膿み傷と寛解




「ほーんと、オトナになっちゃったよね。

嬉しい反面、ほんの少しショックでもあるなあ」


「おれの、こと?

あはは。それなら大人なんかじゃないよ、おれは」


「あー!またそういう対応がぽいなあ!

そこで胸を張るくらいの方が可愛げがあるのに」



「い、いやいや。ほんとにそんなことないよ。

おれはまだ全然、子供のままだ。

何も大人になんてなりきれてない、子どもだよ」





……



夏休みの時期くらいは、帰って顔を見せてほしい、と。そんな風に言われて慈英青年は自分の故郷に帰省した。

淡々と帰省の準備をして、淡々と予定を決めて。

残念ながらと今回はイエトにお留守番をしてもらってから、ただまた淡々と「いってきます」とそう言った。


青々とした木々と、幾何学模様じみて並んで並んだ田園風景に発展に置いて行かれたような溝と、古びたコンクリート。

山と樹と、緑と。そうしたものしか無い。

そんな場所だ。人も、そんなには多くない。

そここそが慈英が生まれ育った場所だ。


一度、目を盗んである山森の中に入る。

そこには錆びきった縫い針が捨てられた跡と、墓のようになった簡素な石を見に行った。もう何の意味もないそこを見て、慈英は笑った。

張り付いた笑みとはまた別の笑い。


それだけあって。

その後数日滞在した。

何があるというわけではなかった。


ただ両親共に嬉しそうに迎え入れ、彼の姉もまず嬉しそうにしてから、色々な心配を向けて塩をかけたりしていた。その奇行と歓迎に困ったように笑い、そうして日々を過ごした。何かをしたというわけでなく、ただ家の中に過ごして。また久しい帰省ということで友人や地元の知合いとも顔を合わせた。笑っていた。ずっと、笑っていた。



「ううん、大丈夫。歩いて駅まで行くよ。今からなら間に合うと思う」


最後の、帰る日。

車で送ると言ってくれた父にそう断った。

そうして荷物を持ってよいしょと靴を履く。


そして外に出る。

すると彼の姉がちょいちょい、と指先で彼を呼ぶ。



「どうしたの、姉ちゃん?」


「ん。またねって言おうと思ったのと…

今度いつ帰ってくる?」


「うーん。どうかな?

盆くらいには帰ろうと思うけど」


「おっけ。で、さ。…ジエー、『アイツ』の事とりあえず言わなかったし、私も言わない方が良かったよね?」


アイツ。

その微妙に敵視が残る言い方と、姉しか知らない事はなんだという事で、何の事を言っているかがわかった。

慈英が思わずぷふっ、と吹き出す。


「お母さんお父さんには隠しといたよ。いや、流石にそれの方がいいっしょ?」


「あ、ああ…うん。それはそうだね。

ありがと、ねーちゃん」


「空気の読めるこの姉に感謝しなさい、ほんと」


「うん、あんがと」


「……むう、やっぱり女の匂いがする!

そういう余裕ありげなの、気に食わない!」


「ふふ、なんだよそれ!

