第一章 受験勉強篇

第1話 翔太、脅迫される


 彼には夢があった。


 澄み渡った空に、照りつける太陽。多くの観客が歓声を上げながら見つめるその先に自分がいる。そんな甲子園のマウンドで投げ、優勝する。そんな大きな夢が…












 中学三年になったばかりの野球少年中村翔太は、友人の母親の獅子倉桔梗ししくらききょうに呼び出された。高級なカーペットにソファ、テーブル。埃一つ落ちてい

なさそうな応接室に二人きりの状況に、翔太は生きた心地がしなかった。


 座ってから数分が経ったが、なかなか話し始めない。体中から汗がどんどん出てくる。時計の針の音しかしないこの空間に、何時間もいるような感覚だった。


 桔梗が手に持った煙管を吸い、ふーと煙を吐くと、ようやく口を開いた。


嶺苑れいおんに入りなさい」


「は?」


 理解できなかった。間違いかと思い、聞き直す。


「いや、おばさん。突然何言い出すんだ…」


「聞こえなかったかい?嶺苑に入れと言ったんだ」


「そうじゃなくて!」


 嶺苑とは、元女子校の進学校『私立嶺苑学園』のことである。その学校は、幼稚園から大学まで運営しており、中にはエスカレーター式で大学まで行く者もいる。これまで男子は中等部までであったが、数年前にスポーツ推薦のみ男子の入学が許可され、来年からは本格的に共学化することになった。


 だが、嶺苑には野球部がなく、甲子園で優勝するという夢を持つ翔太には、進路先の候補には全く入っていなかった。


「俺が甲子園に出るのが夢なの知ってるだろ!」


「ああ知っているさ」


「じゃあなんで!」


 翔太は当然の如く怒った。桔梗が翔太の夢を知っていながら、それを打ち消すようなことをするのは理解できなかった。


「まあ、そう怒るな。これには理由がある」


 怒る翔太をよそに、桔梗は優雅に煙管をふかす。四十代とは思えない若々しさと気品ある雰囲気から、それはとても様になっていた。しかしその振る舞いが翔太をさらに苛立たせる。


「理由?そんなもんあるわけ」


 そこまで言うと、桔梗は右手を翔太の前に突きだし、言うのを静止した。翔太は言うのを辞めて、黙って聞くことにした。桔梗は手を引くと、そのまま話し出す。


「嶺苑が来年共学化するのは、お前も知ってるだろ」


「ま、まあ」


「あそこは男慣れしていない生徒も沢山いる。そんな中、共学化したことの良いことに、女目当てで入ってくる男がいるかもしれないだろう?」


「それは、あり得るかもなぁ」


 桔梗の話に翔太は頷く。美女率が非常に高い嶺苑には、生徒を一目見ようと学園祭の時には、多くの人がやってくる。しかしそれ以外は、防犯上生徒や学校関係者以外入ることができず、生徒は全員車での送迎か、スクールバスで通学している。


「それに桜と瑞希も通っている。親としては何かあっては心配だ」  


「え、桜達?あいつらは別に男が苦手とかないだろう?」


 桔梗の二人の娘、獅子倉桜と瑞希みずきは一卵性の双子の姉妹であり、翔太とは物心がつく前からの幼馴染である。二人共母親譲りの美形でスタイルもよく、特に妹の瑞希は、高校生ながらモデルをやっている程である。しかしあまりにそっくりなので、同じ格好をすると、翔太でさえもどっちがどっちだかわからない時もある。


「それにあいつら空手やってるし、何かあっても返り討ちにできるでしょ」

 

「そういう問題じゃない」


 桔梗は呆れたかのようにため息をついた。一体何が問題か、翔太にはわからなかった。


「いいか翔太。いくらうちの娘が強いといっても、年頃の女の子だ。危ない目にあった時、男に守られたいと思うだろう。だからお前が二人を守ってくれ」


「はぁ?」


 今度は翔太が呆れる。


(いい歳して何言ってんだこのおばさん)


