泣き顔の未来: 一夏は陽炎と共に




イエトは花棺に包まれた少年を見つめていた。

それをどういう貌でしていたのだろうか。

否。それはきっと、貌が、というものではない。

ぱたぱたと、雫が少年の頬に落ちた。

透明な雫。ほんのりと青く白く光る滴水。

渇いた砂に吸い込まれるように消えていく。


彼女はぐっと目を瞑り、涙を切る。

髪をそっとかき上げて、首を静かに下へ。


少年と、彼女の顔の影が重なる。夕暮れの橙色に映されたそれは、惜別の涙も残さないまま終える、静かな口付け。



「……ごめんね。お姉さん、嘘つきなんだよ。

でも、先に約束を破ったのはそっちだ。

だから、これはノーカウントにしてね」


瞬間に。

ごき、ん。世界が歪んでいく。

時間、空間、そういった物が捻じ曲がり切れて弾けて飛ぶ。先にある未来もそれまでの過去も溶けた飴細工よりも遥かに原型がなくなって。指で取り紡いで変えていく。糸を縒るように、紐で縛るように因果を変える。閉じたままのイエトの目から、つうと青い血が流れた。

禍福は糾える縄の如し、だと誰かが言った。

それをそのまま、形にしたような光景だった。



「……ふぅーっ、さすがに、つらいな。

特に病み上がりだとなあ」


そう言って、最後に横たわったままの少年の頬に触れようとして。そうしてから、美麗とはかけ離れた怪物に戻っている自分の腕に気付いて、そっと手を引いた。

ただ泣きそうな顔で。それでも微笑み、じっと眺めていた。許される限り、ずっとそうしていた。


(…またね、とはもう言えないね)



(さよなら、慈英くん。

きみと会えて、私とっても幸せだった)






……





「こらー!起きな、慈英!じーえーい!」


「ん…

!?わあ、うわあ!危なっ!

な、なにするんだよ!」


「だってこうでもしないと起きないし。

あんたいーっつもねぼすけさんなんだもん!」


「もう、いつも普通に声をかけてくれれば起きるっていってるだろ!ねえちゃ…ん……」



慈英少年は今の自分の発言に、口を抑えた。

何故だろう。彼自身もよくわからない。

何か変な事を言っただろうか。言っていない。

目の前にいる、布団に寝た自分をヒップ・ドロップで潰そうとしたこの人は、彼の姉だ。粗暴で口うるさいけど、優しい姉。


「…ねえちゃん、だよね?」


「はぁ…

ちょっと待ってて。バケツもってくる」


「寝ぼけてないよ!

というか、水浴びなんてしたら風邪ひくだろ」


「べーっ、慈英が風邪なんて引いたこと一度もないじゃん!馬鹿は風邪引かないんだよ!」


そうだ。自分は健康優良児で、風邪も病気にも罹ったことがない。怪我は多くても、いつもそれが自慢で。今日はそうして、家族の皆と出掛ける筈だったんだ。姉と自分にしつこくねだられ、優しい父と母が、やれやれと、頷いて…


「……?

…ごめん、やっぱりおれ変かも…」


「いーからさっさと準備してよ。

あたし、もう待ちくたびれてるの」


…何を、おかしいと思う事があるんだろう。何も変な事は、ない。ただ何かの名前を忘れているような気がするが、そんなこともない。

やはり寝ぼけているのかもしれない。

少し空気を吸おうと、からからと窓を開けた。


かつ。

引戸にひっかかる何か鉄の音。小さいはさみだ。なんでこんな所に落ちているんだろう?と拾う。



その鋏には、古びた紐糸がこびり付いていた。


それを見た瞬間に、脳裏に全てが走った。そしてそれよりも早く、少年は靴を持って駆け出していた。



「あっ、ちょっと!慈英!?」


「ごめん、ねえちゃん!」

ちょっとだけ先に行っててッ!」


ただ運動靴だけを履いて着の身着のままに走る。場違いなほどに軽い自分の身体を全力で駆動させて、猛ダッシュで。

たった一つの場所に向かう。山の中へ。



「はっ、はっ…!」


虫除けも付けてこなかったから、身体中を藪蚊に食われる。靴下も履かないまま飛び出したから、靴擦れで足が痛い。水も持たないまま陽炎の中を走るから、喉がからからだ。

そんな事はどうでもいいから、走って、走って。山の中を進んでいく。場所は覚えている。ただ、この朧げな記憶でも。頭がそれを忘れようとしていても、彼女の全ては、彼の全てに染み付いていた。


「はっ、はっ!」


あれは夢じゃない。優しい姉なんておらず、優しい母も父もいない、あの自分は、ただただそれでも現実だった。

あれが、夢なわけない。

『あなた』の存在が嘘でいいわけがない。

あの自分の境遇が、あなたに逢わせてくれた。


自分の夢や妄想なんかでもない。

偽物の存在を、空想を。こんなに愛せるものか。

愛される事を知らなかったおれが。

あんなに愛してくれる空想を抱けるものか。


「ぜっ、はっ、ぜっ、ぜっ…!」


七度も、足を運んだ場所だ。

だから絶対に場所は間違えない。

ばくばくと鼓動を放つ胸を抑えながらゆっくりと歩く。汗がぱたぱたと雑草を濡らすほど垂れても、一度も止まらないで。

そこになら、『あなた』がいると信じて。


そこに、辿り着く。



「はぁっ、はぁッ……!」



そこには。

ただ、ぼろぼろの木くずだけがあった。苔だらけでとうに崩れて風化した、元は小屋だったらしき、だけのもの。それだけしか、無かった。

それ以外のものなど、あった痕跡すら無い。


がくり、と、疲労と脱力で地面に膝を付く。

だん。力なく拳で地面を叩いた。



「…うそつき」


それを言う資格は自分にないと分かっている。

最初に破ったのは、彼なのだから。

だけどそれでも、言葉も、感情も湧いてきて仕方なかった。その姿は生死を達観した少年ではなく。ただ普通の子どもの姿だった。その人並みの感情は『あなた』が、与えてくれてた。


「ずっと一緒にいるっていったのに」


「うそつき!お姉さんも、おれと居たいって言ってたのに、約束してくれたのに!ずっといっしょに居たかったのに!なのになんで置いていくの!なんで、なんでおいてっちゃうんだ!」


「うそつき、うそつき!うそつき!