ねえちゃんは昔からいっつも理不尽なんだぁ」


「ねージエー!なんかあったらねえちゃんに言いなね!あんたいーっつも無理するんだから!」


「うん。…頼りにしてるよ。ほんとに」



その言葉を最後に、ようやく慈英は帰路についた。日はすっかり暮れてしまい、街灯の無い道は異常に暗く、蛙の鳴き声がいつもより煩く感じた。

人は、誰もいない。

そんな暗がりの、誰も人がいない中。



かり。がり、がり。

自分の二の腕を掻きむしる音。

皮が剥がれて血が流れ始める痛々しい音。


周りに人影はない。

つまりはその音がするのは、青年から。

闇の中を見ながら、ただそうしていた。



「気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い…」



最後に姉が来てくれて、良かった。

心底そう思った。

彼女と話して笑い合って、とてもましになった。

笑いあうことが出来て、ほっとした。

それでも、こうなのだから。


うぷ、とこみあげて、道端にもどす。

咳き込みながら、荷物を置いた。

良かった。こんな姿を見られなくて。

慈英はこの田舎の暗闇に感謝した。

親にも、姉にも。


そして、あの人にも。

こんな姿は見られたくない。



ぴとり、と。そうしている頬に、当たる。

冷たい感触。冷えたジュース缶の気温だ。

え、とそっちの方向を向く。



「熱中症かい?いかんぞ、キミ。

日が落ちても、ちゃんと水分は取らないとね」



暗がりの中でも、一目でわかった。

声がなくとも、きっとわかっただろう。



「やっほ。ジエーくん。来ちゃった」


「………な…なんで」


「あ、大丈夫。お留守番はちゃんとしてるよ。ただ今でもすごい気合い入れれば分け身くらいは出来るみたい。ふふん、愛の成せる技かな?」


「そういうことじゃなくて、その、なんでここに…?」



は、とそこまで行ってから彼はバツの悪そうに二の腕を、シャツの袖を掴んで伸ばそうとして傷を隠した。吐瀉物を吐き出したところから目を逸させんとした。


「あ…!えっと、これは!違うんだ!

おれは、その、えっと」



「ジエーくん」



びく、と肩を震わせた。

何を恐れてのものだったろうか。それはわからない。

ただ事実として、イエトはゆっくり、手を広げた。



「おいで」



ぽす。

考える時間も躊躇も後悔もなく、その腕の中に収まる。青年は目を開いて、息の荒いまま、そうしている。彼女はただそれをぽん、ぽんとゆっくり叩いた。こどもをなだめすかせるように。



「……わかってる、わかってるんだよ。

もうあの人たちは別人だ。優しくって、おれたちを育ててくれて、本当に優しい人たちなんだ。父さんも、かあさんも」


「なのに、だけど。頭でわかっているのに、ここに来ると、顔を見るとどうやっても思い出してしまう。前までのあいつらを、おれを、病魔をうつしたおれを憎むあの眼を」



「うん」


「そして、おれはそれから産まれてきている!どれだけ嫌でもどれだけ疎んでも、おれの中にはあの人たちの血がある!あの、おれを捨てたやつらの心がある!絶対に消えない、それがある…!」


「気持ち悪い!気持ち悪い、気持ち悪い…!

そんな事を、排他的な事を思うおれがいるのがまさにその証明になってるみたいで気持ち悪い。それを突きつけられるみたいな、どうやっても思わせてくる、ここが、この場所が!おれの故郷が!おれが!気持ち悪くて気持ち悪くて仕方ない…ッ!」


「そんなこと言わないでよ。

私の好きな人のことを、そんなひどく言わないで」



…少年の心に、根付いたままの傷はそのまま、残り続けてしまっている。それをも無くす為に、イエトは最初に自らも消し、そして少年の中の以前の記憶も消そうとしていた。

だが、彼は思い出してしまった。それ故に約束を守ってイエトは会いに来て、二人はこうして再開することができた。


だから故に、少年の心の傷は膿み続けている。

唯一、前世界にいなかった姉だけは、見ても大丈夫なようだ。それ以外の全てはきっと、この土地の匂いだけでも駄目なようで。


しばらく、そうして吐露とそれの受容は続いた。内臓を吐き出すようなグロテスクと、それを手で受け止めるような献愛。どれほど続いただろうか?時間には大した意味はない。ただ、ジュース缶はすっかりぬるくなってしまっていた。



「…ありがとう。落ち着いた」



青年がようやく一言、絞り出した頃に。

駅から最後の電車が走っていった。

今日中に帰るのは残念ながら難しそうだ。



「…おれは、まだ、子どもだ。もう無いものに、無くなったことに、お姉さんが無くしてくれたものに、未だに嫌な感情を抱いてるんだ。意味もない、訳もないってわかってるのに、それでも消えないんだ。消すことができない」


「おれは、お姉さんが言ってくれたように大人びてなんかないさ。おれは、おれは…

……早く、大人になりたい…」



ぼろぼろと、涙を流す。

すすり泣くことを我慢しようとするのは、目の前にいる人に失望されたなくないからだろうか。それとも、まだ前の世界の時にいる時に根付いてしまった、泣けば折檻をされる過去からだろうか。

