七つ目の紐: あなたがすきだとつたえる




「………」


暗い古屋の中で、ああ、と目を閉じた。たった二日の前までは待ち望んでいた筈の足音。頼りのなくて軽い音はそれでも、迷子になったような迷いのあるものではない。何にも迷わず、心を惑わすための何者にも目を向けない。きっとそれは、そうする時間など無いとわかっているからでもあるのだろう。

さまざまな眩ましをしてから、結局それに意味がないと分かってやめた。代わりに、少しだけ迷ってから。口を、開けた。

君の中に言葉が届くようにと。


「…やっぱり、君は来てしまうんだね」


おれには、それだけが大事なことだから。


「近づかないで。

私、慈英くんが嫌いになっちゃうよ」


ありがとう、いえとさん。

でも、嫌ってくれてもいい。


「……っ。頼むから、来ないで」


……ごめん。それはできない。


なにかもっと、肉体的に干渉する何かをすれば彼を止める事は出来ただろう。だのにそれをしなかったのは、彼に何かをすればそのまま斃れてしまいそうだから、という事もある。

だけれどきっと、それを言い訳にして。イエトはそれでも、ここに来てくれる事を期待してしまっていたのだろう。それは紐を裁断するという即物的な事ではなく。逢いにきてくれるただそれに。

怪物は初めて、自らの醜悪さを恥じた。


がちゃり、と扉が開かれる。

ぜえ、ぜえ、と息を切らしながら。

手にあるものはいつか見た小さなはさみ。

初めてここに来た時に、見せていた文房具。


「はぁっ、はっ…い、えと、さん…」


がくり、と膝を折って胸を抑えて倒れ込む少年を前に、彼女は何もしない。今までのように、分身を出すこともしない。彼を介抱してしまえば、少年は一層、イエトを救う決心を固めるだろう。

その優しさに、より救われて。



「…はは、馬鹿だね、ジエーくん。私は君を利用してただけだ。それがわからないかな」


「うん。わからないよ」


「そのまま、紐を切ったら無事じゃすまない。

確実に死ぬよ」


「おれはもうどうなってもいいんだ」


冷徹な声を出さんと努めている。

そのつもりでも、もはや声音に暖かさがある。実の所、冷徹な言葉を冷徹に言えたところで、少年の決心は何一つ変わらなかっただろうけど。


「おれを利用したかっただけなのかもしれない。本当は、こうしちゃいけないのかもしれない。いえとさんは色んな人をころすかもしれない。でもおれはお姉さんにだけは自由になってほしい。それがほかの人にとってダメなことでも、みんなにとって怖いことだとか、おれにはどうでもいいんだ」


小さなはさみを構えて、息も絶え絶えに立ち上がる。心だけが身体を支えて縛られている黒い紐に向かう。暗闇の古屋で幾度も幾度も転ばながら、這うように前に。


「…なんで、そうまでしようとするの。

私が、しなくっていいとまで言っているのに!」


イエトは歯を剥き出して言う。

慈英はただ、それに笑う。

力なく、頬を動かす元気もないように。

そしてそれでいて、此方を安心させる為だけに。



ぎゅっ、と。

足元に辿り着いていた慈英がイエトを抱きしめた。イエトから抱きしめる、ではなく。少年から彼女を抱擁するのは初めての事。全ての想いを伝え切るまでの長さのようで。そしてまた、氷のように冷たい身体と時間だった。感触が、互いを見つめさせた。


「…おれは。お姉さんのおかげで死ぬ前にやりたいこと、全部できたんだ。はじめて、おれは生まれてよかったと思えた。死んだっていい、じゃなくて、死んでもいい、って思えるようになったんだ」


「……いえとさんのおかげなんだ。

おれのいきる意味は、あなたがくれたんだ。

おれの、いきた意味はいえとさんだけなんだ…」


「だから。いえとさんにだけには。

幸せに、なってほしいんだ」


しゃき、しゃき。

麻布よりも柔らかに切れていく、イエトを縛る最後の紐。両手も、両足も既に解放されて。イエトはそれを止める事だって出来た筈だった。そして、そう止めてしまえばいいと、直前まで思っていたのだ。

