笑みの未来: 永劫回帰
彼女がどのような貌を浮かべていたのか。
その答えは、ここに於いてはただ一つ。
笑顔。笑み。
それはそれは、おぞましい笑みだった。
よほど怒りの方が羨ましくなるほどのその笑み。
嘲笑、諦め、絶望。
笑みが喜び以外で喚起される事はままある。だがその笑みはそのようなものですらも無い。言語化をできることも無い。もっとも、言語化出来ようときっとそれはヒトには理解出来ない。そんなものだ。
「いやだなあ。そういう、意地悪するの。
君は意外と天邪鬼だよね」
「ね。そんなくだらないことはやめてずーっと遊んでいようよ、ジエーくん。君は楽しかったはずだ。
私も、楽しかったんだよ。この一週間が」
蒼い髪先がずるりと展延してかたかたと揺れる。それらは別の生命体のように蠢いてから、首をもたげながらその蛇のような肢体で立ち上がり始めた。そこにあるべくは絶望的なまでの恐怖。
だがそれを表す生命体は彼女の周りにはいない。
「お姉さんは君が大好きだよ、慈英くん。
きみもそうだって、言ってくれたよね。だからこれが一番良いんだって、言ってくれるとも。ああ、絶対にそうだ」
けらけらと、笑う。
身体全体を歪めて全身で笑う。ああ、蛍光の青色がずる、と空間を掴む。時間を触る。時空が砂細工のように歪んで壊れていく。幻影などとは、そんなものでは済まない空間の操作。
七本の紐はその平和を繋ぎ止めるものだった。
七本の紐とは少年の安寧の死を約束する物だった。
少なくとも、約束された祝福である、死のみは。
彼自身がそれを引きちぎったのだ。
彼はそれ故に、死すら赦されなくなった。
自業自得と云うにはあまりにも悲惨でありながら。
それが幸福であるならそうかもしれない。
「だから一緒にずっと居よう。
ずっとずっと、一緒にいようよ。約束通り。
ずっと、ずっと、同じ出会いをしよう。
同じ関係でいよう。同じ日々を、過ごそう」
「約束したもんね、ジエーくん。
お姉さんと、ゆびきりしたもんね?」
ぐにぃ、と空間と時間と、それを司る宇宙が歪んだ。その歪みをして、ようやくイエトの笑みは丁度のよい顔に見えた。
全てが湾曲し恣意的に変わり。
次の瞬間にはそこに彼女と、少年の姿は無かった。
すっかりと日の落ちた山々の中。
荒涼とした夏風が草木をなぜる。
…
……
胎児よ胎児なぜ躍る
母の心が分かり恐ろしいか
胎の中で原罪の夢を見て恐怖に躍るなら
胎児になれず繰り返す者は何に躍れば良いのだろう
水子よ忌み子
愛を得られず潰された忌み子
羊水に浸らず悪夢を揺籠に何を見る
何を恐れて何を愛す
母でなく父でなく
醜悪な怪物を愛す胎児よ
…
……
「…う…ん…」
長い、長い夢を見ていた感触だった。
気怠い身体を無理矢理に起き上がらせる。
病魔に侵された自らの身体は、節々がずきずきと痛んで、鉛のシャツを着せられているように重い。もう、慣れたものだけれど。
(なんだか、へんな夢をみてたな。
まるで……)
(……まるで、なんだったっけ。
思い出せない。何を見ていたんだろう、おれ)
(………)
そうしてその上で、その少年は。
そのような状態のままで。
慈英、少年は。
がらがら。
その日に何故か、戸を引いて家を出た。
外に出るな、感染させるな、そのまま死ねと言われ、仕方ないとそれに従っていた無気力な少年は、どうしてもその時にだけ禁を破ったのだ。ただ一度だけ、首の後ろをさすってから、小さなはさみだけを手に取って外に駆け出した。そこに何かがあったような喪失感に囚われて。
「はっ、はっ…
あつい…なに、してるんだろ、おれ…」
周りに誰も人がいない事を祈りながら走り、そうして木陰で休む。胸を抑えて、誰も見えないように側溝の穴に喀血する。無理矢理に、真夏日に、水も持たずに走ったのだ。そうはなるだろう。だけど口の横の血の汚れを手首で掠り取ってからまた少年は歩き出す。
一度だけ、訪れたことのある場所。
まだ在りし頃の友人と、遠景に見えた古屋。二度と近づくなと、折檻されて暗い倉庫に幽閉された苦い思い出。
