第十一話 愛の遺伝
初めて目を開けたときの記憶が、あのひとの苦痛に歪んだ顔だ。
俺には生まれつき右目が無かったという。出自についてあのひとに訊ねたことはなかった。困らせても悪いし、何より、あのひとは嘘を吐くのが大の苦手だった。
世界の仕組みについて知りはじめたのは、あのひとに生傷の絶えないことに気がついてからだった。あのひとは技術職の端くれで、魔力持ちの監督役の鬱憤晴らしを、他人の分まで受けてしまうような、そういうひとだった。そうして、俺はあのひとのことを見つめながら細々と生活していて、いつその傷の手当てをするんだと訊ねる前に、あのひとが額に大きな切り傷を作って帰ってきた。結構、血がドバドバ出ていて、傷跡が残った。その当時は魔力持ちが無魔力者に暴行を加えるなんてのは当たり前で、誰もそれに疑問なんて抱いてはいなかった。
当事者はそんなことはなく、もちろんあのひとよりも前に、無魔力者による魔力持ちへの叛逆というのはあった。魔力持ちが無魔力者に向けて魔法を使うとどうなるか、知ってるか? 肉食獣の獲物の草食獣。蜘蛛の巣にかかった羽虫。グリーン・デイに襲われた一般人。そんな感じ。
何があのひとをそうしてしまったのか、いまでもわからない。わからなくて、息が詰まって、答えを出そうとすると、先に気を失う。
あるとき、自然公園の中に、芸術作品として、無魔力者の建築家が一軒の家を建てた。そのひとは自分が無魔力者であることを隠していて、わざと獣人の土木作業員を雇って作業した。その頃は無魔力者の下に獣人が置かれていたから。
で、バレた。無魔力者ってことが。
人間界と違って、魔法界での晒し者は殺されはしない。苦痛がなるべく長く続くように、魔法で長らえさせられながら、朝から晩まで休みなく、通行人から石を投げられる。誰かの置いたナイフで薄く肉を刻まれる。力自慢たちのサンドバッグにされる。惨いことは、みんな考えるのが得意だ。目を逸らして逃げるヤツのことを捕まえて、石を投げるまで見張ったり。そんなに、想像に難くないと思う。
数日経った朝、磔にされていた建築家の姿は何故か、俺とあのひとが住んでいた廃倉庫の片隅にあった。もちろん俺じゃない。ガキの俺には理由がわからなかった。そのあたりから、あのひとは活発に動くようになった。廃倉庫への他人の出入りも増えて、中には獣人もチラホラいた。
あのひとの活動は日増しに過激になっていった。望んでやっているときもあれば、俺を抱いて泣きながら恐怖に震えているときもあった。弱いひとだった。強くもあった。逃げたヤツを追わず、来るヤツは広く受け入れた。
そのままあのひとが祭り上げられていくのを、俺は止めなかった。止めればよかったのか、でもそうしなかったら、現在に至るまで無魔力者は社会の底辺を這いずり回るしかできなかったと思うし、考えがまとまらない。俺はどうしたらよかったんだろう。
後悔。遅いんだ。そんなことしたって、あのひとは戻って来ないし、戻って来たとして、あのひとは救われない。居場所がない。
確実なことなんて何もない。俺があのひとのことで確実だと言えることなんて何一つない。俺はあのひとに、どう思われていたんだろうか。邪険にされたことはなかった。でも、片時も離さずに置かれたわけでもなかった。爆破テロの現場には連れて行かれたことはなかったし、演説のときはいつも背中に回されていた。
あのひとにくっついて、無魔力者への差別廃止訴求運動を続けて、続けて、続けて、いや、あのとき俺は何もしなかったが、それが関係あるかどうかはさておき、社会は一向に変わらなかった。少しは減ったかもしれない。でも、それは、磔にされている無魔力者のそばを通るとき、母親が子に「あんまり見ていると無魔力者の仲間がやってきて石を投げてくるよ」と囁く、そんなようにしか、ならなかった。
あのひとはそれをやはり、酷く嘆いた。まだ幼い俺を抱きしめて、さめざめと泣く。今日は誰が捕まったとか、明日には一つ計画を実行に移さなきゃとか、独り言だったけど、俺を抱きしめて、離さず、撫でたりなんてしながら、泣いていた。
過激派組織「アルラウネ」なんて呼び名が付く頃、警察だったヤカツ学長が仲間内に入ってきた。もちろん、警察のスパイとしてだ。当時は気づけなかった。馬鹿だ。世間知らずのくせに、社会に働きかけていた。それにもちろん、学長は優秀だったので、こちら側に警察の嘘の情報を流して、警察にはこちら側の活動計画を流していた。それでも遅かった。あのひとはもう、ダメだった。
どんな誰でも、あの段階に至ったあのひとを救うことはできなかったと思う。この俺が言うんだ、間違いない。皮肉だ。
正直なところ、あのひとのやりたかったことなんてのは、誰にもわからない。たった一つだったかもしれないし、漁夫の利も狙っていたのかも、わからない。残された結果からでも、それは、わからないままだ。
「もう、
あのひとのことを、俺はどう思っていたんだろうか。でもそうか、これだけは、確実だ。こう言われたとき、やけに嬉しかった。
魔法界のいたる場所に、とにかく爆弾を仕掛け、過激派組織アルラウネの構成員はほとんど全員が吹き飛んだ。多数の一般人や警察を巻き込んで、あまりの爆発の規模に、魔法界の地盤ごと歪めて。
