あの雨の日の続きを




この、怪物め。

これ以上お前を野放しにはしない。


─ああ、そりゃあ、そうだろうね。


私達には、人にはお前は殺せない。だが殺せないなりに、せめて此処に永劫居てもらう。そうして、今まで殺した者に償え。


─おっと、それは困るなあ。

私は退屈なのは凄く、嫌いなんだよ。


黙れ。もう二度と喋るな。


─私がだめにしたのだって、殆ど大したこともできない退屈な人たちであって。そんな世の損失にはなってないと思…ああ、もう返事もしてくれないの?お姉さんは、悲しいなあ



─おーい?


─……


─…内側から砕くのは、無理か。ただでさえ腕のほとんど切り落とされてるしな。力ももう全然残ってない…し、呪いまで込められてる。すごいな、ほんとに人の作ったやつかなこれ?


─…いやだ。


─いやだ、いやだ、いやだ、いやだなあ。退屈だよ。こんな暗い所で眼も飛ばさずうつしみも出せず意識を潜ませることも誰かを口車に乗せるのもできない。誰かを騙すことも破滅させる事も笑う事もできない。そんなのが、ずっと?無理だよ、無理。無理。そんなの耐えきれやしない。無理に決まってるよ。なんとか出来ない?ねぇ…


─…なんて、言ってもどうしようもないか。

ならこんな古屋で、私は居続けないとか。


─…いやだなあ。



─誰か、ここに来てくれないかなぁ。







……





…さん。と、さん?



「イエトさん?」



は、と息を吐き出す音を立てて目を覚ます。

真黒の髪は人離れしたようにさらついたままで、生き物のように、されど意思などなく重力に従って動く。そうして、彼女の裸身を隠した。

彼女が見上げる天井は、少し低くて、それでいて落ち着きがいのある場所。



「どうか、したの」


その彼女を、イエトを呼び、顔を覗き込む青年。その場が、安らぐ場所である理由の唯一にして最大のもの。彼の虹彩の奥にはほんの少し青色が混じっており、その深海じみた色は人の外のような感覚を彼に齎す。


だが、そんなことは無い。彼は、ただの人だ。そうでなくてはならない。そうしたのはイエトであり、そうあるべくしたから現在があるのだから。


青年の名前は、慈英。夏の日の小さな少年は、青年にまで成長している。



「夢。嫌な夢、悪夢とかじゃなくてただ昔の夢だった。まだ、ジエーくんに会う前の懐かしい記憶。まだ私が私だった頃のね」


「そっか。お姉さんも夢を見るんだね」


「あはは、うん。私も初めてのことだよ。

夢なんて不完全なものを見るなんて、私もよっぽど力のないモノになっちゃったんだねえ」


「イエトさんは、それを悔やんでいる?」


「それは無い。絶対無い。今度一回でもそういうこと言ったらお姉さん、大人気なくマジギレしちゃうぞ?」


「…うん、うん。ごめん」



それを、悔やむか。

それとはつまり、力を失う顛末。青年を、慈英の今生きるままにさせたこと。そうして約束を守るために、会いに来ることを選び、力の全てを削ぎ取られた事。だから断言して悔やんでなどないと言った。



「じゃあ、それじゃ。

本当に嫌な夢じゃなかったの?」


「まあただ昔の事だしね。キミも過去を思い出しても、ああこんな事あったなあくらいしか思わないでしょ?」


「でも、いえとさん、泣いてる」



「え?」



そう言われて、初めてイエトは自らの頬を濡らす感触とその理由に気がつく。自らの目から垂れる雫は寝起きや欠伸から出るものではなく、もっとほろほろと、静かに、それでいて確かに。滴り落ちていっていた。



「あれ、ほーんとだ。なんでだろ?不思議。今思うと、結構ヤだったのかな?そんな矮小な価値観してなかったんだけどなあ」


そう言ってから、自らのその黒髪の先端を手に取って自らの涙を右、左と一度ずつ拭った。そうしたきり、涙はぴたりと止んだ。腐っても人外だというように。


「よし、これで大丈夫!ごめんごめん、朝露みたいな自然現象だと思って?私はいつだってバリバリにげーんきなんだから」



ぎゅっ。

そう笑いながら立ち上がろうとした家戸の、膝立ちの時に。慈英青年はそれを抱きしめた。



「大丈夫じゃない。大丈夫な人は、寝てる間に泣いたりなんてしないよ」


「……」


「おれが、そうだったから。

それが、普通だなんて。あるはずが無いんだ。

それはただの、強がりなんだって」


そしておれの、そんな強がりを無くしてくれたのはあなただから。そう言って、一層強く彼女を抱きしめる。

家戸は無言で、それを抱き返す。

暫く、そうしていた。


さあああ。小窓に霧雨が当たるささやかな音が聞こえる。耳を撫でるその音を、人は優しさと錯誤する。



「キミはさ。ほんとやさしいよね」


「ううん。誰にだって優しいわけじゃないよ。でも、おれは、いえとさんになら幾らでもそうできる。そうするだけの理由があるから。そうなろうとするだけ、愛してるから」



相手を選ばずに行えるものこそが真なる献身では、あろう。だが殆どの存在は、無差別に平等の愛を振り撒くことはできない。献身とは結局、その対象を愛しているからこそできること。少なくとも、慈英はそうあった。

