六つ目の紐: ねたむ
少年が目を覚ましたのは、見覚えのある家の天井。
そこに充満する、あるはずがない匂いと音。
家庭的な芳しい和食の匂いと存在するはずがない生活音で目を覚ます。不審に身を起こすと、すぐ横に、人影がある。
「おはよう、ジエーくん。
もう少しゆっくり寝ててもよかったのに」
「あれ、いえとさん」
「ふふ。ずっと側にいるって言ったでしょ?
君が、いっぱい切ってくれたおかげだよ。ここにいる時間も延ばすことができたし、色々他にもできるようになったの」
そうして微笑む姿は、ジーンズとシャツを着た活動的な姿。髪を横に纏めテールにしている。伊達だろうか、眼鏡までして。それまでとはまた趣向が異なるその姿に、またほうと見惚れてしまう。特にまた、それまでスカート然とした服ばかりを着ていた足のラインを見て。
「うふふふ。毎回毎回、反応がいいなあ。
服を変える甲斐があるよ」
「えっ、あっ…
そ、そんなにおれ、わかりやすい?」
「うん、すっごく。ふふふ、いーじゃん今更隠そうとしなくったって。そういうとこも可愛いよ?」
結んだ髪をそっと手で取り、それで少年の首元をくすぐる。理髪剤やコンディショナー等の香りではない。ただもっと、自然的なにおい。それが慈英にはひどく心地よく、故にこそくすぐったく、堪えられなかった。
「あはっ、ははは!やめ、やめてよいえとさん!」
「おっ、ようやく笑ってくれた。
よかった。お姉さん、君の笑顔が一番好きだから」
はっと、そう言われてから気づく。
少年はイエトに出会ってから、彼女に会ってずうと笑っていたこと。そして今は、このくすぐりに笑うまで、ずっと消沈した顔をしていた事。消沈の理由は、ただ一つ。そして笑った理由はただまた、こそぐられた感覚のそれではない。
「…とうさんもこれで、死んだんだ。
かあさんたちはおれを置いてでてった。
みんな、うつるから誰も寄り付かなくなったんだ。
だからおれは…」
懺悔をするように、昨日の、沈んだ顔の理由を話さんとする少年。しかし彼女はそっと口を塞ぐ。あどけない頬に口付けながら、人差し指の腹で未発達の唇の真中をぴたりと閉じた。
「いい」
「言わなくて、いいの。
そういうことは、知らないままでいい。
きみにとって、私はただの『イエトさん』。
そして私にとって君は、かわいい『ジエーくん』。
ただ、それだけでいいでしょ?」
「う、ん」
「ん、そうそう。君はそれでいい。もっと身勝手で忘れんぼで、もっともっと甘えん坊さんになってくれた方がいい」
「そうなった方が、お姉さんは喜ぶ?」
「うん!ジエーくんがそうだったら、お姉さんは嬉しい。勿論、今のままの君もそれはそれでたまらないけどね…」
そうだ。笑顔になった理由は、ただそれだけではない。そういった過去や理由などを笑い飛ばしてくれるのだと、目の前の女性に信用をしたからだ。この人ならただ病も感染もなく、自分を見てくれるということをこの数日で、ずっと分かったからだった。
するりと口付けの距離からイエトが腕を動かす。少しボタンが取れかけた少年の寝間着の胸元にそっと手を這わせる。
「んっ…」
またくすぐったそうに、身を震わせる。
だけれど少年は、更に内側を弄るその細い指先になにもしない。動かず、拒否もしない。寧ろそれに眼をぐっと、瞑って待つように…
「こらーっ!ずるいぞ、『私』!」
すぱあん、と台所の戸を強烈に開ける音。
爆音に驚いた二人がそっちを向く。そこに居て、ぷんぷんと怒った様子で立っているのは割烹着姿のイエト。身幅のある服を来て尚スマートなその様子と三つ編みに結んで横に流した新鮮な姿。
一瞬、それを見て理解できず、慈英は眼を剥く。
「…!?え、あれ!?だって…!」
「ふふん、色々出来るようになったって言ったでしょ?だから今日はちょっと増えてみました。凄いでしょ。
…まさかまさか、自分にお邪魔されるとは思わなかったけど。ちぇっ」
「そういう事やるなら私も混ぜてよ!
片方だけで独り占めしようなんてズルだよズル!
