第7話 その愛情いくら?
リリィの仕事着は、何年か前までいた修道女の服である。
『慈愛の聖母』の正式衣装でもあるので、孤児院の中だけでなく職業斡旋所に行く時も買い物をする時も着ている。
つまり、物語の中でしか見たこともない立派な絵の飾られた部屋で、今にも優雅な音楽が聞こえてきそうな部屋で、ふっかふかの体ごと沈みこみそうなソファに落ち着いて座ることもできないような部屋で、広めの毛皮かなと思うような絨毯の敷かれた床をどう傷めつけずに足を動かすか考え込むような部屋で。
所在なさげにリリィは自分の格好すら、裸でいるべきかどうかを悩んでいた。
仕事着ではあるが、言ってみれば古着というかぼろきれである。この部屋と比べれば、雑巾の方がまだ綺麗かもしれない。だがうら若き乙女が裸というのもどうなのだ。そもそも裸は綺麗なのかどうかも判断がつかない。
もうやだ帰りたい。
でも一歩も動きたくない。
リリィが動けばいろんなところが汚れそうである。
誰か自分を運んでくれないだろうか。ごみのように箒で掃いて、ちりとりにいれてごみ屑と一緒に遺棄してほしい。
悪目立ちどころか、もう世界というか、次元が違う。
呼吸することすら恐れ多い。
なんかいい匂いがするし。
どうなってるんだ格差社会、と庶民のリリィは本気で泣き出したくなった。
突然降ってわいた借金で自分の頭はどこか麻痺していたに違いない。
こんな話を鵜呑みにしてのこのこやってくるなんてどうかしている。
ようやく冷静になって、リリィは怒りの勢いって怖いと震えた。
貴族は嫌いだけれど、冷静になるべき相手である。そんな貴族の頂点に立つような公爵相手に武器が怒りだけなんて無謀が過ぎた。
今さら後悔したところで、こうして乗り込んできてしまったのだから、どうにもならないのだが。
高すぎる天井を見上げれば、落ちてきたら即死確実のシャンデリアまである。
一つ一つの造形が輝いているが、あんな形の石を昔削ったことがあるなあとぼんやり思う。あれはきっと宝石だろうけれど。
それで少しだけ落ち着いた。
目の前には、まるで絵に描いたような王子様がいる。
無表情であるがゆえに、ますます絵のようだ。
リリィをこの部屋に案内した男が、ソファに座るように促してうっかり座ってしまってからも目の前の青年は一言も口を開かない。
長い脚を組んで、ふんぞり返ってはいるが、尊大さも横柄さも、彼にはぴったりだ。
何故かリリィを凝視したまま、微動だにしないけれど。
「突然のお呼びたてにも関わらず、リリィ様にはこうしてご足労いただきましてありがとうございます」
青年の横に立った男が代わりに口を開いた。
「あの、普通に、リリィで結構です」
「巷で随分と噂になっておられますよね。『救済の乙女』の再来、『慈愛の聖母』様と――」
救済の乙女とは大昔に存在した聖女の名前である。れっきとした歴史上に存在した人ではあるものの、貴族出身のお嬢様で実家の資金を方々にばらまいて庶民を救済したとされる人で、リリィとは全く関係ない篤志家のことだ。
伯爵を心の中で締め上げながら、リリィは只管に恐縮した。
そんな大層な存在になったつもりはない。
ただ少しだけ寄付金集めに有利になるように取り繕っただけだ。
慈善活動に熱心な金持ちや貴族受けがいいように、可哀そうさをアピールしただけである。
話が大きくなりすぎた!
リリィはただの貧乏人である。
ちょっと根性があって、そこそこ愛嬌のある少女というだけだ。
「……とんでもございません」
「お噂どおりの謙虚なお方ですね。ああ、申し遅れました。私はフィッシャール公爵の秘書をしております、デイベック・スキアです。そしてこちらが、ダミュアン・フィッシャール公爵です」
「は、初めまして……? リリィと申します」
噂と言われれば『慈愛の聖母』だろうが、だからと言ってどう返すのが正解なのかもよくわからない。
そんなたどたどしい挨拶を口にして、ぺこりと頭を下げれば、青年は微動だにしない。
やはり仕事の依頼は何かの間違いだったのだと思わざるを得ない。
だって愛の売買だ。
モテの極致で、引く手あまたで、多すぎて困り果てるほどに人気のある男が、そんなことする必要があるのか、と本気で思う。
「お会いできて光栄です、リリィ様。ところで、こうして足を運んでいただけたということはお仕事を受けていただけるということでよろしいでしょうか」
口を開かない公爵の代わりにデイベックがにこやかに話しかけてくる。
「あ、あのお仕事はできるだけさせていただきたいのですが、ちょっと内容がよくわからないと言いますか……あの、決して選り好みをしているとか、公爵様の意に沿いたくないというわけではなくてですね」
なんと言えば上位貴族の機嫌を損ねずに話を持っていけるのか、リリィには思いつかない。とにかく仕事内容の確認と、借金の肩代わりをお願いしなければならないのだ。
もうハードルが高すぎて酸欠状態である。
なぜ、貴族嫌いなのに、自分が作ったわけでもない借金返済のために、こんなに必死に金の工面をしなければならないのか。
理不尽である。
ふつふつとまた怒りがわいてきて、リリィはぎりりと握り拳を作ってしまう。
ハードルが壁どころか、むしろ一山超えるくらいの障害がある。
そうして、意識があっぷあっぷしているというのに、公爵は突然口を開いた。
「お前は献身的な女で、自己犠牲の精神に富んでいて博愛主義だと聞いた。それだけの愛情を言い値で買いたい」
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