35・あるスライムとある迷子のお話



 小さな頃、私は屋敷の側の森で迷子になった。

 その時は自分は迷子ではないと思っていたけれど、今にして思えばあれは完璧に迷子だった。三歳頃の話だし、幼すぎて記憶のほとんどはもうぼんやりしているけれど、屋敷の人たちに黙って抜け出して遠くまで行っているのだから。

 そこで私は一匹のスライムに出会い、友達になった。ノラ、と名付けられた子だ。ひどいネーミングセンスだと思う。ほぼ私のせいだけれど。



 もうすぐ十八歳になる私は、着々と婚約者との婚姻の準備を進められていた。

 毎日とても忙しい。学校のこともあるし。

 今日は久しぶりに丸一日何もない日で、私はスライムのノラちゃんを連れて、懐かしい森に来ていた。はじめてノラちゃんと出会った、湖の側まで。

 遠いな、と思っていたその場所は、今歩いてみるとそうでもない。幼い頃の帰り道にはざわざわと生きものみたいに蠢く木々が怖かった。けれど昼間、日が差している今は、さわさわと揺れる音が心地よく感じる。

「ノラちゃん、懐かしいわね」

 抱っこしたままそう話し掛けると、ぷるぷると体が震える。

 よく日差しの当たる場所へと移動して座ると、ノラちゃんも気持ち良さそうにでろりと体を楽にする。水面と同じように、キラキラと輝いて見えた。


 ノラちゃんは私の友達で、私のヒーローだ。

 あの時、猪から庇ってくれた時。半透明のスライムの体の向こうに、狂気が見えた。怖くて怖くて、自分のせいなのに泣くことしか出来なくて。けれど私を守ってくれる湖のような柔くて弱い水色が、とても綺麗だった。


 言葉が通じない、ということに、私はどこかでずっと安心していた。居心地が良かった。

 だって意思疎通が上手に出来ないのだもの。喧嘩にもならない。都合の良いことも悪いことも言わない。ただそばにいてくれる。

 もしかしたら、ノラちゃんには人の魂が宿っているのかもしれない。そう思ったのがいつの頃だったのかまでは覚えていないけれど、どことなくそう思っていた。

 勿論それを確かめる術はない。けれど思う。いつも私に寄り添ってくれているこの人は、私と同じように弱い人なんじゃないかな、と。


 日差しが暖かい。

 ノラちゃんはいつもこんな風に、日向ぼっこをしているのかしら。時間がゆっくり過ぎていく感じがする。日常が遠のいて、風が気持ち良くて、穏やかな気持ち。





 外に出て、明確な悪意に触れた。

 ある貴族の当主。娘さんはずっとハルのことを好きだったらしい。でも婚約者には私がなったから、矛先はハルと私に向かった。

「第一王子殿下は優秀だったのに、婿入りなんて。所詮第二王子なんてスペアでしかなかったのに王太子とは、良いご身分ですな」

 心臓が火で焼けたのかと思った。ごうごうと耳鳴りがし、息苦しくなり、痛かった。

 私は知っている。ハルがとても頑張っていることを。仕事もして遅くまで勉強もして、たくさんのことを考えて学んで決断して、それをずっと続けている。

 スペアって何?ハルはハルなのに。

 どうして比べられなければいけないの?ウィルだってハルだって頑張っているのに。

 でもそんなこと、このひとには関係がないのだ。ただ貶めたいだけ。それだけだから。

 悔しかった。何を言い返しても実を結ばないことが。ただの悪意だけでただひたすらに他人を悪く言えるひとは、世界にはたくさんいる。


 一度、ハルが直接そんなことを言われている場面に遭遇したことがあった。

 ハルは曖昧に微笑んでいた。私に見せたことがない表情で。ハルはその時私がいたことに気付いていなかったけれど。私はその場に出て叫び出したくて仕方がなかった。

 ハルを傷付けないで。悲しいなら泣いて。つらいならやめていい。

 けれど同時に理解してしまっていた。それをすることは出来ないのだと。私を育ててくれた侯爵家での記憶が、王太子妃教育での記憶が、それはダメだと訴えかけてくる。

(……重くて苦しい)

 じゃあ、第二王子の記憶では?

