第3話 桜先生と受験勉強②
時間が刻々と過ぎていき、お昼に差し掛かろうとしていた。翔太が過去問を解いている間、桜は部屋にある漫画を読んで、解き終わるのを待っていた。
どちらかといえば翔太は、理系科目よりも文系科目の方が得意であった。そのため、国語を難なくクリアし、習っていない範囲もあった社会もスラスラ解いていった。しかし、
「わ、わからねぇ…」
問題は英語だった。初めて見る英単語に、文法。どれも中学の授業ではお目にかかった事が無く、手が進まない。そして最大の難関は、見開き2ページにわたり書かれた長すぎる文章問題だった。
「ちょっと、まだ制限時間半分以上残ってるよ」
「いや、もう無理…」
翔太は机に突っ伏す。今まで体験したことの無い長文に屈してしまった。それを見た桜は、読んでいた漫画を置き、翔太が解いていた過去問をパラパラと見る。
「あーこれはちょっと難しかったかー」
一通り目を通すと、申し訳無さそうに翔太を見る。
「ごめん、そういえば嶺苑の英語は大学入試レベルだって言ってたかも」
「それ先に言えよ…」
翔太はため息をつき、持っていたシャーペンを置いた。中学レベルの英語しか習ってきおらず、中の下レベルの彼にとって、解けないのは当然だった。
「何が難しい所は無いだよ。英語だけゲキムズじゃねーか」
「私はそんなに英語は苦手じゃなかったし、受けた時は難しいとか感じなかったから、そう思ったのかも」
「英検準一級を持ってる人だとそうでしょ」
桜は中学生の時に英検準一級を合格し、TOEICも800点以上取っていた。おまけに、ホームステイの経験もあり、ネイティブレベルの英語を話すことができる。そんな彼女であれば、大学入試レベルの英語は楽勝なはずである。
「俺この前英検3級落ちたレベルだぞ。もう無理じゃね?」
「ま、まぁ他でカバーすればなんとか…」
桜はフォローしたが、顔は少し引きつっており、やはりこのままではまずいようだった。勿論翔太自身もそれを感じていた。国語と社会の時は意外といけるのではと思っていたが、英語になるとそれは一転し、絶望へと変わった。そして追い打ちをかけるように桜が言う。
「本当は最低全教科80点以上は取っていたもらいたいけど、この様子だと英語は6割取れればいいかな。それであとは他教科で90点取ってカバーするしか…」
「ま、マジっすか…」
もはやそれは絶望的だった。国語と社会なら80点を取れる可能性はあったが、90点はもう一つのミスも許されないレベルで取り組まなければならない。それに、苦手な理系科目も高得点を取らなければいけなくなってしまった。
この状況に、全国大会で多くの逆境を跳ね返してきた翔太といえども、諦めの気持ちが芽生え始めていた。
「だ、大丈夫だって!国語と社会はいい感じだし、頑張れば100点だって取れるよ!」
「無茶言うなよ…」
もはやそれは励ましにもなっていなかった。翔太は過去問を手に取り、パラパラと見る。だが頭には入っていない感じであった。すると突然手が止まり、桜に尋ねる。
「これ何て読むんだ?」
過去問にある一つの英単語を指差し、桜の前に差し出す。それは翔太が初めて見る英単語だった。
「ガ、ガル、ガルニ」
「𝓰𝓪𝓻𝓷𝓲𝓼𝓱𝓮𝓮」
「え?」
「もっかい言うよ。𝓰𝓪𝓻𝓷𝓲𝓼𝓱𝓮𝓮」
「ガーニシ?」
ネイティブかのような発音する桜に対して、翔太の発音はカタカナを読んでいるかのようだった。それに、発音が良すぎて殆ど聴き取れ無かった。
「ん〜だいたい合ってるけど、ちょっと気になるなぁ〜」
「何が?」
「発音だよ、発音」
翔太からすればそんなのはどうでもよかったが、英語が得意な桜からすればかなり引っ掛かるようである。そして、人差し指を唇に当て、見るように促す。
「いい?こうやって発音するの。真似してね」
「お、おう」
「𝓰𝓪𝓻」
「ガー」
「𝓰𝓪𝓻」
「gar」
「𝓰𝓪𝓻𝓷𝓲𝓼𝓱𝓮𝓮」
「garniシー」
「𝓰𝓪𝓻𝓷𝓲𝓼𝓱𝓮𝓮」
「garnishee」
桜が発音し、翔太が続く。しかし、真面目にやる桜に対して翔太はそれどころではなく、別な事を考えていた。
(唇、柔かそー)
口元に夢中だった。しっとりと艷やかな唇に、真っ白い歯。さらに、滑らかに動く舌は、どこか妖艶さを感じた。動くたびに強調されるので、段々と翔太の顔が紅くなる。
(だ、駄目だ!これ以上見たら!)