…いえとさんの、大嘘つきぃっ!!

うう、うう…!

うああああ、ああああああっ…!」



大粒の涙をぼろぼろと流して、大声で泣いた。

隠していた感情も全て取り払って、泣き続けた。

うだる夏の陽射しに流す汗よりももっと多く。


陽炎と共に、泣き声だけがこだまする。

ただ、ただ、ずっと…








……






じーわ、じわじわじわ。

蝉の声と風に揺れる草木のざあという音以外は閑散とした、誰も居ない場所。木陰に隠され木漏れ日が夏の光を思い知らせる。

そんな蝉のオーケストラの中に一つ、別の音。

しゃらしゃらしゃらと軽い鉄がぶつかり合う音が聞こえてくる。何かと問われれば、人に依る音。


小さな麻袋をひっくり返し、大量の縫針を小さい石碑の前に置く。そんな奇行をしている、青年の姿があった。音源はそれだ。

年頃は十七、十八程度。精悍な顔立ちの中にあるその虹彩は、ほんの少しだけ青みを帯びていた。



「きっと千本はないと思うけど…

全部数えるわけにも行かないしな」


そう一人ごちてから、ぱん、と柏手を打つ。

小さな小さな、荒削りな石碑。山の中にぽつりとあるそれは、数年前に撤去された廃材の代わりに、この青年が置いたものだった。

誰も居ないとわかったまま、ぽつりと話し出す。

それは彼がずっと、ずっとやっている事だった。


「…俺、今日から東京の方に行くんだ。

きっと、ここに来ることも少なくなる」


「『あなた』がここに、俺の居場所を作ってくれた。母さんや父さんも大好きだし、姉ちゃんも…はは、泣いて俺を引き留めようとしてくれた。それは、心の底から嬉しいんだ」


「だけどやっぱり俺にはこの場所は居心地が悪いんだ。家族のせいじゃない。この土地が、どうしても俺には気持ち悪い。俺がここで、唯一居心地が良かったのは……」


ざあ、と風が吹く。

その日は、涼しげな風が良く吹いた。

ここに来るようになってから幾度目の夏か。旅出の直前に気持ちのいい日を迎えられたのは、青年には嬉しいような、寂しいような気がした。


「…俺は何にも知らない子供だった。

約束を破られたって、そこに居てくれないなら。

針だって呑ませることもできないじゃないか……」


そうして、柏手に合わせたままの手を離す。目をそっと開いて名残惜しそうにその場に立っていた。ただ、それでも気温の暑さに根をあげて。そろそろ戻ろうと、踵を返した。




「へえー。変わったお供物だね、少年」


瞬間。背後から、そんな声が聞こえてくる。

もう少年などと言われるような歳でもないと、そう分かっていながら、その青年は。

慈英は、ぴたりと足を止めた。



「!……ええ。

実はこれ、俺がある人の為に作ったんです。その人がまた、酷い人でして。約束も破ったきり、何も言わないで俺から消えてしまった」


「あらら。それはひどいね」


「ええ、本当に」


「そのひどい人のことは、やっぱり大嫌い?」



そう聞かれて、少しだけ息を呑んだ。

それは悩んだ訳では無い。

ただ、すう、と。息を吸った。

自分の心を、全部伝える為に。



「ううん。俺の初恋だった。いや…

今でもずっと愛してる。ずっと」



ざあ、と、再び夏風が木々の緑を揺らす。そしてまた、それと共にたなびいた白いワンピースの、その白さが目に焼き付いた。

鈴の転がるようなその声音と、麦わら帽の下から伸びる黒い髪が、振り向いた慈英の目に確かに映る。



「…いや、さ。こっちも大変だったんだよ。存在する時空だけじゃなくて、過ぎた因果や運命とかを改変したから死にかけてさ。しかもそれだけじゃなくて、色んな奴らからも睨まれて!二度と戻ってこれないって、本当に思ってたの」


「でもさ。約束は約束だもん。

やっぱり、破っちゃいけないよね」



じゃらあん、と石碑に供えられた針の束を蹴飛ばす音。黒い小さなミュールが、もう必要ないよね?と言うように軽快に散らかした。


言いたい事は沢山ある。恨み言も、泣きたいほど嬉しい気持ちも、相変わらずの綺麗さを褒める美辞も、愛の告白も謝罪も。だけどそれよりももっと言いたい事が無限にあって、そのどれもがせめぎ合って出てこれなくて。

だからなんというか、それがもどかしい。


だけど、だからこそ。

どうしても言いたい言葉だけが。





「おかえりなさい。家戸さん」



「うん。ただいま!ジエーくん」






……




一夏の思い出はただ、陽炎と共に消えぬ。

だからその続きはきっと、陽炎と共に在るべきだ。


蝉時雨と茹だるような陽射し。

ただ、不確かを表す揺めきの元に。

不確かを、二人の存在で確かめあっていく。

揺らぐ陽炎を否定するように。

実在を疑わないように。


陽炎の元に、手を繋ぐ。



おかえりなさい。

ただいま。








ED.3 いっしょにかえろう

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