 私よりも遥かに。幼い頃から、ずっと、ずっと、彼は重くて苦しいはず。決してそれを表に出したことはなくても。




 ノラちゃんが家に来てから、スライムのことはよく調べた。勉強は嫌いだったけれど、たくさんの本を読んで、色んな人の話を聞いて。

 そしてわかったこと。スライムはこの世界で唯一と言ってもいいほど、誰も、何も傷付けない存在だ。

 スライムは人を襲わない。魔物も動物も襲わない。襲われても抵抗せず、ただされるがまま。

 スライムは食事を必要としない。草木でさえ水を求めて周囲と取り合い成長していくのに、スライムはただそこにいるだけで生きていける。

 スライムは言葉を話さない。だから誰の心にも傷を付けない。

 最弱で優しい、生きものだ。


 人がみんなスライムみたいだったらいいのに。そうだったら、とても優しい世界になるのに。





 私は、優しい人たちが、穏やかに生きていける世界になってほしい。

 あの腹が立つ貴族を何回も思い出して心の中で燃やし尽くしてその気持ちを勉強に向けた。ものすごく捗った。そしていつか揚げ足を取って失脚させてやる。

 そう考えていることをそれとなくハルに話したら、ハルは目を丸くした後、何故か大笑いしていた。

「ルーのそういうところ、大好きだよ」

 と言って、笑いすぎて涙まで浮かべて。

 私は、ハルにはそんな風に笑っていてほしい。


 けれどその時、ハルの話す好きは私のものと違うのかもしれない、と思った。

 いくつかの恋愛小説を読んだ時、人は本当にこんな気持ちになることがあるのかと思ったけれど。わからないまま私は婚姻することになるのだろう。

 ハルが私を見る眼差しは、いつも優しい。子供の頃からずっとそうだった。ハルはとても優しい人。変わらない。けれど私はどこかで気付いていなかっただろうか。いつからか、ハルが私を見る眼差しが少し変わっていたこと。

 私はきっと、変わることが怖かった。

 認めてしまったら友達じゃなくなるのかもしれない。ハルはこれまでのように笑ってくれなくなるのかもしれない。

 そんな私の幼くて醜い気付かないふりを、ハルは見守っていてくれていたのかな。


 私は、私のことをハルが思ってくれているように、ハルのことを好きになりたい。

 どうしたらそうなれるのかもわからない。方法も、対応も。

 けれど私たちは夫婦になる。お父様とお母様のように。お兄様とお義姉様のように。

 重くて苦しい責任も、焼き尽くしてやりたい嫌な奴がいることも変わらない。これからもっと重くなるかもしれないし、増えるかもしれない。どうやっても恋にはならないのかもしれない。けれど、いつか愛にはなれると思う。

 私はハルを支えたい。力になりたい。あとハルを傷付ける奴はいつか燃やしたい。その為に、なかなか結構不自由な生活になってしまうことを、今では許せてしまえるほどに。





「……あ。スライムだわ」

 少し離れたところに一匹のスライム。ノラちゃんはここにいるから、違う子だ。あちらもどうやら、日向ぼっこらしい。

 ノラちゃん以外のスライムも、多く見てきた。ほぼすべてのスライムは意思なんて感じられない、ただそこにいるだけの魔物。けれど残された書物を調べると、ノラちゃんのようなスライムが見つかることは幾度かあったみたいだった。これほど長期間、同じ場所に留まり、明確な意思疎通が出来るまでではなかったけれど。従魔契約をしてくれたのに喋らないスライムとかもいたらしい。

 何にせよ、スライムはわからないことが多い生命体だということだ。本当に人の魂が入っているのかもしれないし、違うのかもしれない。

「ぬけがらみたいなスライムも、いるものね」

 何日も何ヶ月も同じ場所で動かないスライム。ぐるぐると回り続けているスライム。生きているのかもよくわからないスライム。

 こうして隣にいるノラちゃんも、長く動かなくなる時もある。眠っているのだと私は思っているけれど。

 私が子供の頃よりもずっと、ノラちゃんが眠っている時間が増えた。いつかノラちゃんも他のスライムたちみたいに、ぬけがらのようになる日が来るのだろうか。

「……ねえ、ノラちゃん。私、出来るだけ頑張るわ。スライムみたいに優しい世界にしていけるように」

 キラキラと光る湖の水面の色。見上げた空の色。そして私の大好きな水色。

「頑張るから、見ていてね」

 私はきっとこれから何度だって思い出す。

 迷子の果てに見た、美しい景色を。


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