五つ目の紐: さわる
「ぜっ、ぜっ…」
激しい息切れと共に、曇った山中を歩く少年の姿。
陽が雲に遮られようと、気温は高い。
首元と額に当てた保冷ベルトはとうに溶けて久しかった。手には庭仕事用の、小さな身には余る鋏がある。地面に引き摺り傷を付けながら、がりがりと必死に歩いていく。止まることを求めないように、むしろ止まれば死んでしまうかのように。
道々の横で、座り込みへたり込んで休みながら。
それでも古い古い木屋に辿り着く。
扉を開けた途端に、彼をぎょろりと見つめる視線。
一対の、真っ黒の瞳。暗闇の中より、更に暗い。
「お、いらっしゃーい、ジエーくん!
今日は少し遅かったね!」
「ぜっ、はっ…
うん、ごめ…げほっ!はぁ…」
「……っと。少し休んでいく?」
「ううん。はやく、はやく紐をきるんだ。
すこしでも、はやく」
そうして少年は、ぐっと息を吸って止めて、鋏を上に構えた。もっと小さい得物で良いと分かった上でそれを選んだのは、上背が必要だった為。まだ小さな彼では届かない高い所のものを切り千切る為だった。そうして、イエトの首を括る紐を断ち切る。相変わらずに脆い。否、触っただけで崩れるようで、更にやわい。
これで残りは胴体に巻き付く、ふたつの紐だけとなる。しかしいつものように微笑んだりはしゃぐ事なく、もう一人のイエトは静かに自分の身体を見つめていた。繋がれたままの、自らを。
「首かー。苦しかった気がするし、無くなるとやっぱり開放感が違うな。だけどそれを切るためにそのおっきな鋏もってくるの大変だったんじゃない?」
「えへへ、いいんだ。
おれよりいえとさんのほうがずっと大事だ」
「私は。君が無理したら悲しいよ」
いつもよりも小さな声で呟いたイエト。
少年には発言は聞こえていなかったようだ。
否。声の、小ささのせいではない。
それは外から聞こえてくる大きな音。
どざあと音を立てる、狐狸の嫁入りの音。
いつの間にやら、降っていたのだろうか。少なくとも二人は、互いの存在以外へ気を向けていなかった。
「うわあ、すごい雨だ!……ふうん。これは天気雨だけど、その後も雨雲が来て一日ずっと降りそうだな。ジエーくん!今日のおねだりは室内の方がいいかも…」
どちゃ、り。
濡れた土になにかが落ちる音。
振り向いた先では慈英が。
気を失って横倒しに倒れていた。
「………少年?」
…
……
「ん…ん、う…」
「あ。よかった、やっと目が覚めたみたい」
咄嗟に立ちあがろうとして、そのまま目眩と共に倒れる慈英。その頭をすこし強い力で押さえてから、撫でつける。もう片方の腕には湯気の立つ木の器を持っていた。
「凄い熱だね。
今日というより…川遊びの時からかな。
だめだよ、きみぃ。無茶しちゃったら」
「ごめん、なさい」
「うん。素直でよろしい!
少しでも食欲はある?これ、良ければ飲んで」
素直に答えた、というよりは生返事であった。高熱とイエトの姿に見惚れてぽう、と浮かれていた。卵酒の入る器を半ば無意識に取り、啜る。その熱さに上の空からようやく正気づいた。
イエトは、いつものように服装を変えている。
今に着ている服は所謂、ナース服だった。
その視線に気付いて、彼女は嬉しそうに笑った。
「ふふ、ジエーくんはこういうの好き?
