36・あるスライムと最後の日



 先日、リィンとお嫁さんが無事帰ってきた。

 長期間、長距離の旅路は、どうやらリィンをちょっと頑丈にしたらしい。ひょろっとした頭脳派の貴族のお坊ちゃんという風貌だったリィンは、少し日に焼けて筋肉がついている。当然本職の騎士や護衛たちとは比べ物にならないが、それでも出掛ける前と比べると逞しくなっている。

 お嫁さんの方は日焼け対策を頑張っていたのか、出掛ける前と遜色ない。ただこの旅行がとても良いものだったのだろう、表情はとても明るいし、リィンに愛されてということもあってか、益々美人さんになっている。


 予定ではもう少し旅行を満喫するつもりだったそうなのだが、十分に楽しんだこともあり、帰宅した。

 それになんと、お嫁さんのお腹の中には赤ちゃんがいるそうなのだ。

 このおめでたい報告は手紙ではなく直接伝えたかったそうで、屋敷は大盛り上がり。小さな頃からリィンを見守ってきた使用人さんはもうぼろぼろと泣いていた。わかる。わたしにも目があったらめちゃくちゃ泣いていたよ。

 幸いお嫁さんの体調は良好のようで、ひどい悪阻とかもないらしい。お嫁さんのお母さんもおばあさんも悪阻がものすごく軽い方だったみたいで、自分もそうだろうと思っていたらそうだったって。ケロッとした様子だ。ただ、すごく眠くなるみたい。存分にいっぱい寝てほしい。スライムのようにね。

 とはいえ大事なお嫁さん、妊婦さんなので、屋敷の人たちはもう心配しまくりでてんやわんやだよ。本人は平気そうにしていても、心配なものは心配だよね。

 お腹はまだ全然ぺったんこなのに、そこに赤ちゃんがいるって不思議だよなあ。


「ノラ!この子が生まれたら、見守ってやってね」

 リィンはすごく嬉しそうにニコニコしていて、わたしを抱っこしてお嫁さんの側に連れて行く。

 お嫁さんもリィンとわたしをニコニコと優しく見守っている。

「よろしくね、ノラさん!」

 うん。わたしも、この子が生まれてくることが楽しみだよ。





 そして今日もまた、屋敷には笑顔が溢れている。

 いつもより豪華な食事。穏やかな家族の時間。慣れ親しんだ使用人さんたちとの会話。止まることなく時間は過ぎていく。

 明日、ルーはこの屋敷を出て行く。

 婚姻はまだだが、学校は無事に卒業したし、結婚式や披露宴の準備も佳境に入っている為、住まいを王城へと移すのだ。


 ルーの部屋は、そのまま残されることになっている。

 王族となり王城に入ってしまえば、この屋敷に帰ってくることはまずない。けれど以前ハルくんもどうにかすると言っていたし、帰ってきた時に妹の部屋がないのは悲しすぎる。だからリィンはルーに、片付けなくていいと伝えたらしい。

 わたしは今、そのルーの部屋に来ている。

 明日から部屋の主人がいなくなるとは思えないほど、いつも通りの部屋だ。

 ルーに呼ばれてここで待っているのだけれど、しばらく待っていてね、と言ってルーは部屋を出て行ってしまった。なので、こうしてのんびりとルーのお部屋観察をしているのである。


「お待たせ、ノラちゃん」

 ルーが戻ってきた。何かを持っている、と思ったらスープじゃないか。

 あれ、でも夕食で出てきた豪華なやつではない。いくつかの野菜が入っている、ごく普通のスープだ。

「ふふ。これね、実は今日こっそり私が作ったの」

 えっルーが?いつの間に。

「最後にね、これで完成」

 そう話すと、ルーはスープに魔法をかける。

 このスープ、持ってきた時は湯気が出ていなかった。温め直さないまま持ってきたのだろう。

 スープを温めるような繊細な魔法は、ルーはいつまでも苦手だった。けれど今は大丈夫そうに見える。以前温めてもらった時のように、ぐつぐつとすごい温度になっているようには見えず、スープはほんわりと優しい湯気を放ち、ほかほかと程よい温度に見える。

