第22話 麗の姉
月曜日、目覚めたのは朝の五時半だった。
窓の外はまだ薄暗いが、おれは学校へ行く準備を始める。
先週からまたそろって出張した両親に代わって、おれと妹が食事をつくるわけだが。
幸い、今日のご飯当番は朝が妹、晩がおれだ。
念のため、キッチンで当番表を確認すると、昨日回した紙製のルーレット(妹作)の矢印は、「おにい」が晩御飯、「栞」が朝食となっている。
それにしてもこのルーレット、「おにい」の面積多くね?
まあいいや。
おれは大量に買ってある家族共有の菓子パン棚から、焼きそばパンとコロッケパンと、それからメロンパンを取り出す。
焼きそばパンとコロッケパンは昼の分、メロンパンは今。
それからインスタントコーヒーでカフェオレを二人分つくった。
猫の顔の形のマグカップは、妹の。
まだ妹は起きてこない。
まだ六時前だから無理もないだろう。
おれは、妹のマグカップに埃防止の蓋をして、メロンパンをかじる。
妹はかなりの猫舌で、「熱々のカフェオレが冷めたころ合いが大好き」とかいっている。
我が妹ながら、ちょっと変わっているなと思う。
はあ、とため息をひとつ。
あーあ、それにしても……。
なんだろうな、この漠然とした不安が襲ってくるような感覚は……。
毎朝、毎朝、こんな感じ。
意味もなく消えたいとすら思う。
それは寒さのせいか、それともストレスが蓄積しているのか……。
まあ、昨日のあれこれはストレスといえばストレスか。
「学生でこんな状態なのに、社会人になったらどうなるんだよ」
おれはそういい終えたところで、メロンパンを食べ終えてカフェオレを一気飲み。
洗面所で寝癖を確認。
大丈夫だ、爆発してない。
おれは顔だけ洗うと、急いで家を出た。
早く麗に会いたい。
いや、そうやっていうと恋する男みたいだが……。
麗というか、あの洗濯機に会いたい。
使わせてほしい。
おれは家を出ると、真っ先にお隣の家へ。
しかし離れの家は鍵が閉まっていて真っ暗。
「いないのか……」
その瞬間。
ものすごい衝撃と痛みが背中に走る。
反動でごん、とドアにでこをぶつけ、うずくまった。
「あっ、な~んだぁ! よく見たら翔くんじゃなぁい」
ふんわりと甘い口調でそういったのは。
顔を確認しなくてもわかる。
外見と口調からは想像もできないぐらいに、暴力的な女子は、おれはひとりしか知らない。
「なんだと思ったんですか……」
おれはようやく立ち上がり、相手を見る。
金色の長いストレスヘアーに、掘りの深い整った顔立ち、華奢な体つき、そんな体を包むのはセーラー服。
麗の姉である。
ちなみに高校三年生で落ち着いた色合いのセーラー服は、女子校である。
まるで女神のような見た目をしているが、見た目だけだ。
「だってぇ~泥棒さんかと思っちゃったんだもん」
「すんません。勝手に庭に入って」
「いいの~。泥棒さんじゃないなら危害加えないから~」
ふんわりと笑う女神からは、殺意が消えていた。
泥棒だと思ったから飛び蹴りってすごいな、相変わらずだ。
「ねぇねぇ。麗ちゃんね、もう学校行っちゃの~。なんだかす~ごく重い物抱えてね~」
「そうですか、ありがとうございま――」
礼だけいって退散しようとした時。
ものすごい力で腕をつかまれた。
その細い指の、どこにこんな握力が。
「ねえ、お茶、飲んでいって? スコーンもあるの~」
姉は、「ね?」と小首を傾げてサラサラの髪の毛を揺らす。
このシチュエーション、普通の高校生男子なら胸がときめくシチュエーションなんだろう。
しかし、おれはこの女神の本性を知っている。
だってほら、右手に握られているのは、包丁……。
ぞわっと背中に悪寒。
おれの視線に気づいたのか、姉はいう。
「あっ、これね~。泥棒さんだったら、これで刺してあげようと思ってたの~うふふ」
「それは正当防衛ということですよね?」
いきなり刺したら、過剰防衛になるよう気がするがそれはいわないでおいた。
なにせ相手は鋭利な刃物を所持しているのだ。
「そう。もし、翔くんが泥棒さんだったら~、今月で三人目の犠牲者になるところだったねぇ」
「え、三人目? 犠牲者?」
「わたしとママのストーカーがねえ、いるのよお。ああ、いたの間違いねえ」
姉はいうと、包丁に視線を落として続ける。
「よかったぁ。まちがえて翔くんを刺しちゃわなくて……。本当に」
「あの……。ストーカーを、その、どうしてるんですか?」
恐ろしくなって聞いてしまった。
「大丈夫。殺さないわ」
姉はそういうとにっこり笑った。
ホッとしたのも束の間、彼女はこう続ける。
「殺してしまったら、再起不能にできないじゃない~」
「えっ」
「法的にギリギリの範囲でぇ、いたぶ……じゃない、こらしめるのがいいのよぉ」
姉は幸せそうに、まるでスイーツの話でもするかのようにいった。
いま、いたぶるっていいかけたよな……。
ダメだ、逃げよう。
そう思うものの、包丁が怖すぎて動けない。
「それじゃあ、家に入りましょう」と姉にいわれるがまま、連れて行かれる。
包丁には、赤黒いシミがいくつもある。
いや、気がするだけ、だよな……。
おれは泣くのをこらえて、学校へと向かった。
ようやく、ようやく解放された!
本当に怖い思いをした。
麗の姉の、「お茶」というのは建前で。
今まで自分をいじめてきた人間、ストーカーをしてきた男たちなど。
そういう奴らを捕まえて、どうやって社会的に抹消し、尚且つ、これから一生、怯えて生きることになるということまで知らしめているのだ。
こいつは、こうやってまずは社会的に抹消して一家離散もした、実際にこいつは痴漢をしていたから人間のクズだから、生かしておくだけマシ、みたいな話を延々聞かされた。
笑顔で、今までこらしめた人間の悪行の数々と、姉がした報復の詳細を聞くのに、スコーンとジャムとクロテッドクリームは重すぎた。
ミルクティーじゃ流し込めないくらいに。
確かに人をいじめたり、ましてや犯罪をするのが悪い。
しかし、だ。
それらに対して報復――しかもえぐいやつを聞かされるのは楽しいはずがない。
そんなこんなで、おれは泣きそうになりながら学校へ向かっているのだ。
心の洗濯機で、気分良くなりたい。
そのいっしんで、ただひたすらに歩いた。
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