それとも、ちょっと和風な方がいいかな」
「どっちでもいい」
「む、つれないなあ」
もぞりと寝返りを打って顔を逸らして言う慈英。
心外な気がして、そっと顔を覗く。
「だって、どっちでもいえとさんはきれいだもん」
ほんとうに、心の底からそう思った感情の顔。
照れ臭くて、直視できなくて、顔を逸らして。
でも彼女に覗き込まれて、嬉しいような縮こまるような。それでいて、初めて会った時とは違う、恥に誤魔化せない、確かな恋慕。
ざああ、と、雨としとねの沈黙。
二人は何も言わずに向かい合って見つめ合った。
…少年は、願いを言わなかった。
それでも二人の間で心は通じて。
願いが、履行されようとする。
さあ『いいこと』をしよう、と。
「あっ…ふふ。ジエーくんみたいなクールな子でも…やっぱり、興味深々なんだね」
「…いえとさんは、そんなおれを軽蔑する?」
弱々しく病魔に侵された力で乳房に触れる少年。そうしながら、不安そうに彼は呟く。うぶで不安で、怯えた姿。
「おれは、おれは…
いつも、みんなをがっかりさせる。
いつもみんなに失望されるんだ。
おまえなんていらないって、そうやって」
それ以上の言葉を、紐で封をするように。
彼の口に口を合わせた。
手を恋人のように握りあって、それぞれの指が交合するように一本ずつ絡める。それに比例でもするように、複雑に、強く舌が絡みあう。唾液の水滴音と、苦しい呼吸の音だけがその場を占めた。
「ぷはっ!はっ、はぁっ…」
「ふっ、ふ…
ごめん、苦しかったかな?
ふふふ。失望なんて、しない。むしろ私はね、そういう人がだいだい、大好きだよ」
「愚かしくて、かしこぶってもほんとは自分に正直で、死ぬかもしれないと思っててもそういう危機管理より欲望に忠実で。どれだけ生を諦めてもそれでも、何かを愛さなくてはいられない。何かを貪らずにはいられない。そんな人が、かわいくってかわいくって、だーいすき」
そんな何気のない発言に怒るようにぎこちなく唇を奪って。そうしてから褥の上に押して倒すまで。じっとりと、八重歯を見せる、優しいような、醜いような。そんな笑みのままで、イエトは眺めていた。
「…ううん、違うな。
『そういう人』が好き、じゃない。
私は、きみを」
「そんな慈英くんが、だぁいすきだよ」
するりと、黒いボロ切れに消えていく彼女の白服。
塵となり宙に消えた衣服の下の、鞘絹のように真白で、触ればほどけそうな美しい柔肌だけが、少年の視線と脳髄を支配した。
横になって、全てを受け入れる姿勢を取って。
律動と共に、暗闇が嘲る。そんな刹那が訪れる。
そのままであれば、間違いなくそうなる刹那。
その、直前の瞬間、だった。
「けほっ、えほっ」
小さい咳。ただ、それだけだった。
びたびた、と。
イエトの顔と裸体が、そんな控えめな咳と思えない量の吐血に染まった。黒さが前面に出た、赤黒い血だった。
少年は、さあ、と青ざめて口を抑える。
頭を抑えて、はっ、はっと過呼吸気味に息をする。
そうして、昂っていた全てが消えて、涙を流す。
少なくとも、慈英は血に狼狽したり、それを説明したりすることはしなかった。それはつまり彼にはその吐血は異常ではないということ。もしくはいつか、来るものだとわかっていたということだ。
「…あ、ああ…
ごめんなさい、ごめんなさい!
おれは、おれは…!」
「おれなんかで!
いえとさんをよごしてしまった…!」
それは血で、彼女を汚した事だろうか。
押し倒し、穢そうとした事だろうか。
もしくはイエトという存在を、自らの存在で濁らせてしまった事か。
どれでも、ないのかもしれない。
そんな言語化はまだ出来ない、ただの子どもだ。
だから、ただ、泣いてしまう。
何もできずに、縋り泣きつづける。
「………
……大丈夫だよ」
「ずっと、側にいる。私は、君の側にいるから」
啜り泣く音と豪雨の音が耳を叩く。
曇天の、時間感覚が無くなる陽の明るさの中で。日が暮れるまで、錯乱する少年の手を握って、背中をとん、とんと叩き続けていた。
窓をしとどに打つ水滴を眺める。
たぱたぱと、不安になるような音。
雨が酷暑を逃していく。
地に染みた熱を消していく。
溶けるような日差しを、雲が包む。
夏の終わりの、足音がする。
…
……
残る紐は、あと二本。
たった二日の、長さ。
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