャボン玉

「あれ、なんか大丈夫な気がしてきた」

「うん。おれも気持ちが落ち着いたし、なんか希望が湧いてきた」

「嘆いててもしょうがないよね。それに、時間がかかってるだけかもしれないし」

「ああ、そうだよ。麗は天才なんだから」

「えへへ。まあね」


 不安はどこかへいき、おれたちは笑った。

 しかし、ずっとへらへらしていられるわけではない。

 時間が経てば、ふっと正気に戻る。


「さすがに長くて心配になってきた」


 書庫の隅で体育座りをしながら、麗がそういった。


「そうだよな。おれはもう五冊も本を読んだ」

「じゃあ五時間くらい経ったのかな」

「そうなるな……」

「ここでの五時間は、現実だとたぶん一時間も経ってないと思うんだけど」

「それでも長いよな。前のは三分ぐらいで終わってたのに」

「うーん」


 麗がそういって立ち上がる。


 すると、またシャボン玉がふわふわと飛んできた。

 シャボン玉はおれと麗の間でパチンとはじける。

 途端に、おれの心から不安だけが取り除かれた。

 麗も同じらしく、気楽な表情に変わって、「ゲームしよ」といいながら書庫を出ていく。


 なんか、ちょっとおかしいぞ。

 でも、おかしいけれど、どうにかなると思う。

 今までだって、そうやってなんとかなってきたんだから。


「お腹減ったあ」

「おれも」


 おれと麗は書庫の床に寝転んでそんなことをつぶやいていた。

 あれから、どのぐらいが経過したのだろう。

 小説の量からすると、もう十時間経過したことになる。


 だけど、それは屋敷……いや、洗濯機の中での時間。

 現実ではそこまで時間は経っていないはず。

 それでも、腹は減る。

 だっておれたちがここで飲み食いしているのは、妄想。

 妄想で本当に腹は満たされたない。


「どうしよう。中からどうにかできないかなあ」


 麗がそういって、腕を組んだ時。

 シャボン玉がふわふわと飛んできた。


 これだ。

 このシャボン玉が飛んできた時。

 いや、このシャボン玉がはじけた時に、近くにいると不安が消える。

 不安は消えてくれたほうがいい。

 だけど、今はちがう。

 緊急を要するときに、のんきでいてはいけない。


「麗、シャボン玉からなるべく離れろ」


 おれの言葉に麗はシャボン玉から離れた。

 シャボン玉は、ふわふわと浮いて、だれもいない場所で止まってはじける。

 しかし、今度はおれも麗も神妙な面持ちのままだ。


「やっぱり。シャボン玉がはじけた時に近くにいると、不安が消えるんだ」


 おれがいうと、麗が、「そういう仕組みだったんだー」と目を輝かせる。


「いや、麗が作ったんだろ」

「えー。あんまり考えてつくってないからなあ」


 てへっと笑う麗に、おれはちょっと引いた。

 この人、よくわからず発明してんのかよ。

 ちょっと、いや、だいぶ怖ぇよ。


 おれたちは、たまにやってくるシャボン玉を避けつつ、この場所から抜け出す方法を話し合った。

 しかし、おれはそもそも発明はできないし、科学の系統には明るくないので大した解決策がでるわけもなく。

 おまけにここは妄想の空間。

 麗が中から出られるような装置を作ることすらできないのだ。


「詰んだ……」


 おれがそうつぶやいた時。



 書庫が消えた。

 文字通り、一瞬で視界から消えた。

 それから部屋がどんどん消えた。

 食堂も、寝室も、コンビニや美容院も煙のように消えていく。

 そして、とうとう屋敷ごとなくなった。 

 周囲は暗い空間だけが残ったのだ。


「翔こわいよお」


 暗闇で麗が泣きそうな声でいうと、おれは手探りで麗を探す。

 細い手をつかんで、おれはいう。


「ここだ」

「怖いよお」

「大丈夫だ。妄想が消えただけだろう?」

「そうだよ。でも、妄想の空間が消えるってことは、洗濯機が壊れたってことだよお」


 しくしくと泣く麗に、おれは何をいってやればいいのかわからない。

 なんとかしてやるよ。

 そんなこといえない。

 おれは、なにもできないんだから。


 暗闇に目が慣れてきて、隣の麗がぼんやりと見えた。

 麗は身を小さくして泣いている。

 なんだか幼い頃の麗を思い出す。


 よくいっしょに遊んでいた頃に、刑事と犯人ごっこをしていた時。

 当時はおれのほうが足が速くて、刑事役の麗を本気でまいてしまった。

 その時、麗は悔しくて泣いたのだ。

 それでおれはなかなか泣き止まない麗に、なけなしの小づかいでアイスをおごった。

 アイスはおれが当たり、麗はハズレで麗はまた泣いて……。

 これ、今思い出すような出来事か?


 なにはともあれ、麗はおれがいっしょにいてやらないとダメなんだ。

 なにもできなくても、そばにいて不安を和らげることはできる。

 そこでふと思う。


「不安な気持ちって、無理に消す必要なんかないんだな」

「……うん。わたしも同じこと考えてた」

「不安なまま普通に過ごして、それでなんかちょっと良いことあって、テンションちょっと上がって、嫌なことあってまたテンション下がったり、それが生きてるってことなのかもな」

「なんか哲学的」

「そうか?」

「うん。別に、無理に明るい気持ちになる必要なんてなかったのかも」

「そうだな。自分の機嫌は自分で取れるようになれっていうからな」

「でも、気づいたところでもう遅いよ」


 麗が珍しく弱気だった。


 大丈夫だよ、なんていえない。

 だって、おれももうここで一生このままなんじゃないかと思っているからだ。



 おれと麗はしばらく黙ってその場に座っていた。

 真っ暗な空間で音もないので、不安。

 だけど、麗と手をつないでいることで安心できたのだ。

 彼女の体温だけが、唯一おれが今ここに存在している、という証のような気がした。

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