第2話「綺麗なものに触れてはいけないよって誰かが囁く(2)」

「…………」


 真白の世界に、足を踏み入れなければいけない。

 私を迎えに来てくれた人に会いに行くためには、雪で閉ざされた広大な庭を歩いていかなければいけない。


「…………」


 白に、自分の足跡をつけるのが怖いのか。

 それとも、新しく知る世界に足を踏み入れるのが怖いのか。

 たった一人になって、私は足が竦んでしまった。

 白い世界は、あの日の出来事を思い出させる。


『あなたは……』


 私が夜舞病棟ここを訪れる原因となった、あの言葉を母に言われた日のことを思い出す。


『人を殺す可能性が……』


 直接言われているわけでもないのに、耳を塞ぐ。

 今もまだ、直接声を聞いているような気がしてならない。


羽乃架はのか?」


 世界から、純白色以外の色が見えなくなっていたはずなのに。

 白で覆われていた世界に、新しい色が加わる。

 晴れた日の空を思い起こすような、綺麗な空色が真白の世界を染め始める。


「あ……」


 一歩、後退る。

 名前を呼ばれることに恐怖を感じてしまった。

 だから、私をと呼んだ人物との間に距離を作ってしまった。


「っ、待って!」


 この大雪の中、どこに行っていたのか尋ねたくなってしまうくらい予想もできない場所。

 夜舞病棟の裏手の方から顔を覗かせた少年に、私は呼び止められる。

 そのときの声があまりに大きくて、私は体をピクリと反応させて足を止めた。


「待って……何もしないから!」


 建物の裏手は雪かきが行われておらず、彼は雪塗れになりながら私の元へと足を運ぶ。

 彼が着ている服は、新聞や雑誌で見かけるような高級そうなもの。

 なんとなく。なんとなく彼の正体が誰なのか分かってしまって、私は失礼なことをしてしまったという想いで足が動かせなくなってしまった。


「はぁ……雪、凄いね……」


 もしかすると、私の態度が気に食わなかったかもしれない。叱られることを覚悟で瞼を閉じると……。


「え」

「せっかく可愛く支度してくれたのに、気が利かなくてごめんね……」


 視界に、大好きな青い世界が広がった。

 空色の傘を差し出され、私は降り積もる雪から身体を守ってもらった。


「はぁ……はぁ……」


 彼は傘を持っていたにも関わらず、私と出会ったときは傘を差していなかった。

 雪が多く降る地域では、傘が降り積もる雪の重さに耐えられないと知っている人が多い。だから傘を差さずに過ごすこともあるけれど……。


「あの……」

「ん?」

「雪、払ってもいいですか?」


 その人は、まるで雪だるま。

 傘も差さずに夜舞病棟を出ようとしていた私と、建物の裏手から現れた彼は、まるで雪だるまのような外見になっていた。

 もちろん雪だるまというたとえは大袈裟だけど、体や髪を染めていく白を消し去らないと私たちは本当に雪だるまになってしまう。


「お願いできるかな」


 名前を知らない彼は、私が腕を伸ばしやすいように少し屈んでくれる。


「はい……」


 彼が瞼を閉じて、私が雪を払うための時間を与えてくれる。

 同い年くらいの少年だと思っていたけれど、無防備に晒されている彼の顔立ちはとても整っていて凄く綺麗だった。このまま彼の顔を魅入ってしまいたくなるほどの美しさを前に、緊張が走る。


「あの……痛くない……ですか……」

「痛くないよ、まったく」


 彼の髪と体から、雪を払う。

 私がやるべきことは、それだけ。

 だけど、雪を払う手の力加減がまったくわからない。

 雪を払い除ければいいだけなのは分かっていても、それが彼にとって不快なことだとしたら……。


「今度は俺が払ってもいいかな」

「え」


 私が手を止めると、彼は開いた瞳で私のことを見つめてきた。


「あの……」

「嫌?」


 綺麗なものに見つめられるという経験に不慣れな私は、緊張で言葉を返せなくなってしまった。だから、嫌ではないという意思を伝えるために首を横に振った。


「うん、すぐ終わらせるね」


 知らない人に、髪や体を触られる。

 それは不快なものだと思っていた。

 勝手に、そんなことを思っていた。


(私……嫌じゃない……)


 知らない人に触れられることに抵抗のない私には、碌な感情が備わっていないのかもしれない。


『あなたは……』


 だから、母に捨てられることになった。


『人を殺す可能性があるの』


 だから、母にあんな言葉を言われることになってしまっ……。


「羽乃架さん?」


 二度目に呼ばれた名前には、という敬称が付いていた。

 呼び捨てされたはずの名前だったはずなのに、彼は私のことを付けで呼んだ。


「あ……あの……」


 私が不快な想いをしていないかどうかを確認するかのように、彼は私の顔を覗き込んでくる。

 過去の記憶に囚われていた私のことが見透かされているような。

 そんな錯覚を受けてしまうほど、彼の視線が私に注がれるのを感じる。


「……っ」

「どうかした?」


 彼の視線すべてを、私が独占してしまっている。


「……恥ずかしい……です」


 夜舞病棟で暮らしているときも、男の人や年の近い男の子と接する機会はある。

 決して男の人に対して不慣れというわけではないのに、どうして私の体は熱を帯びてきてしまうんだろう。


「……もう少し我慢して」


 名前を知らない、今日が初めましての彼は、ほんの少し口角を上げた。

 そして綺麗な笑みを浮かべながら、再び私の髪や体へと触れてくる。

 体へと降り積もった雪たちが、音も立てずに払われていく。

 雨が降るときと違って、雪が降り積もるときに音は聞こえない。

 だから、この場には音のない世界だけが広がっていく。

 音が存在しない世界では、緊張が高まることへと繋がってしまう。


「あの……ごめんなさい……」


 恥ずかしさのあまり、私は両手で自身の顔を覆ってしまった。

 顔を覆ったことを、咎めてもいいはずなのに。

(だって、多分、彼は私のことを迎えに来てくれた人)


 夜舞病棟を出た後、私の面倒を見てくれると申し出てくれた人。

 私が彼に対して気に入らないことをしてしまったら、それを叱りつけてくるのは当然のことのはずなのに。


「ごめん……ごめんね」


 彼の声で奏でられる言葉は、謝罪の言葉。

 謝罪の言葉が聞こえてくると、彼はもう私の髪や体に触れてくれなくなった。

 むしろ、出会ったときと同じ状況を招き入れてしまった。


(……どうしよう……私のせい……)


 指の隙間から、彼が後退ったことが分かってしまった。

 私との距離を広げたことが分かってしまった。

 せっかく歩み寄ってもらったのに、空色の傘は遠くに行って……。


「あ……あの!」


 彼は、腕を限界まで伸ばしてくれていた。

 彼と距離が開いたことは事実。でも、私が傘の外に追い出されないように、彼は私の体を雪から守ろうとしてくれていた。


「私こそ……」


 私は顔を覆っていた手を下ろして、今後は私から彼へと歩み寄った。

 彼が、腕を伸ばさなくて済むように。彼が、私に気遣わなくて済むように。

 今度は、私から彼へと近づいた。


「申し訳ございませんでした……」


 彼の、腕への負担がなくなる。

 腕への負担がなくなったということは、私たちは隙間もないくらい距離を縮めたということ。

 抱きしめ合っているわけでもなんでもないのに、近すぎる距離に戸惑った。

 雪を払い除けている間とは、また違う緊張が私に襲いかかる。

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