 桔梗は時々恋愛脳を爆発させる時がある。彼女の書斎には多くの少女漫画やラノベが置いてあり、入っただけで胃もたれするほどだった。そんな彼女を翔太だけでなく、娘達も冷ややかな目で見ていた。


「あのさあ、趣味は否定しねーけど、巻き込むのは辞めてくれ」


「何だ、桜と瑞希では不満か?」


「そーゆーことじゃなくて!」


 こうなっては話が通じない。翔太はどうしたもんかと頭を悩ませる。しかし桔梗は気にせず口を開く。


「それに嶺苑に入学して、大学まで行くことができれば将来安泰だぞ?」


 嶺苑には起業家や政治家など、国内外で活躍する多くのOGがおり、たとえ男子であってもその影響力は計り知れない。しかし翔太からすれば、そんな事はどうでもよかった。


「でも野球はできないだろ!」


「別に部が無くたってできるだろう」


「そうじゃなくて、俺は」


「貴重な青春時代を全て野球に捧げるなんて勿体無い。普通の高校生みたいに、学生生活を過ごしてもいいんじゃないか」


「…」


 高校デビューをして、多くの友人、そして恋人を作る。そんな三年間を思い描いた事は一度も無かった。


「俺には、そんなの…必要ない」


 小学生から野球を始め、順調にステップアップしてきた。直近の大会でも結果を残し、いくつかの強豪校からスカウトもされた。夢が叶うまでもう少しなのだ。だから、遊んでなんていられない。


 翔太は拳を強く握りしめた。そんな様子を見て、受け入れそうにないと思ったのか、桔梗はB5サイズの封筒をテーブルの上に置いた。


「何、これ?」


「開けてみな」


 翔太は封筒を手に取り、中を開けると、一つの書類が入っていた。そこには『借用書』と書かれており、金額と両親の名前。そして桔梗の名前があった。


「そこにある通り、お前の親は私に借金がある」


「い、一千万って…」


 かなり衝撃を受けた。親からそんな話は全く聞いておらず、様子も感じなかった。


「お前には心配かけたくないと、黙っていたんだろうな」


「だけどこんな金、何に…」


「野球の道具代に遠征代、その他諸々。結構掛かってたんじゃないのか」


「なっ!」


 獅子倉家とは違い、中村家はお世辞にも裕福とは言えない。それにもかかわらす、野球に必要なものは何でも買ってくれたし、遠征にも行かせてくれた。そして、自宅でも練習しやすいようにと、広い家を購入し、自主練がしやすい環境も整えてくれた。


 心当たりがあった。


「う、うぅ…」


 翔太は、自分が知らないところで両親が苦労していたことに涙を流した。申し訳ない気持ちに加えて、何も知らなかった自分に腹が立った。


「あいつらは、お前のためなら何だってやる。それくらい大切に思っているんだ。わかったか」


「ああ」


 書類を置き、涙を拭う。元々感謝はしていたが、その気持ちがより一層強まった。


「だけと、こんなもん見せてどうしよってんだ」


 翔太にはこれを見せた意図がわからなかった。別に両親の行為に対して無下にしている訳でもないし、反抗的な態度を取っている訳でもない。こんな事をしたところで、何の意味があるのだろうか。