堪りかねて顔を反らしてしまった。それを見て桜は発音を辞める。
「ん?どうしたの?」
心配したのか、翔太の顔を覗き込もうとする桜。折角、悶々とした気持ちを抑えようと視界から消したモノがまた翔太の目に入る。
「わわ、き、急に近寄るなよ!」
「そんなー心配しただけなのに」
桜は口を尖らせる。
(だから唇を動かすのは辞めろ!)
桜の仕草は、思春期の男の子にとって少し刺激的だった。もう発音どころでは無くなり、翔太の視線は唇にばかりに行ってしまう。しかしこのままでは変に心配されてなかなか先に進まないので、話題を逸らす。
「だ、大丈夫だから!それより、garnisheeって、どういう意味なんだ」
「ん?これはね、確か『差し押さえ』とかだったと思う」
「あんまりいい言葉じゃねえな」
「あはは、確かに。あと他には…」
そう言って桜は、スマホ操作する。なんとか話題を逸らせたため、翔太はホッと胸を撫で下ろす。しかし、
「第三債務者」
その言葉を聞いて、再び胸がドキッとする。詳しい意味はわからなかったが、債務者という言葉が出たことに何か宿命的なものを感じた。そして桜は、翔太が親の借金を肩代わりしているのを知っていて、わざと言ったのではないかと疑う。
「やっぱり、調子悪いんじゃない?」
今度は顔が青ざめていく翔太を見て、再び桜が心配する。
(いや、あの人がその事まで話すとは思えない。思い過ごしか…)
翔太は桔梗の顔を思い浮かべる。めちゃくちゃだが、約束は必ず守る人だった。そのため桜に漏らすはずが無く、先程の事は偶然だと思うことにした。
「ホント大丈夫だから。長時間過去問解いて疲れただけだ」
「あー確かに、3時間位やってるもんね」
桜が時計を見ながら言う。何とか誤魔化す事ができ、再び胸を撫で下ろす。するとタイミングよく亜由美がやって来て、ご飯ができたことを伝える。
「続きは午後からやろっか」
そう言って立ち上がり、亜由美と共に部屋出ていった。一人残された翔太は、ため息を付く。
「やっぱり、あの様子だと気付いて無いみたいだな」
そして安心したのか、翔太のお腹が鳴り、二人の後に続いて部屋から出たのだった。
「よし、今日はこんなところかな」
「お、終わった~」
長時間の勉強から解放され、翔太は仰向けに倒れる。外から西陽が入り込み、時間は5時を過ぎていた。昼食後、殆ど休憩をせず机に向かっていたため、翔太の脳味噌はパンク寸前だった。
「もう一生分勉強したかも」
「そんな大袈裟な。これじゃあ先が思いやられるねぇ」
桜が頬杖をつきながら言う。しかし翔太にはもう言い返す余力も殆ど無かった。
「あ、そうだ。聞きたかったんだけど、何で
「え?」
倒れ込んでいた翔太が体を起こす。いきなり聞かれたので、何と答えていい分からず、答えるのに時間を要した。
「な、何でって…」
「だって、あんなに野球バカだった翔ちゃんが、どうして野球部の無い所入ろうと思ったか気になるじゃん」
「バカって言うな、バカと」
桜には、桔梗を通して嶺苑に行くとしか伝えていない。それに加えて、翔太の夢を誰よりも応援してくれたのだ。それが何の前触れも無く嶺苑に入ると言い出せば、気になるのは当然だった。
「勉強したくなっただけ」
「ホントに?」
「あ、あぁ…」
