第3話「わたしの知らない感情」
「お会いしたら……」
「……うん」
顔を上げて、話をしなければいけない。
相手の目を見て話すっていうのが礼儀だって教わっていたけれど、それがまったくできていない。
「こうやって挨拶をして……相手のお話をちゃんと聞いて……私のことを聞かれたら、こう返そうって……」
降り積もる雪から私を守ってくれる、彼の瞳を避け続ける。
もうどこへ視線を向ければいいか分からないくらい私たちの距離は近づいていて、視線をさ迷わせることにも限界があった。
それでも彼は、私が顔を上げないで話すことを許してくれる。
だから、甘えてしまう。
甘えながら、話を進めてしまう。
「たくさん……たくさん練習をしてきたのに……んっ」
唇に、彼の指が当てられる。
「ん」
手袋越しの、その指は。
「…………」
悪いことをしたら謝らなければいけないのに、それを阻まれる。
意味が分からなくて、理由も分からなくて、彼の顔が見たくなって、私は頑なに下げていた視線を上げた。
「…………」
衝動という言葉の意味を初めて体感する。
自分の中に、衝動というものが存在していたことに驚かされていると……。
「戻ってきてくれて、ありがとう」
唇に当てられていた指が遠ざかる。「無理を強いて、ごめんね」
久しぶりに、視線が交わる。
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
このまま時が止まってしまえばいいのに。
なぜか、なぜか、そんな気持ちが心の中に湧き上がってきた。
「無理なんて……していません……」
早く、早く、この誤解をなんとかしたい。
嫌われたくない。嫌わないで。私から離れないでください。
心の中に湧き上がる、そんな焦りを言葉にすることはできないけれど。
「私が、きちんと言葉にできない私が悪かったんです……」
心の中を占める感情を、直接伝えることは許されない。
だって、私はお世話になる側の人間。
多分、きっと、彼は私のお世話をしてくれる側の人だから。
迷惑になるようなことを、彼に対して行ってはいけない。
「だから、謝らなきゃいけないのは私の方……んっ」
謝罪の言葉を口にしようとすると、再び唇が彼の指で塞がれる。
「
今度は、すぐに唇が解放された。
「俺は羽乃架さんと出会って、一度も不快な想いを抱いていない。でも、俺は羽乃架さんに不快な想いをさせた。だから、謝罪をした」
彼の瞳に魅入られながら、私は彼の言葉を受け入れる。
「羽乃架さんに謝らせる機会を与えないのは、そういう理由」
私は自由に言葉を紡ぐことができるようになったはずなのに、何も言葉にできなくなってしまった。
私だって、不快な想いはしていない。
凄く恥ずかしい想いを抱いてしまったけれど、それは不快という感情とは違う。
「受け入れてもらえたかな?」
彼は、優しく笑って私のことを迎え入れてくれる。
ずっと見つめていたくなるような穏やかな笑みは、私の思考を止めてしまう。
伝えたいはずの言葉はすべて喉へと送られてしまって、私は再び言葉を紡ぐことができなくなってしまった。
「私も……不快な想いは抱いていません……」
言葉を先に進めようと頭を動かし、やっと出てきた言葉がこれだった。
もっと多くの言葉で説明しなければいけないのに、上手く言葉を紡ぐことができない。
「私……今日、お会いできることを……嬉しく思って……」
「
言葉を先に進めようと、必死だった。
必死になったにも関わらず、言葉は最後まで言い切ることができなかった。
「って、羽乃架……」
私の言葉と、幼なじみの
明るくて快活な遥叶の声に、私のか細い声はかき消されてしまった。
「っ」
遥叶も目の前にいる彼と同じく、どうしてそんな雪かきもされていない建物の裏側からやって来たのか。
傘も差さずに雪だるま状態で現れた遥叶に驚いて、私の足は後退ることを選んでしまった。
「羽乃架さん!」
傘の外に追い出されることを想定していた。
けれど、それは阻まれた。阻んでくれた人がいた。
「傘の外に出たら、また雪塗れになっちゃうよ?」
名前を知らない彼が後退ろうとした私の腕を引いて、体ごと私を引き寄せてくれた。
「ありがとうございます……」
「どういたしまして」
彼は、名前も知らない彼は、私の無事を確認すると朗らかな笑みを浮かべてくれた。
「あの、雨依さん」
遥叶は自分の手でコートに付着した雪を払いながら、私たちの元へと近づいてきた。
「こいつ、数日前まで風邪引いてたんで……早く暖かいところに連れて行ってもらえますか?」
遥叶の言うことに、嘘偽りは何一つない。
言葉を選ばなかったおかげで、『うい』さんという名前の彼は顔色を変えた。
「ごめん、気が回らなかった……」
傘を差さない方の手で、雨依さんは頭を抱えるような仕草をした。
でも、私からすれば頭なんて抱えないでほしい。
風邪は治っていて、健康だと判断されたからこそ、私は
「長い時間、外にいさせてごめんね」
「いえ……あの……私が初対面の挨拶に失敗してしまったのが原因なので……」
夜舞病棟から、出入り口の門まで結構な距離がある。
病み上がりの体で歩けるかどうか気遣ってくれたことが分かるけれど、一応はお医者さんから出かけてもいいと許可をされた身。
私に対して、そんなに過大な気遣いをされるのは申し訳なくなってしまう。
「羽乃架さんのことを気遣えなかった俺が悪いよ」
雨依様は、やっぱり私に謝る機会を与えてくれない。
「羽乃架さんのことを少しの間、預かります」
私の背を押しながら、雨依様は遥叶に向かって挨拶をする。
今回はすぐに帰って来られると分かっている。
けれど、夜舞病棟が建っている方向を振り返りたくなる。
「あ……」
辺り一面が純白色に染められていたけれど、雨依様に手を引かれながら雪に足跡をつけていく。
(手……)
いつの間にか、手を握られていた。
手を繋ぐことは、私たちにとっての当たり前。そう言われているかのように、何も違和感なく私たちの手は繋がれていた。
(嫌じゃない……)
これが、いつかは当たり前になっていくのかな。
これが、いつかは日常になるのかな。
「雨依様、少し時間をください」
夜舞病棟の敷地の外には、出てはいけないよって言われていた。
それが、
でも、今日は人生で初めて、その決まりを破っていいと許可を与えてもらった日。
空色の傘から飛び出して、私は、私を見送ってくれた幼なじみの方へと振り返る。
「遥叶っ! いってきます!」
声を出す。
大きな声を出すってことは、私にとって不慣れなこと。
でも、今日は、喉が痛くない。
大きな声を出しても、今日は平気だって思える。
「いってきます!」
馬車という乗り物があることは知識として蓄えていたけれど、実際に乗り物として利用をするのは今日が初めて。
初めての経験に対して気持ちを汲んでくださる雨依様に手を取られ、私は馬車の中へと案内される。
「羽乃架さん?」
「あ、その……すみません」
後ろを振り返れば、雪で世界が染められている光景が視界に映る。
それなのに、馬車の中はまるで春を感じさせるような暖かさが広がっている。
「魔法の力が効いてるから、少しは暖かいと思うんだけど……」
「とても、とても暖かいです」
驚きで言葉を失いそうになるけれど、私は雨依様に招かれるかたちで馬車の中へと体をお邪魔させた。
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