まなざしを重ねて
蒼井どんぐり
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父の顔を思い起こすと、まず浮かぶのは大きなメガネだ。フレームは黒く、レンズは半円。サングラスみたいにレンズの表面までも黒く、いつも父の目は見えない。使い込んでいたものなのか、細い傷跡が多く、特に右のレンズには丸い大きな跡がついていた。外から見ると、その跡は光を反射し、赤色や黄色のように光る。
小さい頃の私の目には、まるでシャボン玉がレンズに張り付いたように映って見えた。それに、父の見えない視線と相まって何か秘密を隠しているスパイの道具みたいでかっこいい、と気に入ってさえいた。
カメラマンだったらしい父は出張で家を空けていることが多く、代わりに週末には必ず帰ってくる。そんな人だった。そして、あのメガネをかけて静かに椅子に座って私や母を眺めてる。それが父の姿のイメージ。
だからだろう。私にとって父はどこか「父親」というより「久しぶりに会える、不思議な親戚のおじちゃん」みたいな印象がずっとあった。
そんな父が突然亡くなったのは昨年、私が小学6年生の時だった。中学校への入学への不安もまだ抱きもしなかった夏、父は突然病で倒れた。突発的な心臓病。昔から病気気味だったらしいが、あの時までそんな様子を見たことがなかった。母も私も何が何だかわからないまま、予期しない嵐のように父の死はやってきて、同時に夏の暑さがひどくなった。
雲ひとつない青空の日。母が急いで用意してくれた着たこともない黒いカーディガンとグレーのスカートを着て、葬式に出席した。周りは黒い服の親戚ばかり。なんだか仲間外れみたいな居心地の悪さが今でも記憶に残っている。
お坊さんのお経を聞いている時も、火葬場を出る時も、私はずっとどこか上の空だった。頭のどこかではまだ、いつもの出張なんじゃないか、と考えている自分もいるようで、思い浮かんではそれを振り落とす。それの繰り返し。頭も考えも、次第にぼんやりとしてきて、はっきりしなくなっていた。
火葬後の会食の場になっても、私は俯き、形なく蠢く頭の中で忙しかった。
「汐織ちゃん」
どこからか私を呼ぶ声に顔を上げた。昔親戚の家で挨拶したことがあったような、その程度の印象しかないお婆さんがこちらをじっと見つめていた。
「お父さん、優しい人だったわね」
お婆さんがそう口に出して微笑んだ。「うん」と、それに応え、父の話をしようとした時、うまく口が動かないことに気づいた。
記憶を占めるのは大きなシャボン玉のメガネをかけ、週末にはたまに帰ってきて、微笑み、特に話もしないでじっと過ごしている姿。他に具体的な思い出を掘り起こそうとしても、いまだに頭の中は輪郭がぼんやりとして、滲んだ絵のようにうまく形にならない。
逃げるように周りを見ると、他の親戚達が黒い重箱に入った料理を口に運びながら父の話をしていた。
あの時、宏が撮ってくれた映像がうちにも残ってるぞ。
そういえば、あの時も宏に撮ってもらったんだ。ほらあの時。
父との思い出を微笑み、語らいあう。母も目に涙を湛えて、少し笑っていた。みんな寂しそうに、でも同時に微笑みながらも、父の話をしている。
その様子を見ていると、なぜだか、昔、ノートに描いていたの落書きをクラスの友人にたまたま見られてしまった時のことが浮かんだ。なんでそんなことを思い出したのかもわからない。でも、途端に私は何かが恥ずかしくなり、口を閉じた。そのままじっと動かさずに必死に堪える。
なぜか、母や親戚たちのと同じ顔をしてはいけない、そんな気がした。
夏休みが明けても、その後ろめたさはずっと私を覆い続けた。
クラスの友人たちは気を使わず、なるべく以前と変わらず接してくれる。最近気に入っている音楽グループの話や、昨日見た番組の話。以前と変わらない話題。でも、なんだか前のようには話が弾まない。会話の内容は変わらないのに。
時間と共に徐々に友人達との会話の数が減り、そのまま私は小学校を卒業した。
母が「そろそろ引っ越そうと思ってるの」といつもと違う真剣な顔で相談をしてきたのは、中学校に入学して1ヶ月がたった頃だった。
「ずっとこのマンションに住み続けるにはちょっと家賃がね。学区は変わらないように、近くの場所を探すから」
母は申し訳なさそうな顔で言った。
正直、いっそのこと遠くに引っ越してくれてもよかった。中学校では小学校からの知り合いも何人かはいたけれど、クラスもバラバラだし、案の定、中の良い友達もできず、スタートダッシュは完全に失敗していたからだ。
「うん。いいと思うよ」
私はできるだけなんでもないことのように、そう答えた。
すぐに母は二人で住む分には程よいアパートを近くに見つけ、引っ越すことを決めた。私が生まれる前から暮らしていたこの部屋には荷物も多い。家具を捨てたり、小物を母の実家に送ったりと準備にも時間がかかる。だから引越しの期日は夏休みにしよう、とすぐ決まった。
夏休みに入って最初の日曜日。荷物の少ない自分の部屋は後回しにして、リビングに取り掛かる。