それを優しい目で見つめてから、イエトは俯いた慈英に目線を合わせて語りかける。



「私の、経験則だけどね」


「大人になっても君よりずっとずっと割り切れない人だって沢山いる。歳だけ重ねても見合った中身を作れない人だってたくさん、たくさん。そして、ね。大人になったからと言って、そういう傷や思いが無くなるわけじゃないんだよ」



「…なら、どうやったらこれは治るの?」


「治らない。善くはなっても、完全に治ることは無い。私が『直し』てあげることはできたかもしれないけど、今ではもう出来ないし、それにキミもそれは望まないと思うから」



「……そっ、か」


「それが完全に治ることはない。でも、それが善くすることはできる善くなっていくことは、ある。自分の好きなことをして、自分を好きになって」


「だからそれまで、良くなるまではね。

おねーさんがずっと一緒にいてあげる。

君が満たされるまで」



「いやだっ」


がし、と手を掴んで。凄い勢いで青年は言った。それに半ば驚いて、家戸は目をぱちくりと動かす。



「いやだ、いやだ!良くなるまで、なんて嫌だ!よくなっても、ずっと一緒にいてほしい!おれが大丈夫になって、おれがここで本当に笑えるようになって、そうなったらいなくなるみたいじゃないか!そんなの嫌だよ!ずっと、一緒にいて欲しい!」



ぼう、とした静寂が二人の間に立ちこめる。

勢いのまま、強くぎゅっと、手を握ったままの自分に気がついて、慈英ははっと手を離して、申し訳なさそうな顔をする。

そうなってから。



「くすっ」



イエトが笑う。

離された手をもう一度、ぱしりと掴みなおした。



「うん。じゃあ、そうしよっか。

そうだな。私も、そっちの方が嬉しい」


「ずっと一緒にいよう。うん。そうだよね。元はと言えば、約束もそれだったもんね。そうしよう」



小指を突き出して、そして無理矢理、青年の指も動かした。そうして二人の小指が交差して。そうして、絡み合った。



「ゆびきり、げんまん。

嘘ついたら、また。」



はりせんぼん、のーます。





……





「さあ、それなら行こっか!」


「あ、うん。帰ろうか。

…いや、だめかも。さっき電車が」


「ああうん。あっちの家に帰るのもいいけど、さ。せっかく私がんばってこんな遠ーい所まで来たんだし。そう何度も何度もくるのも正直かったるいし。今のうちに済ませちゃいたいんだ」


「済ませる?…ってなにを?」



まだ、正体が何かは確かにわかってない。

これから先分かることも無いのだろう。

だがそれでもイエトが人外であるのはわかっていたから、そうした関連の何かなのかと思いそう聞いた。


そうされたイエトが心外そうな顔をする。



「なにを…ってひどくない!?ずっと一緒にいてくれるって約束したばっかりなのに!これはデッカい針いっぱい探さないと…」


「ちょっ、ちょっ!わからないんだ、何のことか!

謝るから教えてってば!」



そう聞くと、ああ、安心したという顔をして。

そうしてからにやっと悪戯に笑った。



「だからね。今のうちに済ませちゃわない?

キミの両親へのご挨拶!」


「え」


「異論は聞きつけません!

どうせ帰るのもできないし。さあ、出発!」


「あ、ちょっと待っ…!荷物、荷物持つから!」


そうして先まで下ろしていた荷物を急いで背負う。横に置かれていたぬるくなった缶ジュースもついでに拾い上げて、ポケットに。


ああ。暴れ回る姉の姿が思いうかぶ。

母も父も仰天するだろう。

というか、絶対反対されるはずだ。


数えるのすら馬鹿らしいくらいの数の波瀾があるのだろうと、慈英は苦笑いをした。そうしてから先に先に進む彼女の溌剌とした背中を走って追いかけた。



心の中の膿は、もう消えていた。



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