22・あるスライムのただ一度の契約



 しんしんと降り積もる雪のような、それは静かな絶望だった。

 年を重ねるごとに、埋もれて跡形もなく忘れ去った。産まれたばかりの時のように泣くことを、真っ直ぐな感情を、子供の頃の笑顔を、誰かを慕う気持ちを。

 たぶん、きっと、何か致命的なことがあったわけではなかった。

 経年劣化である日ばきっと壊れてしまうように、じわりじわりとそれはわたしを蝕んで疲れさせた。

 だから何も感じたくなかったし、考えるのも嫌だった。生まれ変わりなんてもってのほか。わたしは何よりもわたしを消し去りたかったのだから。


 わたしだけが壊れていたのか、それとも本当はみんなそうなのか、心は誰にもわからないから知る術はない。

 気付いた時にはわたしは多くの人が当たり前に恋をして結婚する、その気持ちがわからなかった。

 家族や友人はいた。その人たちを大切に思う気持ちもある。それは好意なのかと問われればそうなのかもしれない。


『あなたは、わたしをあいしてる?』


 わからない。誰かの言葉。

 わからない。あいしているという感情がわからない。誰もが当たり前に使う言葉のそれが、わたしにはわからない。


 しんしんと雪のように降り積もる。

 わからないのに、その欠陥を欠陥だと認識出来ていないわたし。誰かを愛することがなくても生きていくことに支障はなかった。

 けれどどんどん、ズレていく。

 家族からも友人からも、少しずつ、少しずつ。

 わたしは一人になって、雪で埋もれるように誰も知らないうちに静かに消えてしまいたかった。





 シユは寝台に横になった。たくさん喋って泣いて、疲れたのだろう。

 どうしてわたしが生きていて、彼女は死んでしまうのだろう。

 愛されたいと彼女は泣いた。眩しいほどの笑顔で言った。誰かを好きになって、愛して、愛して、愛されなくて、それでも壊れなかった心。家族愛は手に入れた彼女が望むのは、わたしが持ち得ないそれだ。

 たった一人に愛されたい。愛したい。それだけのことがどうして、叶わないのだろう。


 わたしは寝台に飛び乗り、シユの側へ行く。そっとシユの頬に触れる。痩せてしまっていても、不思議とどこか柔らかく、ほんのりと温かかった。

 わたしは、彼女と話したい。

 その為なら従魔契約をしても構わない。

 やり方はわからない。聞いていなかったから。でもシユに触れながらわたしはそう強く願った。

 するとシユがふと目を開ける。すぐ横にいるわたしに視線を向けると微笑んで頷いた。瞬間、ふわりと浮いたような感覚になる。

「……あなたは、ノラって名前だったの」

『わかるの?シユ』

「うん。わかるよ」

 シユはわたしの言葉に頷き、また笑う。

 声として発せられているわけではなく、わたしの言葉は伝えたいと思ったことが直接、シユに届いているみたいだ。

「良かったの?あたしと従魔契約して。名前があるってことは、どこかに居場所があったんじゃない」

『わたしは気高い野生のノラだからね』

「なにそれ」

 くすくすとシユが笑う。

『でも今はシユだけのノラだ。どう、嬉しい?』

「めっちゃお喋りじゃん」

 わたしの体をシユがそっと撫でる。優しい手だ。

「ねえ、どうしてスープしか食べないの?」

『好きだから。中でも豚汁は最高だ』

「他のもちゃんと食べてよ。あたし結構、料理上手いんだよ?」

『善処する』

「それって考えるだけで、お断りってこと?」

『豚汁があればいい』

「もう、我儘だなあ」

『生まれ変わったらシユもスライムになると良い。気ままに楽しく過ごせるよ。最弱だけど』

「……それも良いかもしれないけど、ね」


 それからぽつりぽつりと、わたしたちは話をした。

 他愛もない話。あれが好きだとか、嫌いだとか、明日の天気はどうかなとか、前世の話とか、豚汁のどこが良いのだとか、味噌の作り方だとか。

 シユの体は弱っていて、時折少し眠り、また覚めたら話をする。それの繰り返し。

 わたしに出来ることなんて何もなくて、けれどわたし以外の誰かだってもう、出来ることは何もなかった。


「……あたしが人間に生まれ変わったら、ノラは今度こそ、スープ以外も食べてくれる?」

『スライムじゃダメなの?』

「だってスライムだと料理作れないって気付いて」

『確かに』

「食べてほしいなあ」

 もっとシユが元気で、材料があったら、きっと色々な料理をここでも作ってくれたのだろう。

 食に楽しみなんてスープ以外では久しく覚えがないけれど。スープだって元々は、それだけで栄養がとれて合理的かつおいしい、みたいなちょっと不純な動機だったしな。

 ほかほかに炊かれたごはん。わたしの好物の豚汁。それに合わせるならまずはおかずは和食だろうか。ほくほくの肉じゃがとか、焼き魚とか。ああ、焼き魚は嫌いだったな。いつも骨を取るのが面倒で。シユはどうだろう。とても綺麗に食べそうだ。わたしが面倒だと我儘を言ったら、仕方ないなあと言いながら骨を取ってくれるかもしれない。

