第230話 聖女と交通事故
王宮から出たレイナはそのまま大神殿の馬車に乗り、帰宅しようとする。
今日は学園も休みだが、レイナには聖女として神殿の聖務があった。
急いで帰る必要はないのだが、無駄なことをしている時間はない。王太子殿下とランチとかしている暇はないのである。
「出してください」
「かしこまりました。聖女様」
レイナがお願いすると、すぐに馬車が出発した。
走る馬車の横には護衛のテンプルナイトも並走している。
レイナに護衛が必要なのかどうかは、そのテンプルナイトですらも疑問に思っていたが。
「…………」
馬車の断続的な揺れに身を任せながら……レイナは無言。
クラエルと一緒にいる時は太陽のような笑みを浮かべているレイナであったが、一人きりの時はこんなものである。
むしろ……今は普段よりも不機嫌といえる。
(もう十一時間もクラエル様の顔を見ていません……だんだん、クラエル様成分が不足してきました)
学園に入学してから三ヵ月間はクラエルと離れて暮らしていたレイナであったが……彼が学園に赴任して日常的に顔を合わせるようになってから、一段といない時間を寂しく思うようになっていた。
「クラエル様……」
クラエルは本日、休暇を謳歌しているとのこと。
良いことだ。
いつも生徒のことを考えて頑張っているのだ。ゆっくり休んでもらいたい。
レイナはクラエルといつも一緒にいたいが、クラエルを傷つけたいわけではない。
多少のワガママは口にしても、それ以上の無理を要求するつもりはなかった。
「クラエル様……クラエル様……クラエル様……」
夢でも見るようにつぶやくレイナであったが……ふと、馬車が止まった。
レイナは顔を上げて、首を傾げた。
「どうかされたんですか?」
「申し訳ありません。聖女様」
外にいるテンプルナイトが答えた。
「どうやら、前方に怪我人がいて通れないようです。前を走っていた別の馬車が子供を轢いてしまったらしくて……」
「すぐに行きます!」
レイナが即座に決断して、座席から立ち上がった。
馬車から降りて、慌てたようについてくるテンプルナイトを引き連れて、怪我人のところに駆け寄った。
「あ……」
そこには意識不明の少女が倒れていた。
周囲には彼女を助けようとしている町の人、野次馬がいて、加害者らしき人物達が騒いでいる。
「ええい、邪魔だ! さっさと離さんか。ワシを誰だと思っている!?」
人混みの中で騒いでいるのは、身なりの良い中年男性である。
いかにも貴族といった風体だ。その男の顔にレイナは覚えがなかった。
「ワシはこれから大切な商談があるのだ! たかがガキ一人に構っていられるか!」
「いや、そういうわけにはいきませんよ。いくら貴族様でも、子供を轢いておいてそのまま立ち去れるわけがないでしょうが!」
騒いでいる貴族の男性、その周りには御者と護衛、そして町の警備をしている憲兵の姿があった。
状況から察するに……貴族の馬車が少女を轢いた。
そのまま放置して立ち去ろうとしているのを近くにいた憲兵が止めて、連行なり事情聴取なりをしようとしているのだろう。
この世界は王族や貴族の権力が強い。
だが……決して、無法というわけではないのだ。
貴族であっても法は守らなくてはいけないし、人を傷つければ処罰は受ける。
もっとも……貴族が平民を傷つけた時、平民が貴族を傷つけた時、それぞれに課せられる刑罰の間には隔絶した差があるのだが。
「たかが平民などに構っていられるか! ほれ、金はやるからさっさと消えろ!」
貴族の男性が金を地面にばらまいた。
そうして立ち去ろうとしている男性を、困った様子でどうにか憲兵が押し留めている。
「ハア……」
レイナが溜息を吐く。
仮にこれが不慮の事故であっても、加害者があの様子では悪人に見えてしまう。
とはいえ……彼を裁くのはレイナの仕事ではない。
レイナは足早に怪我人に駆け寄って膝をつく。
「う……あ……」
「大丈夫ですよ。すぐに治しますからね」
少女は頭に大きな裂傷、内臓にも損傷があるようだが……生きている。
死んでさえいなければ、レイナの神聖術で治すことができるだろう。
レイナが治癒魔法を発動させると、白い光が生じていくつもの傷が一瞬で消え去った。
「おお、治ったぞ!」
「白銀色の髪……もしかして、大神殿の聖女様!?」
「聖女様だ! 聖女様がいらっしゃったぞ!」
少女を治療したレイナに、周りにいた人々が喝采の声を上げた。
レイナが称賛の声を無視して少女を確認すると……脈も呼吸も安定している。もう心配はいらないだろう。
「あれ……お姉さん、天使様? ここは天国なの?」
少女が目を覚まして、茶色の瞳にレイナを映した。
「いいえ、ここはまだ現世ですよ。気分は悪くないですか?」
「うん……だいじょうぶ……」
「それじゃあ、お名前とおうちを教えてくれる? もしも後から痛くなったり、気分が悪くなったりしたら、神殿に行くんですよ?」
「うん! ありがとう、天使のお姉さん!」
レイナは少女の連絡先を聞いてから、帰宅するように促した。
少女が立ち上がって、大きく手を振りながら元気に去っていく。レイナも手を振り返した。
「さて……」
「フンッ! もういいだろう、さっさと解放しろ!」
貴族の男性がふんぞり返りながら、鬱陶しそうな顔をしている。
レイナの方を見ようともしないのは、もしかすると一抹の後ろめたさがあるからかもしれない。
「…………」
男の態度は不愉快だが……レイナにできることはない。
故意の殺人でもなく事故だし、彼が罰されるとしても罰金くらいだろう。
「行きましょう、聖女様」
「……そうですね」
テンプルナイトに促されて、レイナは馬車に戻ろうとする。
「おいおい、そいつはちょっと義に反してるんじゃないか?」
だが……ふと低い男性の声が聞こえてきた。
「…………?」
振り返ると……黒髪で同年代ほどの青年が貴族の男性に詰め寄っているところだった。
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