未来の先の合わせ鏡: いっしょにかえろう




それは、泣き顔の未来のその先。

醜悪なる怪物が、初めて自己犠牲という献身に目覚め、自らの我儘を押し通して道理を薙ぎ倒した先の話。こそあどやしがらみやかくあるべしを、その化物としての強靭で壊し切った先の未来だ。


「うーん…久しぶりのジエーくんの匂い。

君は変わらないねぇ」


あの後、陽炎の先に再開したイエトは、都心に出る予定であったままの慈英青年にぴったりと張り付き、離れようとはしなかった。青年も無論、満更ではなく。動きにくいと周りの目が痛いとは言いつつ、その手を離しはしなかった。

ところがまた、そのまま離れず、彼が一人で暮らす予定の家にまで着いてきてようやく青年は少しだけ疑問を思った。



「へー…ここが君の一人暮らしの家かあ!

なかなかいい場所じゃない!」


まあ、結局のところ彼からそれを聞くことも出来ず、あれよあれよと家の中まで着いてきてしまったのだ。良いのだろうか?と首の裏を掻きながらも能天気に喜ぶイエトの、ありし日とまるで変わらない姿にただ微笑んだ。


「うん。値段の割にかなりちゃんとした物件でさ。実はちょっと曰く付きらしいんだけど…ふふ、まあ今更だと思って」


「ハハ!言えてるね。ま、私が唾付けてる人に寄ってくる命知らずの奴はいないと思うし。英断だよジエーくん」


「…やっぱり、家戸さんって…」


「ん、何?怖いと思っちゃった?」


「ううん。かっこいいなって」


「ふふーん、そうでしょそうでしょ」


「うん。あの時からずっと思ってた。イエトさんはかっこよくて、かわいくて、美人で、何より凄いんだ。俺の憧れだ」



そう、真正面を向いて少しも照れずにそんなむず痒くなるような事を言い放つ青年。イエトは何やら居心地が悪いように眉を動かして、そしてそれはそれとして喜んでおいた。


「それはそうと、あそこから随分遠くまで来ちゃったけど大丈夫?家戸さん、泊まる所とかは…」


ふと話題を変えて、ようやく聞くことができるその事。ずっと青年の顔を見つめていたイエトはそう聞かれ、喜色からきょとんと表情を変えた。



「ないよ?」


「え」


「?当然でしょ?

これからここで私も一緒に暮らすんだもの」


「えっ」


「だって私、もう家も無いし〜?まさかこーんなうら若いお姉さんを外に放り出すなんて酷いこと、ジエーくんはしないでしょ?」


「そりゃあ、しないけど」


「…あ。それともジエーくんはもう私の事なんて好きじゃないかなぁ。そうしたらお姉さんショック。出て行こうかなあ、よよよ…」


わざとらしく、下手くそな泣き真似をする彼女を見て、困惑のまま目を見開いていた慈英は少しだけ肩をすくめて、まあ嬉しそうに、それとちょっと困ったように笑顔を浮かべた。


「まったく…俺、さっき告白したばっかりじゃないか。わかっててそういう事言うんだもんなあ、お姉さん。でもそういう意地悪なとこも好きだった。ううん、今でも変わらず好きだ」


「…ふうん?

なぁんだ。さっきから余裕ありげでつまらないの」


「ん。まあ、俺も俺なりに色々あったから…

…子供のままじゃないと嫌だったかな」


「アハ、何を生意気言ってるの『少年』。

私からしたら今の君も赤ん坊もいいとこだよ」


そう言って、改めて慈英の前に立つ家戸。

何年も前、精一杯に背伸びしても顔がお腹に埋まるくらいだった背の差は、今となっては少し顔を上げれば届くくらいに近くなっていて。青年はそれに少し寂しくなるような、それでいて、ああ、ようやく手が届くような所に来てくれたような。そんな嬉しさも覚えた。かあと頬が熱くなる。


「まだちょっと背は私の方が高いかな?