止めよう、止めよう、と、あのひとはしきりに言っていた。あの建築家が残した一軒家は、魔力持ちは穢いと言って近寄ろうとしなかったから、いつの間にか俺たちの棲家になっていたけれど、奥の広間には、来ないよう言われていた。あの日俺は初めてそこへ連れられた。
「作ってみたんだ。すべて、おしまいにしよう。これはね、ダチュラ。魔法界と人間界をつなぐための装置だよ。どうして必要なのか、わかるかい。止めるためだよ。魔法界はね、人間界の人間たちが信じているから、存在していられる。ほんの一部の人間たちが、僕たちと接触をはかり、魔法を持ち帰る。知っているかい? 人間はほとんどが無魔力者なんだよ。どうだろう、そこへ、無限の魔法が流れ込んでしまったら。人間は、賢いから、魔法界なんてすぐに侵略されてしまって、おしまいだ。でも、それでいいと、僕は思う。いらないんじゃないかな、魔法界とか、人間界とか、そういう……境界のようなものは。悪いのはぜんぶ、魔力持ちなんだから。魔力があるとかないとか、そんな適当な線引きで、誰かを虐げるつまらないことをする、魔力持ちが、ぜんぶ、引き受けるべきなんだよ。この社会構造は、負債なんだ。だから魔力持ちなんてものが特別じゃなくなるように、無魔力の人間たちがこちらへやってこれるように、境界を、なくしてしまおう。火力はじゅうぶん。このスイッチを押したら、みんなが止められる。ダチュラ、どうかいっしょに押してくれないかな。僕はね、きみがいたから、この決心がついたんだ。ね、止めよう。僕はきみとがいい。ここに手を置いて。そうだ、そう」
何故か、一言一句に至るまで、覚えている。俺はあのとき、感動していたから。求められることの嬉しさを知った。同時に疑ってもいた。あのひとがどうしてここまで俺にこだわるのか、ちっともわからなかったから。
好きだと、言われたことが、なかったから。
学長が「両手を挙げなさい」と割り込んできたので、俺はあのひとの背後に回された。学長は必死に説得してくれていた。無魔力であることは私も同じ、ここまで警察で実力をつけてきたのは、正しい道から無魔力者たちへの差別撤廃を促すためだ、と。だから過激な方法での主張を即刻やめ、世相の混乱を落ち着かせるように、と。
聞かないだろうなあ、と思った。それで、まあ、結果として、聞かなかった。だからいまの世の中がこうなってるんだけど。
あのひとは乾いて笑って言った。
「もう無理でしょ」
そのとき初めて、あのひとの気持ちの一つを知ることができた。
諦めてたんだ。ぜんぶ。疲れてしまったんだ。
どれだけまともに働きかけても聞く耳持たない魔力持ちども。自分はそんな高尚な存在ではないと何度言い聞かせても狂信するだけの無魔力者たち。何もかもに疲れてしまって、言葉だろうと力だろうと、伝わらないものは伝わらないんだと、諦めてしまったんだ。
そうして、世界のすべてを諦めるにまで至ってしまった。どれだけの量の爆薬を用意すればいいのかもわかっているし、実際に用意してしまったし、もう後には退けない、そんなタイミングで中断しろと言われても、無理だ。そんなのは、誰にでもわかる。そこまで聞き分けのいいヤツでいられる状況じゃ、とうになかった。
だから余計にわからなくなるんだ。何故この装置は中途半端な厄災を招くだけになってしまった?
「もう無理だって。きみだってわかってたでしょ。僕はもう破綻している。元になんて戻せないくらいぐしゃぐしゃでめちゃくちゃ。だから突入に踏み切った」
学長はそれでも説得を続けてくれた。若かったからだと本人は笑っていたが、きっと違う。打算的になんてならない学長のことだ、きっと本気であのひとを救いたいと思ってくれていた。あのひとは、それを受け入れなかったけれど。
「せめてダチュラといっしょにやりたかったけど……それを許されないのが、僕への罰なのかも。ダチュラ、彼女たちのところへお行き」
もちろん断った。そこで離れたらあのひとがどうなるのか、わからないわけないだろう。でもあのひとは最期に俺を優しく抱きしめて、抱き上げて、学長に差し出した。抱き上げられた時点で、暴れるだけ無駄だと思ったから、大人しくしていた。
そうしたらもう、装置まで走って、撃たれても走って、あのひとは装置のボタンを押した。俺と共に「止める」ことはできなかったが、あのひとは一人でそれをやった。
俺は学長の連れていた隊員にすぐさまどこかに連れて行かれたから、あのひとの最期の姿は見ていない。でもずっと、あの絶叫だけは、そこにある。耳に残っている。俺を閉じ込めた夜の中に、あの絶叫が響き渡っている。
だから俺はこの夜から出ることができない。救われていて、囚われていて、たぶん、愛されているから。
だって悲しかったんだぜ。あのひとが死んだことは、俺には本当に悲しかったんだ。でもあのひとは最期まで、俺を愛してるとは言わなかった。だから、わからない。俺のこの思いは愛なのか、それとは違う何かなのか、わからない。誰も教えてくれなかったし、知りたくても、俺には他に、誰もいなかったから。
続
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