第1話「綺麗なものに触れてはいけないよって誰かが囁く」
「…………綺麗」
世界は、歪んでいる。
世界は、淀んでいる。
雲ひとつ存在しない、深い青色の空。
青が、白を飲み込んでしまったのかもしれない。
何ひとつ穢れなく、何ひとつ混じり気のない世界に、体も五感すべても支配される。
「綺麗……」
手を伸ばす。
伸ばしたところで手が届くわけがないのに、私は青い空に手を伸ばしてみたい。
「っ」
私は手を伸ばしたのに、青に触れることはできなかった。
空から鳴り響く鐘の音。
青い空から聞こえてくる鐘の音に怯えた私は、耳を塞いだ。
(私の手は……汚れているのかな……)
汚れた手で、汚れた身体を塞ぐ。
『あなたは……』
幼い頃に言われた言葉が、心の片隅で引っかかる。
『人を殺す可能性があるの』
幼い頃に言われた言葉が、今も心の真ん中で私のことをかき乱す。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
聴覚が音を拾わないようと願うけれど、自分の手で耳を塞いだところで鐘の音を止めることができない。
「帰らないと……」
大きな大きな白い建物へと足を運ぶ。
大きな大きな白い建物を、人はお家と呼ぶ。病院と呼ぶ。城と呼ぶ。先生たちが待っている場所と呼ぶ。
呼び方は、人それぞれ。
(鳴りやんだ……?)
吐き出す息が、白い。吸い込む空気が、痛い。
白い建物に向かう最中、青い空を灰色の雲が隠してしまった。
私はもう、青に触れることはできない。美しすぎる青に触れてはいけないよって、まるで誰かに言われているみたいな。
そんなあり得もしない錯覚が、私に襲いかかる。
「ただいま戻りました」
「病み上がりなのに、外に出るなって」
「ごめんなさい、
子どもたちの対応をしてくれている幼なじみを他所に、私は白い建物に戻ってくると同時にベッドの上で体を休めることになってしまった。
(本当に雪が降ってきた……)
窓の外では、今も雪が降り続けている。
このまま降り続けば、結構な積雪量になるんじゃないかなと思う。
さっきまでは、雪一つ存在しない世界に私はいたはずなのに。
『みなさん、おはようございます』
この街が永遠に、雪の世界に閉じ込められてしまうんじゃないか。
そんな物語を妄想した、その瞬間。
「病院長の声?」
『今日はみなさんに、私から大切なお知らせがあります』
この夜舞病棟は、病棟と名が付いている児童養護施設。
何か病気を患っている、身寄りのない子どもたちの集まり。
だから、病棟という名前が付いていると思っていた。
『突然ですが、みなさんにとっての大切な場所……』
でも、特別な病を患っている子どもは一人もいなかった。
『この、夜舞病棟が……』
どうして、病棟なのか考えた。
『閉鎖することになりました』
もしかすると、私みたいに。
『みなさんは、これから外の世界で新しい人生を歩むことになります』
人を殺す可能性がある。
『みなさんのこれからを支援してくださる家庭は……』
そんな風に、何かの可能性を持つ人たちが集められたんじゃないかなって。
密かに。密やかに。そんなことを思っていた。
「…………」
病院長のアナウンスが終わる。
病院長のお話は要点が短くまとめられていて、小さな子どもたちが飽きることなく最後まで話を聞くことができる程度の長さだった。
「遥叶は……知ってたんだね」
「どうして……」
「凄く落ち着いているから」
夜舞病棟で暮らす子どもたちが不安にならないように配慮された言葉使いで語られた、これからの話。
それを病院長らしいとも思ったけれど、別れは意外とあっけなく訪れるものだと感じてしまった。
「凄く……おとなに見える」
病院長も落ち着いていたけれど、目の前にいる遥叶は、もっと落ち着いて見えた。
視覚っていう情報量があるだけで、遥叶と病院長に抱いている印象がだいぶ違う。
「遥叶は最年長だもんね……」
夜舞病棟で暮らす子どもたちは、大丈夫かな。
私は、自分の心臓が揺らされているように不安定になっている。
「羽乃架ちゃんのお洋服、素敵~」
夜舞病棟が閉鎖するというお話があった翌日以降、夜舞病棟には多くの贈り物が届くようになった。
「うん、うん、すっごく可愛い!」
突然、夜舞病棟の外に出られますと言われても、困惑する子どもの方が多い。
そんな事情もあって、夜舞病棟から出た後に私たちを支援してくれるご家庭からは手紙や贈り物が届き始める。
物で人の心を釣ろうということでもあるということに一部の年長の子どもたちは気づき始めているけれど、贈り物は人の厚意によるものであることに変わりはない。
「
私たちは、こうやって少しずつ外の世界へと馴染んでいくのかもしれない。
私たちは、こうやって少しずつ育ての親たちから離れていくのかもしれない。
(なんとなく……なんとなく……強い自分になれたような気がする)
まるでお人形さんが着ているような、女の子の憧れが詰め込まれたような装飾溢れる洋服の数々。
どこに着て行けばいいのかという基礎的なこと分からないのに、私には色鮮やかな洋服がたくさん贈られてきた。
まるで別人のような外見に戸惑ったけれど、別人のようになれたことで心境にも変化が訪れた。
(その気持ちは、まやかしのものだけど)
でも、そのまやかしのものを、近いうちに本物に変えていかなければいけない。
「羽乃架ちゃん、お出かけするの?」
「そうだよ~」
普段気慣れない華美な服を身にまとっている私のことを気にして、小さな子どもたちが駆け寄ってきた。
すると私と長年の付き合いがある二人の友達が、率先して小さな子たちの面倒見ようと動き出す。
(みんなが、強くなろうとしている)
外の世界に出ることを怖いと思っているのは、私だけかもしれない。
恐怖という感情を抱いているのは私だけかもしれないけれど、不安という気持ちだけはみんなが共通で抱いている気持ちだと思っている。
(不安な気持ちと闘うために、私たちは強くなる)
もう、大切なものを護る時間が限られていることを知っているから。
もう、大切なものと過ごす時間が限られていると知っているから。
いつ別れの日が訪れてもいいように、私たちは強くならなきゃいけない。
「羽乃架ちゃん、帰ってくる?」
自分の身に、何が起きているのか。
うっすら気づくことができる年齢の子が、不安そうな顔で私に尋ねてくる。
だから、私に今できることは、この大切な子の不安を取り除いてあげること。
「もちろん帰ってくるよ」
贈られた洋服が汚れてしまわないように気を遣いながら屈んで、私が想う大切な子と視線の高さを合わせた。
「お話をしてくるだけだから」
まだ、夜舞病棟は閉鎖されない。
まだ、私たちには時間がある。
外の世界に馴染んでいくための時間が、私たちには残されている。
「お話?」
「うん、
夜舞病棟で育った子どもたちが、外の世界に出て行けるように。
たくさんのおとなたちが、たくさんの時間をかけて準備をしてくれた。
だったら、夜舞病棟で育った子どもたちは、その気持ちに応えていくのみ。
「いってきます」
自分の力で、扉を開ける。
それは青い空を直接見たいと願った、昨日やったことと同じ動作。
それなのに、心境はまったく違う。
息を吐き出して、白い息が空へと舞い上がっていく。
今は地面の色が何色だったかを思い出せないほど、辺り一面が雪の白で覆われてしまっている。
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