ずるすぎて本当に同じ私なのか呆れるくらい!」
「はぁー…うるさい。本当に同じ私なのかなぁ。
もっと普段の私って落ち着いてるよね?」
いいや、もっともっと、いえとさんは元気で跳ね回ってるよ。と、言うにはどうにも申し訳なくて、慈英はそのまま困ったように笑って誤魔化してしまった。そこもまた大好きであるのだと勇気がなくて言えずに。
「まあいいか。
そっちの私が来たってことは準備が終わったんだね。ジエーくん、いいことは後にしてご飯たべよっか」
「うん。冷めない内に食べよ?」
二方向から聞こえる、可憐な声。
それに何やら狼狽しかけながらも、少年はこくりと頷く。どちらもが偽物でなく、どちらもが同じ美貌を持ち同じ声で囁く。そんな、至る所から甘い匂いのする空間に、鼓動が早鐘を打っていた。
…
……
「……不思議だな。
おれ、もっと食欲なかったはずなんだ。
少なくともいえとさんに会う前はもっと」
「なのに、けっこう食べれるんだ。
なんでかな。いえとさんに会った時から、そうなんだ」
「んー、私の料理が上手になったからかな?最初の日のリベンジに燃えて、待ってる時に頑張って勉強してたんだー。
どう、美味しかった?でしょ?」
「うん。すっごくおいしかった。
今まで食べたなによりも、おいしかった」
割烹着の方のイエトが胸を張って語ったその内容に、少年はああ、と心の中が暖かくなる。自分の為に何かをしてくれて、それに喜べば、自分よりも喜んでくれる。そんな光景の、どれだけ嬉しいことか。涙が出そうなほどに、心がぽうと照らされる。
「……ただね。ジエーくんが少し回復してるのは、それ以外の理由。私のせいでもあるんだ」
シャツ姿のイエトが、しかしそれとは相反する様子でぽつりと語る。『おかげ』ではなく、『せい』と言った。そうした事から、慈英は自然と姿勢を正していた。
「初めて会った時から…きみは、とても色んなものに狙われてた。『そういう』奴に気に入られやすい体質なんだろうね」
そうして、机の前から立ち上がり、そっと少年の首筋に口をつける。動かないで、と耳元で囁かれて力が抜けてしまうが、慈英はもとよりうごいてイエトに迷惑をかけるつもりはなかった。
ぞぶ、り。
肉が、えぐれる音が身体の内側から聞こえた。痛みはない。むしろそれよりも、少年は身体の調子が良くなったように感じた。少しでも啜ったり、息を深く吸い込めば出ていた咳が遠ざかっていった。
「…ぷはぁ。ふふっ、ごちそうさま。
それのせいもあってかな。
君は何もしないでいたら、あの日に死んでた。
だから、私は君にまじないをかけたんだ。
私以外にあげないための、おまじない」
うなじに感じる、何かの感触。感覚、痒み。それらの正体がわかった。それはむしろ、おれを守り、病を遠ざけていたのだと。
だが慈英にはその説明なぞ、重要でなく。一つ聞いたことで、思考が止まっていた。ただ、一つだけが不安で仕方がなかった。
「いえとさんが…おれに付き合ってくれてるのは…
そんな、おれの体質の、それだけのせい?」
『そういうもの』に好かれやすい体質。それを聞いて、慈英はぎゅっと胸を締め付けられるような不安に襲われていた。
最初こそ、きっと自分を利用する為だけだった。だけれど、今一緒にいてくれるのは、そうではないと思いたかった。
イエトは、それを聞いて虚を突かれて。そうしてから、二人のイエトともが顔を見合わせて、にっこりと悪戯に笑った。
両方が、それぞれの横に行ってから少年のすぐ近くに座る。頭巾を取った三つ編みのイエトが彼の身体を少し浮かして、膝の上に乗せる。眼鏡をつけたイエトが、その膝に座った少年をぎゅうと抱きしめる。
前と、後ろ。
別方向から同時に押しつけられる、全く同じ体温。
全く同じ、柔らかさ。その感触に強く息を吸う。
顔に火が灯ったように、熱い。
「「それは違うよ。
私は、ジエーくんと一緒にいたい」」
「最初こそそうだったかもしれない」
「でも今、私は本当に君が好き」
「ずっと横にいたいのも嘘じゃない」
「信じられないならそれでいいよ」
「でもね、それでも一つだけ」
「大好きって言葉は嘘じゃないの」
「「不安にさせて、ごめんね?」」
一言、ひとこと。染みつけるように浸すように交互に前後から。言葉と愛の水槽に溺殺するように、絶え間なく、ずっと。それでいて流れるように囁いて。そうして不安などなにも感じられなくなるように。
「そ、そ、それなら、さ!」
そこで、少年が自分を見つけ立て直したのは、奇跡と言ってもいいかもしれない。むしろそこで、ふにゃふにゃと動けなくなっていた方が彼らには幸せだったのかもしれないが。
「…まだ、今日の紐はきれてないけど。
でも、前借りして、先におねがいしていいかな。
なにもしてないのに、頼むなんてわるいけど…」
「うん、いいよ」
「なんでも言ってみて」
耳まで赤くなった顔をふるふると振るってから、息を深く吸って。
そうして確かな意思を込めて、言う。
「おれを、あの古屋につれていって。
たぶん、おれ一人じゃきっと、もう難しいんだ」
瞬間に、空気が冷え込む。
嬉しそうに、願いを聞こうとしていた彼女たちの表情が消えた。
「…だめ」
「そう、だめだよ」
「きみが紐を切った道具はどうなった?