二度と近寄ろうと思ったことはなかった。
だけれど慈英は今、真っ直ぐにそこに向かっていた。
(しぬほど、あつい。
しぬほど、からだが重い。
だけど、けれど…)
(けれど、それがなんだ)
今日、この日にそこに行けば、何かがある気がしたのだ。誰かが捨てたポルノ・雑誌でもいい。不法投棄された化学物質でも良ければ誰かが隠した一財産でも、ちょっとした楽しみになるものだったなら。
この無意味な人生を少しでも彩ってから、死なせてくれるなら。誰にも生きる意味を問われなかったこの自分にも、やりたいことはあって。それを少しでもやらせてくれるならば、なんでも。
ただ、そんなものよりも。もっともっと危険で、毒物的で、故にこそ蠱惑的な非日常がある。そう確信していた。
そこは危険であると全身が直感している。
であるのにそこに近づく手は止まらない。
危険なものとは、人を惹きつける。
美しいものも、人を惹いてやまない。
どちらも満たしているのなら、尚更だ。
古い、古い木の家屋。小さく急拵えにも見え、その実頑丈に作られた古屋。厳重に巻かれた縄と札を取っていく。壊していく。
(……?)
それをしている最中、デジャヴに包まれた。
こんな事をしたはずなど、無いのに。
だけれどそんな違和感すらすぐに忘れる。
苦しさと、恐怖。そしてそれを上回る高揚感が今目の前にあるからだ。
「おや。きみは…
ずいぶんかわいいお客さんが、来たものだね」
どんな見た目をしていたか。
すぐにわかった。
真っ暗闇の中、光も焚かずにそれでも。
それはどうやった、というわけではない。鈴の転がるようなその声を聞いた瞬間に姿が手に取るように分かったのだ。その感触すらも分かった気がした。
(おれは、一度。
この人を見たことがあるような気がする)
いや、それも的確でない。何度も、何度も何度も、何度も。見た気がする。ここで逃げなければ、また同じ光景を見る気がする。幾度も幾度も、無限にここに来るような気がする。
勘としか言えない、感覚。だけれどそれは正しく。ここで逃げればきっと、少年はまだ永劫に囚われることは無かったのだろう。
だけれどそれでもよかった。
少年は一度その場から逃げ出してから、もう一度古屋を訪れた。手持ちのはさみでは難しいだろうからと、鋸を家から持ってきて。
自分の第六感の全てを無視した。それを放置した。それでよかった。それこそがよかったのだ。少年にはその女性の全てが、心地よかったのだから。
こういう、怪しい大人にあったら逃げなきゃだめだよ?目の前の女性がそう嘯いた。
おれだって、そんなことはわかっている。
あなたが怪しいのだって、おれでもわかる。
だけれど、それでもいい。
だって。
「いいこと、してくれるんでしょ?」
そう慈英が呟いた瞬間。
繋がれたままの真っ黒い眼が少年をじっと見つめた。それは心の奥底を覗き込んで土足で踏み込むような。大蛇が我が物顔で草を薙ぎ倒して道を作っていくような感触。
その目は。
どんな感情で向けられていたのだろう。
それはきっと、その怪異本人にもわからない。
「うん。してあげるとも。
お礼に、なんでもしてあげる。
もちろん、お姉さんが直々に、ね?」
「ね。だから少年。明日もおいでよ。
一本ずつ、紐を切りに来て。そしたら…」
「ふふ、ふふふふふ。
そしたら、『もっと』もっと遊べるから。
君が来てくれる限り、ずっと」
「ずっと。ずっと、ずぅーっと……」
…
……
それに魂を喰らわれた者は、永劫囚われる。
実際、それは真実なのかはわからない。
そうなって戻ってきたものなど居ないのだから。
だけれど、しかし。一つ確かなこと。
その夏の七日は、永劫を迎える。
一夏の思い出。
その一つの夏はただただ、永遠に巻き戻されて。
堂々巡りに、永劫回帰に。
終わらない、思い出を堪能しながら。
それはただ、堂々巡りに。
ED.2
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