なのに、少年のその悲痛な吐露と愛を聞いて。イエトはその引き止める手をこそ、止めてしまった。彼女には止める事が、出来なかった。


しゃき、しゃき。

はさみが鉄から崩れて壊れていく。

その柄も伝播して、真っ黒に壊れる。

そしてそれを手に持ち使う者も。

手の先から黒くなっていくことがわかっていても。



しゃきん。


「………」


…家戸の身体に刻まれていた呪詛が全てぺりぺりと剥げ浮き、崩れていく。身体中に鉛の棘の如く鈍痛を走らせていた全てが消えていく。服にまとわっていた黒色が、蟲のようにぞわぞわと彼女から逃げていく。家戸の体から、全ての封が解けていく。


それの、代償に。


かふ。

慈英は咳をする力もないままに倒れ伏した。

うつぶせに倒れた床にじんわりと広がる真っ黒の血。呪いと病とまじないが混じり、いよいよ人でない血。小さな身に余る業を背負った証座。


家戸はそんな少年を抱き上げた。

そうしてそのまま薄暗い古屋の中から出る。

外は目を眩ませる程の晴天だった。



「……きれいだ」


「ふふ。私はいつだって美人だったでしょ」


「ううん。前よりも、もっと」


光に照らされた、本物の家戸。

それを見て慈英は安心したように目を閉じる。最後に見たものがこれ以上なく美しいものであるということの、幸福を噛み締めるようで。それを見て、それならと、いつものように微笑みを浮かべる。

例えもう、目など見えていなくてもいつも通りで。



「いえとさん。

お願いが、あるんです」


それは、紐を切った褒美。

毎回に、対価として渡されていたおねだり。

それを一つ、少年はもらおうとしていた。

目からも黒い涙を垂らしながら、痛みに耐えて。

たったひとつの、ちっぽけな願い。


「おれの言葉を、忘れないでください。

おれのことを覚えていてください」


「……」


その沈黙をどう思ったろうか。

それとも、もう何も聞こえなかったのだろうか。

目を閉じたまま、迷ったように、逡巡して。

でも、言う。




「だいすきだよ、家戸さん。

おれ、貴女を愛してました」






……




ざあ。

夏の風がぱたぱたと衣服と髪を靡かせた。

家戸がそっと手を動かすと草花は柔らかな寝台の形になって。その上に、腕の中のものを乗せた。

その頬を、そっと撫で続ける。

爽やかな夏風が止むまで、そうし続けた。


「…ばかだなあ、君は。

そんなお願いしなくても、忘れなんてしないよ」


封は全て切られ解かれて、解放される。

その度に願いを叶えて欲望を果たした。

そういう、契約だった。

契約の全ては成就した。

全ては果たされて、終わるだけだ。

一人と一つの関係は、終わった。


「きみは、傲慢だね」



そうだ。

このまま、二人は終わる関係のはずだった。

なのに。イエトは心の中で呟いた。

ただ一つだけ。

履行していない約束がある。



「………死なせるもんか」


「約束を守らないのはよくないよ、少年。

ゆびきりしたでしょ。

ずっと、一緒にいようって」



そうだ。紐の残りは、もう無い。

故にこれは、ただの我儘。

怪物の身勝手な、願い。

ただの口約束で、契約でも呪いでもないもの。

それを呪いにしてしまうほどの、想い。


死なせてなど、なるものか。


そうして地面につくほどの長い、黒色の髪は煌々と青色に輝き始める。その青は星空のようで、宇宙のようで、深海のように底知れなく全てを飲み込むような、残酷な美しさだった。

全身と、それを包む空気が黒く濁っていく。美しい女性の見た目と、目の前にある花棺に包まれた少年の肢体だけが鮮明なままになにかが変化していく。


どれか、どれもが変わらんとする奔流の中。

イエトは一人表情を歪めていた。


彼女が、浮かべていた。

その貌はどんなものだったろうか。






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