 すると桔梗はニヤッと笑い、持っていた煙管の火を消し、灰皿の上に置いた。


「交換条件だ。もし翔太が嶺苑に入学したら、借金を帳消しにしようじゃないか」


「え!」


「勿論一気にじゃない。受験に受かったら500万。そして毎月20万ずつ減っていき、娘達が何事もなく卒業できたら、残りはそれで完済。どうだ、悪い話じゃないだろう?」


 一千万円なんてお金、普通に返したら何十年とかかってしまう。それをたった2年で、しかも中村家側の出資は無しとかなりの好条件だった。


「おまけに無利子だぞ」


「な!い、いいのかよそれで!」


「亜由美と私のよしみだ。それに、それくらいなら別に大したことないしな」


「か、金持ちぃ~」


 流石は、最低数百億円の資産を持つ獅子倉グループの若き女社長だ。一千万位ならいくらでも捻出できるということだろう。規模がデカすぎて、翔太は頭が痛くなっていた。


「さあ、どうする?条件を呑めば、親孝行にもなるぞ?」


 翔太は迷っていた。夢を貫くか、将又借金を完済させるために、嶺苑に入学するか。今までのことを振り返り、思案する。だが、両親の顔が浮かぶと踏ん切りがついた。


「わかった、入るよ、嶺苑」


「そうか!決心したか!」


「だが、借金完済の約束、絶対守ってくれよ」


「ああ」


 二人は握手を交わした。嬉しそうな桔梗とは対象的に、翔太は渋々という感じだった。


「じゃあまずは入試だな。大丈夫そうか?」


「大丈夫な訳あるか、こちとらまともに勉強したことないぞ」


 翔太の成績は決して悪くはなかったが、嶺苑のレベルには及ばなかった。まだ時間はあるとはいえ、そこまで学力を上げられるか不安だった。


「まあ、あと一年近くあるし、死ぬ気で頑張るしかないな」


 そう言うと、桔梗は翔太の肩をポンと叩き、応接室から出ていった。一人残された翔太は、「ハァ〜」とため息をつくと、ソファの上でだらけ始めた。


「なんで受けちまったんだろ」


 今になって少し後悔していた。じっとしているのが苦手な翔太にとって、1年間の受験勉強はまさに苦行だった。しかし彼の性格上、一度やると決めた事を投げ出すことは許せなかった。


「やるっきゃねーか」


 そう言って、借用書が入っていた封筒を手に取ると、ワンサイズ小さな紙が入っていた。


「ん?なんだこれ?」


 見ると、それは嶺苑学園のパンフレットだった。そこには学校の詳細が書かれており、裏面には部活動や学校行事の時に撮ったと思われる写真が載っていた。そこに写っていた生徒達は、噂で聞いたよりも普通の高校生野ようだった。翔太はそれを見て、自分が入学できたらどうなるか考えた。


 


「まあ、それも悪くないかもな」


 翔太が少しも笑みをこぼすと、応接室のドアがいきなり開いた。


「うお!びっくりしたー」


「あー悪い、ちょっと言い忘れたことがあってな」


 入ってきたのは、桔梗だった。ソファには座らず、その場で話し始めた。


「受験勉強の期間、お前に家庭教師を付けようと思う」


「家庭教師?」


「そうだ。一人でやるよりよっぽどいいだろう」


 翔太は、そうしてくれるならありがたいと思った。いくら勉強しても、自分一人では限界があり、合格する自信が無かったからだ。


「そうしてくれるなら助かるけど、いいの?」


「ああ、勿論だ」


 すると、含みのある笑みを浮かべた。


「な、なんだよ」


「ちなみに家庭教師なんだが、桜と瑞希に頼んだから」





















「は?」


「さっき頼んだら、二つ返事で了承してくれたぞ」


「いやいやいや!ちょっと!」


 突然の事に、翔太は理解が追いつかない。それに、二人とも忙しいのに、躊躇いもなくOKを出したのにも驚いた。


「なんだ、現役JKから教われるんだぞ。最高だろ?」


「JK言うな、JKと。しかも娘に」


「特に桜なんて、また一緒に通える!って喜んでたぞ」


「それはそうだけど…」


 翔太も二人と一緒の高校に通えるのは嬉しいが、忙しい中、自分に時間を割いてくれるのは申し訳なかった。加えて、翔太も思春期の男の子だ。幼馴染みといっても、やはり多少は意識してしまう。


「あの二人の学力なら問題ないからな。それに、わざわざ家庭教師を雇わずに済むし」


「ああ、そういうことですか」


 それを聞いて翔太は、一人ドキドキしていたのが馬鹿みたいに感じた。


「あれれ〜もしかして、ドキドキしてた~?」


「し、してね―よ‼」


 否定したものの、桔梗には意味が無かった。




 こうして、翔太の受験勉強が始まった。



   【借金残り:10,000,000円】

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