 笑って話して食べるごはん。そうか、それなら。

『良いよ』

 わたしがそう話すと、シユが少し驚いたようにこちらを見る。

『わたし、面倒くさがりで我儘だよ』

「それは何となくわかる」

 失礼じゃない?まあいいけれど。

『好き嫌いも激しいと思うし』

「先に教えて。何とかするから」

 ……不穏である。作らないとは言わないのか。何となく大嫌いなものを好物に混ぜ込まれ、それを気付かずにおいしいおいしいと食べる子供の姿を思い浮かべた。

『シユといられるのなら、人間に生まれ変わるのも悪くないのかもしれない。……ああ、でもやっぱりスライム生活、ちょっと捨てがたいかなあ』

「まだ余裕で迷ってるじゃん」

 楽しそうにシユが笑う。わたしはわたしのままで、良いらしい。シユにとっては。

『……ねえ、シユ。わたしはシユのそばにいたいなって思うよ。でも、わたしは、誰かを愛する気持ちがわからないし、出来ない。シユが一番欲しいものを、わたしは渡せないんだと思う』

「そっか。……でもノラは大嫌いな人間に生まれ変わってもいいって思うくらい、あたしといたいの?」

『うん』

「それはずっとそばにいてくれるってこと?出会ってから死ぬまで」

『基本的に三食一緒にごはんを食べたいから、そうなる』

「浮気しない?」

『そもそも愛情がわからないから正直性欲もない。だから子供は望めないかもしれない』

「ぎゅってするのは平気?毎晩、一緒に眠ってくれる?隣にいるだけでいいから」

『……触れるのは嫌いだけど、シユなら構わない、と思う』

 感覚の薄いスライムならともかく、人間だった頃、わたしはちょっと潔癖気味だった。手を繋いだりとか、肩に触れたりとか、そういう触れ合いさえ少し嫌だった。

 けれどシユ相手で想像すると、嫌な気持ちにはならない。少なくとも手を繋いだり、ハグをしたりする分には。

「……そっか。うん。なら、良いよ」

 ふわりとシユは笑う。本当に、心から嬉しそうに。

「あたししか見えなくなるくらいの強い愛情じゃなくても、いいの。ノラにとって、あたしの代わりはいる?」

『いない。シユは、シユだけだ』

「うん。だから、良いよ。ずっとそばにいて、ずっと一緒にごはんを食べて。愛がわからないままで良いよ。あたしが、その分ノラを愛するから」

『本当に?』

「うん。約束」

 わたしにとっての彼女は、春の日だまりそのものだ。







 その日、夢を見た。

 わたしと彼女は手を繋いで歩いていた。その先の道路に、動物の死骸。車に轢かれてもう息絶えている、惨い姿だった。

 彼女はわたしに何かを言って、それから車が来なくなるのを待ってから、その動物の死骸をそっと抱き上げた。

『埋めてあげよう』

 そうだ、そう言ったのだ。わたしは動けなかったけれど。

 戻ってきた彼女と埋める場所を探す。

 死骸を見た時、わたしは怖いと思った。その姿を見ることも、死に触れることも。だからこれまで見掛けても、可哀想にと思っても、それだけで何もしてこなかった。

 けれど彼女は、可哀想だと言って抱き上げた。土を掘り、埋めようと言った。

 わたしは土を掘るのを手伝った。それでも死骸を触ることはやはり怖くて、土の中には彼女が入れた。

 彼女がいなければわたしはいつもと同じように、可哀想にと思って、それだけだっただろう。

 わたしは土と血に汚れた彼女の手を、綺麗だと思った。わたしがどうにも出来ないことを彼女は当たり前のように行動して、少しだけわたしもその手伝いが出来た。今、彼女の隣で土に汚れた手を合わせていることを、ほんの少しだけ誇らしく思った。

『帰ろうか』

 彼女は言った。

 そうしてわたしたちは帰る。そうだ、帰って、さっき買った食材で、今日は一緒に料理をするんだっけ。

 そんなどこにでもあるような、ささやかな、時間。







 夢に見るなら、食事風景かと思ったのに。全然違ったことに、心の中で笑った。隣にいる彼女はもう、あの穏やかなあたたかさが嘘のように、スライムよりもずっと、冷たくなっていた。


 当日のうちに様子を見に来た村の人間に彼女の亡骸は発見され、丁重に弔われた。

 眠るように穏やかで、春のように柔らかな笑顔を浮かべた、そんな死に顔だった。


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