桜が翔太に疑いの目を向ける。理由としては確かに弱かったが、本当の事を言う訳にもいかず、こう言うしか無かった。すると何を思ったのか、桜がニヤニヤしながら翔太を見る。
「な、なんだよ…」
「もしかして、女の子目当て?」
「はぁ!?」
翔太が大声を上げる。何を言うかと思えば、実にしょうもないことだった。
「そぉかぁ〜翔ちゃんも思春期だもんねぇ~今まで野球ばっかりやってたから、女子に飢えてても仕方ないかぁ~」
「違うって!だから勉強したくなっ」
「ついこないだまで甲子園目指してた人が?」
「うっ…」
そう言われて翔太は何も言えなくなる。確かにいきなり方向転換したことは怪しまれても仕方なかった。それに、進路希望先があの嶺苑とあっては、そう思われるのも当然だと翔太は思った。
しかし、次に桜の口から発せられた言葉は意外なものだった。
「ま、理由はどうあれ、私は一緒のとこ通えたら嬉しけどね」
「えっ」
甲子園に行く夢を捨て、女子目当てで嶺苑に行くことに桜は幻滅したと思いきや、逆に受け入れてくれた。さらに理由は深く聞かない事に翔太は驚き、桜に尋ねる。
「それでいいと思うか?」
「うん。翔ちゃんが決めたことだし、別に否定するつもりは全く無いよ」
桜はあっけらかんと答える。何事も否定せずに相手の事を尊重するのは昔からであり、彼女のこういう性格は、翔太にとっても非常にありがたかった。
「でも、わからない単語が多かったし、このままじゃあやっぱりまずいね」
「…」
染み染みと思っている所から、急に現実に戻される。実際午後からの勉強では、英単語の意味を調べそれを覚える事に終始し、1年分の問題しかできなかった。かといって膨大な量の英単語を短時間で覚える事はできず、一つ覚えては一つ忘れ…の繰り返しだった。
すると、桜が鞄の中を漁り出し、取り出した物を翔太に差し出した。
「そんな翔ちゃんには、はい」
「何コレ?」
「『ユニット英単語』。略してユニタン!高校生の必需品だよ」
翔太はユニタンを受け取り、パラパラとめくる。そこには大量の英単語とその意味などが書かれていた。それを見て、一瞬目眩がしそうになった翔太だったが、これは辞書代わりに使えると感じた。だが、桜の意図は違った。
「これを入試までに全て覚えてね」
「は?嘘、だろ」
「嘘じゃないよ。これ位しなくちゃ入試解けないもん」
翔太は、もはや返す言葉も無かった。一年近く時間があるとはいえ、2000語以上の英単語を全て覚えるのは無理に等しく、投げ出してしまおうかと考えた。
「毎週単語テストするから、ちゃんと勉強してね。あとそれだけだと覚えられないだろうから、付属のCDも聞いて発音もマスターすること。いい?」
「ま、毎週やるの!?」
どうやら投げ出せそうに無かった。覚えきるまで、この分厚いモノとは離れられない事を悟った。
そして桜は優しく笑顔で言う。
「これからは、それを恋人だと思って扱ってね」
「い、嫌だぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!」
人生初めての恋人?ができた翔太の叫び声が街中に響き渡り、桜との受験勉強が続くのだった。
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