棚の小物を整理した後、父の部屋の片付けに向かった。
部屋には動物やどこかの滝の写真集などが棚に収納されていた。もしかして父の写真集とか何かあるのだろうかと著作名を見るが、見当たらない。
まずは部屋の中心に鎮座する机の整理から、とアルミ製の黒い仕事机の一番上の引き出しを開けてみると、あのシャボン玉のメガネを見つけた。そっと手に取る。1年ちょっと見なかっただけなのに懐かしい。このメガネをかけて静かに佇む父の姿が目に浮かんだ。
「母さんー、父さんのあのメガネ、こんなところにあったー」
「えー、なにー」
リビングの向こう、母の部屋の奥から小さく声が聞こえた。扉の隙間から見える部屋はいつも散らかっていたから、だいぶ片付けに手こずっているらしい。
メガネの表面を見ると、あのシャボン玉の跡が目に入った。よく見ると、それは跡ではなく、何か薄い別のレンズが重なっている。そこだけ少し分厚い。レンズの内側から見ると、その部分が何か小さな機械のようになっているのがわかった。
試しにかけてみる。埃はかぶっていないが、だいぶレンズの傷がひどい。と思っていると、視界の右上に何かが浮いているのが見えた。なんだろう、と視線を向けた瞬間、巨大な半透明の物体が目の前に現れた。見ると、何かのバインダーのようなアイコン、その立体映像だった。
「あ、これ、ARグラスだったんだ」
昔はホログラムとかそんな言葉でも呼ばれていたらしいが、こんなメガネ型で見れるものは見たことがなかった。今はコンタクトレンズ型が多く、それで簡単に撮影も視聴もできたはずだ。確か母も仕事でよく使っている。家でも視線がどこか変な方向に向いている様子を見たことがあった。
そういえば、小学生の時、クラスにいた子の中でも、持っている子がいたことを思い出す。私もちょっと欲しい、とは思ったけれど、贅沢は言えない。
「で、なにー? あら、懐かしいもの、見つけたじゃない」
母が汗拭きタオルを首にかけ、部屋の入り口に立っていた。視線の先、アイコンの向こうに母の姿が重なる。手を目の前に出し、触れたアイコンを横にずらすと、小さくなり、右上に収まった。
「ねえ、これ、けっこう古い機種だよね。たぶん」
「たぶんね。もうメガネ型はあんまり売ってないし。あの人はそれで撮るのが気に入っていたみたいだけど」
母を見続けると、ピピっとフレームから音が鳴り、彼女に向かって線が伸びていく映像が映る。線の先では白い円がぐるぐると周り、「鏡玲香 : 母さん 認識率 95%」と文字が浮いている。その横に、もう一人の母の姿が映っていた。白いワンピース姿だが、着ている姿を見たことない。私がまだ小さい、もしかしたら生まれる前の頃の姿かもしれない。それでも、顔は今と全然変わらず、キリッとした目でこちらを見ていた。
「母さん、年取らないね」
「え、何? まさか変な映像見つけたんじゃないわよね?」
母はあきれた様子で、「あんまり変なもの見つけないでよ」と言いながら、自分の部屋に戻って行った。
先ほど右によけたバインダー型のアイコンを指で掴み、視界の中心へと引っ張る。アイコンは再び大きくなり、その下には「アルバム : 家」と書かれていた。データの保存フォルダだろうか。
中身を見ようと、手で摘んでみると「トリガーとなる景色、を画面に映してください」と、女性の機械音声が聞こえた。
「トリガー?」
部屋の周りをぐるっと見渡す。ピピっとまた音が聞こえた。頭を何度か回すと、窓の方の何かが反応しているようだった。
机から離れ、近づいてみる。外には大きな青々しい緑の木が夏の日差しに照らされていた。3階のこの部屋からも見えるほど木の背は高く、力強い。反面、枝は暑さに負けそうになるほど弱々しく細い。
枝の葉に目を向けると、木の幹に重なるようにさっきも見た白い円がぐるぐると回転し、「認識率90%」と表示された。そのまま見続けると、また音がフレームから聞こえ、立体映像が視界に広がる。
深い緑の葉に、半透明の鮮やかなピンクの花が重なった。
まるで色鉛筆で重ね塗りしたような色彩が目に飛び込んできた。いつかの春に記憶された映像だろうか。桜の花だ。実体の木と半透明の立体映像の木、二つの木の位置が少しずれつつも、重なりあっている。春と夏の景色が重なり、季節の変わり目を一瞬に閉じ込めたような。
綺麗な絵、とも違う、美しい色合いに心が惹かれた。
景色に見惚れてさっきは気づかなかったが、よく見ると「大木の季節」と右上あたりに文字が出ていた。この立体映像のタイトルだろうか。データのフォルダを開くと、まだまだ映像のデータは保存されている。それぞれ何か景色をトリガーに、場所に紐づいた立体映像が保存されているのだろうか。
父の撮った景色。父が見ていたもの。美しい景色。それらがこのメガネに残っている。
もっと見てみたいな、と思った。あんな綺麗な景色があるなら、もっと。
それに、父がどんな景色を撮っていたのか。それを知れるのなら。
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