でも元気そうに育っててよかったよかった。

えらい、えらい」


そっと頭を撫でてくれる手にようやく初めて、ああ、この人が戻ってきてくれたのだと実感が追いついて。その感触にぐっと涙腺が緩みかけて、ここで泣いてしまっては格好つかないと思い必死に堪えた。


そっと手を繋ぐ。家族や友人のそれではなく、恋人が手を繋ぐように、指と指を絡ませて。いつかしたように。

とさり、と静かに床に押し倒される形になった。

互いに潤んだ目を、唇が触れる距離で眺めた。

そうしてから気付く。彼女の身体から、力や、寄り添った時のあの底知れない安定感だとか、そういうものが消えていることに。彼自身には何かしらの特別なものがあるわけではない。であるのにそれに気づけたのは、あの時の記憶が彼の中で一つも褪せていなかったことが、大きい。


その、慈英の心配の視線に気付いてか。

イエトは少し哀しげに笑った。



「結構、さ。ここに戻ってくるまで大変でさ。

そのせいで私もう、ぜーんぜん力残ってないんだ。

ごめん、隠すつもりはなかったんだけどね」


「…くっ、ふふふ!そんな心配そうな目で見なくても大丈夫。そんなすぐ死んじゃったりとかはしないよ!やっぱり心配性だなあ君は。

でも、前みたいな不思議な事は出来ないし、何かを叶えてあげることなんてしてあげれない。君の、おねがいを叶えたりもできないの」


「……ね。君は、そんな私でもいい?」



そう言う彼女をぎゅっと、抱擁する。

慈英青年にはこの彼女の問いが、そんなわけがないという否定ありきの質問であるとは分かっていた。寧ろそれで、よかった。

故にそれはただ、家族がするような愛のハグ。

ただただ心から純粋な、愛の。


「俺は何かをしてくれるから貴女に恋したわけじゃない。貴女がおねだりを聞いてくれるから、好きになったわけじゃないんだ」


「家戸さんは、家戸さんだよ。それに、おねがいなら一番大きいのを叶えてくれた」



「む、どれのこと?虫取り?お料理?

それともやっぱりあのえっちな事?」


「ぐ…ち、違くって…!『やっぱり』ってどういうことだよ!そういうことじゃなくって!」


くく、やっと狼狽えてくれた、と悪戯に笑う彼女。それに出鼻をくじかれ、頬を掻きながらも伝える。きっと少しだけ背伸びした大人になったから、十全に愛と感謝を理解して言えるようになった事。



「家戸さんはもう一度一緒に居たいって願いを叶えてくれたんだ。俺はもうそれ以上は望まないよ」


だから、いっしょにかえろう。

ただ、即物的に家に帰るわけではない。

自分たちの心の中にある、憧憬に。


慈英は自らが過ごした時空とは別の因果に巻き取られて、あの世界にはいられなくなった。家戸は古屋も無くなり怪物としての矜持も力も失った。夏は終わりに近づいてくる。だけれどそんな事は何一つ問題ではない。何一つとして、問題ではないのだ。


彼らは今、ようやく帰ることができたのだ。

二人は互いに出会って、同じ風景を見た。

同じ感情と罪を背負ったあの夏の日に。

あの、うんざりとする程の蝉時雨の中に。

陽炎の先にかえろう。

手を繋いで、いっしょに。



「前言撤回しなきゃね。

君は変わらないなんて言ったけど大間違い」


「そう?」


「うん。あの時よりずーっと男前になった。

私いっそう君のこと手放したくなくなっちゃった」


「……そっか。嬉しいなあ。

でもあまりそういう事ばかり言わないでくれよ。

そんな事ばかり言われたら、俺、おかしくなる」



「へえ。なったらいいじゃない?ジエーくん」


イエトは、仰臥に。

慈英は腹臥に。

ずっとそのままの状態だった。抱き合ってそのままに、挑発的な言葉を言われて。慈英はただ鼓動を打つ脈拍のまま、衝動のままに──




「慈英ー!

引越し祝いに来てあげたわよ!」



───しようとして、扉の爆音に遮られた。



「もー、疲れた!わざわざ頼まれるわけでもなくこんな遠いとこまで来てやったんだから私に感謝しな……さ……」


「……へえ?こんにちは」



目を細め舌舐めずりをし来客を眺めるイエト。

どさり、と持ってきた土産を床に落とす来訪者。

ああ。今、来てくれたのは姉だ。彼を大分過保護気味に世話を焼いてくれるお節介焼きな慈英の姉。


慈英はただ、これから先二人に言われるだろう事が分かり、頭痛にこめかみを抑えた。関係性の説明自体は簡単ではあるが、そんな説明が全く持って通用しないことも、わかってしまったのだから。



「…ねえ慈英」

「ジエーくん?」



「「この女、誰?」」






……




……そんな風に。

家戸は自らが因果を捻じ曲げた影響で生まれた、彼の姉という最大の障害物にどうにも悩む事になる。


だがそれはまた別の話。

一先ずこの鏡は、ここでおしまい。



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