 すごい。ぷるぷるぷると震えると、ルーはにっこりと笑う。

「ようやく出来るようになったわ。はい、食べてね」

 忙しい合間を縫って、スープ作りの練習をしてくれたのだろうか。温める魔法も、練習を続けていてくれた。あんなに苦手にしていたのに。

 嬉しいなあ。不思議だよね、食事って、感情が伴うと味も変化する。ルーが作って温めてくれたこのスープは、とてもおいしい。

 ルーはゆっくりスープを食べるわたしを笑顔のまま見守っている。

「私がいなくなっても、屋敷はきっと変わらないのよね」

 わたしがスープを食べ終わる頃、ルーがぽつりと呟いた。

 そんなことはないとは思う。明るくて元気なルーがいなくなったらきっと、火の消えたような雰囲気になるだろう。

 ああ、でもきっとルーが思っているのはそういうことではないのかな。

 ルーがいなくなってもこの屋敷では日常が続いていく。

 朝起きて、食事をして、それぞれ仕事をして、休憩をして、話をして、また眠って……屋敷の中でそんな時間は続いていく。人が入れ替わっても、変わることはなく。

 ルーの帰る場所は、侯爵家ではなくなる。朝起きるのも、食事をするのも、仕事をするのも休憩をするのも、誰かと話をして、眠るのも……。けれどその時ルーの隣には、ハルくんがいる。

「決めたことなのに、寂しくなっちゃうのは仕方ないわよね」

 明日からは心休まる時間というものは格段に減るだろう。これまで侯爵家の中では自由でいられたけれど、王城は普通の家とは違う。肩の力を抜ける場所なんて、ほぼ自室くらいのものではないだろうか。どこにいても、どこに行っても、人の目がある生活。平等に接しなければならない生活。声をあげて笑うことも、泣くことも、ままならない。

 だからこそ今日は思いきりみんなで笑って、取り留めもないようなことを話して、過ごした。今日はルーがルーのままでいられる、最後の日だったのだ。





 翌日、ルーが王城に入る日。

 ルーはもう泣いてはいなかった。淑女らしい美しい微笑みを浮かべて、迎えに来たハルくんのエスコートを受けて侯爵家を出て行く。

 もうお別れは昨日のうちにみんな済ませている。

 人目がある今は公の場だから、挨拶もどこか他人行儀だった。

「十八年間、お世話になりました」

 とても丁寧な言葉で話し、礼をする。迎えに来た王城の文官や騎士の人たちが思わず、ほうと溜め息を吐いてしまうほど、洗練された美しい仕草だった。

 けれどハルくんがルーの両親に向かい、

「必ず、ルーリルアを幸せにします。大切な娘を、ありがとうございます」

 そう話し目を伏せた時、ルーはぴくりと震え、取り繕っていた表情が僅かに和らいだように見えた。


 ルーたちを見送った後、リィンがわたしの体を撫でる。

「心配しているよね、ノラ。……大丈夫だよ。ハルがいるし、それに公ではない場では、僕たちはこれからも普通に話すからね」

 そうだね。わたしに出来ることは本当に何もない。

 ついでに言うとルーの花嫁姿もわたしは見ることが出来ない。王太子と王太子妃の結婚式なので、警備上の問題があるのだ。

 ウィルくんの時のように隣国との友好関係を示す為に、みたいな感じだとパレードがあって遠目で見れたりもするけれど。

 一般市民向けのお披露目の時のドレス姿とかは見れるかもしれないけれど、結婚式は難しいだろう。

 まあでも、それは構わない。結局のところ、ルーが幸せでいるのなら、わたしはそれだけで良いのだから。


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