第9話 すべらない……はずなのに。

 ポカン、とするおれに麗が肩を叩く。


「10%のすべる確率のほうが発動しちゃったみたいだね」

「じゃあ、もう一回撮り直そう」

「うーん。また笑えない。これすべる確率10%じゃなく、20……いや30%以上ありそう」


 麗はぶつぶついうと、ブレザーのポケットからティッシュを取り出す。


「とりあえず拭いて」とおれにティッシュを一枚くれた。

「動画はどうするんだよ」


 リップクリームを拭きとっていうと、麗は教室を出る。


「とりあえずリップクリームを元に戻すほうが先」

「改良版を改良するんじゃないのか?」


 おれも麗の後を追いながら聞いてみた。


「うーん。元に戻した方がまだマシだと思う」

「おれ、大勢の前ですべったままなんだが……」

「動画でアップする前でよかったじゃん」

「それはそうだけど……」


 あのたくさんのギャラリーの前ですべったことも、十分キツイんだが……。

 おれはクラスメイトたちの冷たい視線に耐え切れず、教室を飛び出す。

 行きかう生徒たちがみんなおれのことをあざ笑っているかのようだ。

 おれは化学準備室Ⅱに避難し、息をつく。


「まだできてないよ」


 麗の声に、おれは答える。


「いや、避難してきた」

「避難?」

「あんなに派手にすべったんだ……。みんなおれのこと指さして笑ってるよ」

「なーにいってんの。芸人だってすべることあるのに。素人の翔がすべらないはずがないって思うよ、普通」

「そうか、そうだよな」


 そうだ。麗のいうとおりだ。

 おれが「おもしろいキャラ」ということは学校には知れ渡っているので、たまにはすべることもある、と思われるだけか。

 そう考えておこう。

 さっきのすべった動画は、全世界に広まる前に麗が削除してくれたんだし。

 うん、全世界に醜態をさらすよりはいい。



 昼休みを終え、教室に戻るとなんだか視線を感じる気がした。

 まあさっき盛大にすべったしな……。

 ああ、早く忘れてくれないかなあ。


 そんなことを考えていると、四時限目は自習となった。

 ちょっと小説進めるかな。

 ひとりの世界に没頭できるし。

 さすがにパソコンを広げるわけにもいかないのでスマホにポチポチ入力していく。


「本野くん」


 青山がおれの席にきて、話しかけてくる。


「なにか用か?」

「いや、あの、謝らなきゃいけないことがあるんだ」

「え?」


 おれが顔を上げると、青山はなぜかもじもじしながら続ける。


「本野くん、さっき教室で動画撮ってもらってただろ? 松戸さんに」

「ああ、うん……。盛大にすべったやつな」

「ぜんぜん、すべってない!」


 青山はとつぜん興奮気味にいうと、おれに自分にスマホの画面を見せてくる。


「実はおれも松戸さんの後ろで動画を撮ってたんだ」


 そこには、「はっ、はじめましちぇ」と初っ端から噛んでいるおれの映像。

 傷口をえぐってくるなよ。


「すぐ消してくれ!」

「いや、それがあの、面白すぎて、SNSにアップロードしちゃって……」


 青山の言葉に、一瞬、頭が真っ白になる。


「は?」

「おれのSNSアカウントにアップロードしただけだから……。あっ、大丈夫。顔にはモザイクを入れたから」

「そういう問題じゃねーし、つーか、こっそりアップロードする気満々のやり方じゃねーかよ」

「大丈夫。おれのSNSアカウントフォロワー少ないから」


 そういって見せられた青山のアカウントのフォロワー数を確認。

 おれは自分の目を疑った。


「さっ、三千人?!」

「うん。少ない方だから」

「おい。さすがにこれはいやがらせだろ」

「おれは、純粋に本野くんのギャグが最高だから、みんなにも笑ってもらおうと思って……」


 青山はそういうと、おれの噛んだ動画を見てぶはっと吹き出して笑い出した。

 本当に笑ってる。

 これもリップクリームの効果か?


 だけど青山がアップロードしたおれの動画には、「おもろないな」とか、「つまんねー」とかいうコメントばかり集まっている。

 批判コメントをチラッと見ただけでも吐血しそうになった。


 やっぱおもしろくないんだ。

 青山が笑っているのが不思議なくらいに。

 本人のいうとおり、青山の笑いのツボはおかしい。


「早く削除してくれ」

「うんうん。わかってる」


 そういいながらも、青山は笑い転げていて、まともにスマホの操作ができない。

 おれはしかたなく青山のスマホを奪い、SNSから動画を削除しようとする。

 しかし、既にその動画は拡散され始めていた。

 おれは急いで動画を削除。

 手に嫌な汗をかいた。


 少しの間とはいえ、あんな恥ずかしい動画が全世界に発信されたかと思うと背筋が凍りつく。

 するとその時、後ろから肩を叩かれた。

 振り返ると麗がいた。


「ねえ、すべらないリップクリームの完全版ができたんだー!」

「元に戻すっていってなかったか?」

「それがなんか偶然できちゃった。つかうでしょ?」

「絶対にいらねえ!」


 おれはそういうと青山のSNSから動画を削除して、教室を出た。

 見張りの教師は教卓で堂々と居眠りをしていて助かったな。



 おれは廊下の隅の薄暗い場所で、自動販売機にもたれながら缶コーヒーを飲む。


 もう陽キャグループにいるのはこりごりだ。

 それに十分、おれはいわゆるキラキラした青春とやらを体験した。


 もういいだろう。

 ぼっち生活に戻るんだ。

 むしろ戻らせてほしい。

 人と関わるなんてもう疲れた。

 しかも、あんな動画を……クラスメイトや、他のクラスの奴らに見られた上に、青山に拡散までされて……。

 おれは頭をかかえてつぶやく。


「三か月ぐらい引きこもりてえ……」


 ぽつりとつぶやいた言葉は、冷えた廊下の空気と共に溶けた。

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