自らの献身を向けるほど、優しさを捧げれる程。

今はただ、このひとを愛していた。



「…ふぅー。

ジエーくんは本当に、お姉さん一筋?」


「当たり前だよ」


「そっか、なら私は色んな人を助けたかもね。もしも私を好きになってなかったら、キミ、とんでもない女たらしになってたと思うよ」


「ふふ、なんだよそれ」


「おや。その口のうまさに自覚的じゃないな?」


「違うよ。だって、貴女のことが好きじゃないおれなんて、ありえないよ。おれは何があっても、どうあってもいえとさんを好きになる。そうならないおれなんてきっと、いない」


「……」


「それに、その。

…イエトさんが助けるのは、おれだけであって、ほしい。贅沢だって、わかってる、けど…」



「……〜〜〜〜っ……」



ぷつり。

糸が切れたような音が脳裏に響く。

それは二人の間にある、プライベート・ゾーンの糸を、引きちぎって破った音であり。そしてまた、二つたちの間にあった、理性というものの絶える音。

そしてそれが響いたのは、どちらにだったか。

どちらにも、だったのかもしれない。



「もう、やめてよ。

お姉さんね。そんなに、我慢強くないんだから」



ちゅ、くち、ぢゅ、じゅる。

啄むようなものから、どんどんと深く。唾液の橋を作り、更に深めていく。貪るような水音は不規則に音を変え、舌の動きと共に口の位置を変えて、もっと、奥へ。


ざあああ。

深まっていく雨の音。

沈黙は二種の水音以外には蝕まれない。




─ああ。


─今なら、わかるな。



今こうして、矮小な存在になったからこそわかる。

どうして、彼女は彼にこうも惹かれていたのか。どうして共にい続けることを選んでしまったのか。こんなにまで命を、霊魂を、全てを削ってまでこれをして、それを全く後悔し得ないほどの献身を出来たのか。


それの答えはつまり、これだ。

愛して、しまった。

きっとその愛に理由はなかった。ただ、身を殺すほどに危険な存在とわかっていても助けてくれたということ。そうあっても退屈を救い出したその、それに。

外の神は一目惚れをしてしまったのだ。



雨が窓を打っている。

太陽の光が半端にしか届かない薄暗い部屋の中、蛞蝓じみて二人の白い肌が触れ合っていく。


指先のみ、唇だけ。

掌と、頬同士。

腕と腕。首と、首。

侵食するように、触る面積が増えていく。

じとりと、ゆっくりと。それでいて確実に。

存在を、確かめ合うように。

もう二度と陽炎に消えないように。



「はぁ、はっ。

……ねぇ、ジエーくん」



ほんの少し息を切らせて、どろりと蕩けた眼で男を覗き込む、黒い、昏い色。鏡のように姿を写す深い黒。


いつかあった時を思い出すようなじめりとした日。雨が降り、互いが互いのみを見ている時。絹鞘よりも白い柔肌が、一糸もなく露わになる姿。今は最早、二人の記憶の中にしかない次元と記憶の中の、じとりとした日。

雨の日の、しとね。

たぱたぱと、雨が窓を叩く。



「私はね。

愚かしくて、盲目で、自分に正直で。死ぬと思っても、そんなものより欲望に忠実で。結局、何かを愛さなくちゃ生きてけない人が、だいすき。

……やさしい、やさしい言葉を嘯いて。それでも何かを貪らずにはいられない。そんな卑怯な、可愛い子が、だーいすきだよ」



とさり、と軽い音と共に横になる。

触れればほどけそうな肌を、無遠慮に。

乱暴に触れて、しだく。

ただその欲のみが青年を支配した。



病魔。

呪い。

咳、吐血、涙、後悔。

あの時にはあって、それを止めたモノ。


それらは、今はない。

二人の時間を邪魔をするものはもうない。




「…うん。おれも。あなたが、大好きだ」





ざあぁ、あぁ。

どんどんと、強くなる雨。

窓を打つ、扉を打つ。風に吹かれていく。


梅雨が始まる。

夏の日が、また、くる。

青い葉がさらさらと揺れる風の憧憬。

陽炎が差すほどの暑さが、来る。


あなたといられる日が、ずっと、ある。





……




残る紐は、もう零本。

もう二度と、彼らは繋ぎ止められはしない。

約束に縛られることも、縛る必要もない。

陽炎の先の未来とは、つまりそういうことだから。



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