あれを見てたらわかるはずだよ。それを切った人そのものも、影響を受けないはずがない。そんなこと、わかることでしょ」
「私が最初におまじないをしたのも、きみをそれに耐えれるようにする為だった。だけど、もう」
「だから、だめ。今日は来なくて…」
「いえとさん」
ぎゅっと、両の手でそれぞれの手を握った。
両の眼光は、二人のイエトをじっと見据えていて。
そしてその目には、何一つ迷いはなかった。
「おねがい」
「………」
「はぁ、ずるいよね。これじゃあ断れるわけない」
「…そうだね。私が断れるわけが、ない」
すう、と一人の状態に戻っていく。
服装は先までの二人のそれではない。
いつか見た、白色のワンピース姿だった。
決心したように、そっと手を取る。
取られた手を、慈英が強く握りしめた。
「さあ、行こうか。
お姉さんが連れていってあげる」
「うん」
…少年は、願いを言った。
否定をされても、それを叶えるべく。
…
……
「お、お、おろしてぇ…!」
「あはは、大丈夫、大丈夫。誰も見てない。
それに見られてても、見せつけてやろうよ」
そんな、決心した顔をしていたのも束の間。
おろおろと周りに視線を散らしながら、じたばたと暴れることも出来ないでいる慈英少年。
彼は、まるで赤子のようにイエトに抱っこをされて、そのまま運ばれてしまっていた。
「い、いやだよ!はずかしいし…かっこわるいよ。おれだって、いえとさんと同じくらい、かっこよくなりたいのに…」
「ジエーくんはそのままでいいの。
二つの意味でね!」
これでも、説得をした方なのだ。
こうなる前には、更に何人にも増えてまるで神輿でも担ぐかのようにして運ぼうとまでしていたのだから。
イエトの手には錆まみれの鉈。元々に使われていた、草木を切るのにすら使えないような、使い所の無いもの。
もう何も無くなってきている、蔵の道具。
紐を切るための道具だった。
「さあ着いたよ。足元に気をつけて、転ばないでね。くじいたらお姉さんに言ってね」
「あ、あかんぼ扱いはやめてよ!
おれだって、ちょっとはくやしいんだから!」
「あはは、ごめんごめん。意地悪しすぎちゃった」
「…もう…」
そうして話している間に、山の奥の古小屋に辿り着く。イエトは少年の手に、鉈をそっと握らせた。そう掴んで、少し俯く。
細い。軽い。軽すぎる。
まだ元気はあるようだが、空元気かもしくは無理をしているだけ。慈英の身体はもう、『おまじない』があれど限界に近い。
それでも、鉈を手に古屋の扉を開けた。
結ばれているイエトは悲しそうに彼を見つめる。
当然だ。彼女たちは同一の存在なのだから。
「……やあ。こっちの私が、また会えるとはね」
「うん。いつだってくるよ。全部きるまで。
お姉さんを自由にするためなら」
がつ、ぶつ。
相変わらず簡単に、紐は取れた。
腐った小枝を折るよりももっと呆気なく。
鉈は瞬間に、取っ手までぐずぐずと腐り消えた。
そうして、慈英は膝から崩れ落ちる。
「慈英くん!」
「げほっ、かっ…!
…だいじょうぶ、だいじょうぶ。
ちょっと力が抜けちゃっただけなんだ。ほんとだ」
「そっか。
…やっぱり、君はそのままでいいよ」
「え?」
「かっこよくなんてならなくていい。
君はそのままで十分かっこいい」
「…そっか…うれしいなあ…」
心から喜んで笑う。
その口の端には、拭っても取れない量の黒い血。
イエトはそれを見て、ぐっと唇を噛んだ。
その、少年の決心を見て、言った。
言わなければならないと、思った。
「最後の日に…会えてよかったよ。
ジエーくん」
「……さいご?」
「慈英くん。
君はもう、ここには来ないで」
「君はもうここに来ちゃいけない。
来て、ここで切断をしてはいけない。
だからもう、ここには近づかないこと」
「な…まって、まって!
おれはまだやれる!やれる、から!
だから、そんなことを言わないで…
おれを、みすてないで…!」
「…ごめんね」
ざりざり、と砂嵐が通るように。
風景そのものが歪んだ。
そうしてから慈英少年の見る光景は、見慣れた光景になる。自らの家。さっきまで、愛する者が居てくれたはずの我が家。
そこにはもう自分以外はいない。
その部屋が、何よりも残酷で冷たく見えた。
…
……
イエトはきっと、分かっていた。
それでも少年が、来てしまうことを。
それでも自らを救おうとすることを。
イエトはただ一つ。
縛られたままの自らを妬んだ。
それでも行かんと思わせてしまう、自らを。
…
……
残る紐は、あと一本。
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