四つ目の紐: おこる





錆びた手鎌を、刃に新聞紙を巻いてからランドセルに入れる。家の倉庫にあった、紐を切る為の道具もどんどんと少なくなってきている。一度、切断に用いた道具は翌日には、縄に触れた部分が全て黒く腐ったように欠けて散っていってしまう為だ。


だけれど少年は、きっとこの粗末な鎌でも今日は大丈夫だろうと思った。日毎に、切る手間が少なくなっているからだ。

日毎に内側から何かに侵されて腐っているように、木のうろのように、すかすかと腐食されているように。だからきっと、今日はこれでも大丈夫だろうと。


そうして、山の中に入りそのまま足を止めずに緑の中を進む。道のりはまだ慣れてはいない。なのに脚だけがまるで別の生き物のように身体をあの古屋に導いていく。

距離感覚が特別良い訳でもない。土地勘がそうあるわけでもない。であるのに、もうすぐに着く、と感覚でわかるほどに。


がし、と。

その古屋が、見えた瞬間のことだ。

少年は後ろから羽交締めにされ、口を塞がれた。


「しーっ」


ただその声と、幾度も抱き止められて覚えがある感覚のお陰で少年はもがかなかった。彼女の腕の中は、ぬるい湯の中のように心をほぐしていく。


「ごめんごめん、ちょっと乱暴だったね。

でもこのままで…そうだな、あと三分待って」


「わかっ…けほっ、えほっ!」


「あら、風邪気味?」


「…ごめん、だいじょうぶ」


小声で話しかけるイエトから、静かにせねばならないと分かっていた。その上で咳き込んでしまったことに罪悪感を覚えながら、そっと姿勢を変える慈英。後ろから抱きかかえられる状態から、向かい合うよう変えてそっとイエトの顔を見る。


彼女は、ぎちりと歯を食い縛っていた。

そしてそれは苦しみや怒りなどでは、なく。

必死に笑みを堪えている故のぎちりという音。

その表情に、ぎゅっと少年はイエトの服と手を掴む。ただ、不安になった。それは不穏と邪を表す笑みそのものに対してのものではなく。その笑顔をそのままさせておけば、そのまま彼の手の届かない所に行ってしまいそうな気がして。

ただただ、消えてしまわないように願った。


はっ、とそれに気づいたのか。

ぐっと目を瞑り、強く手を握る慈英にイエトは向き直りそっと笑い直す。その笑みは、いつもの優しい微笑みだった。


「ごめんね、大丈夫。

お姉さんはここにいるから」


そうしている内に、三分が経つ。

先までイエトが睨み、笑みを耐えていたその辺りといつもの古屋の中からは何かを調査しにきたような姿の男たちが出て行っていた。

それら全てが山から降りて、人の気配が少年以外全て消えてからようやく二人は抱擁の状態から離れた。


「いまのひとたちって」


「うん。私の様子を見にきたみたいだね」


「!じゃあ、このままじゃ…

あの紐、またむすび直されちゃうの?」


「ふふふ、ジエーくんは心配症だね。大丈夫。あいつらには『それ』は見えないようになってたから。今の人たちには、ちゃんと結ばれたままの私だけが見えていた」


「……」


「あは、ぽかんとしたような顔!

どう?お姉さんの凄さを改めて実感したかね君!」


「うん、うん!いえとさん、すごい!」


「あっはっは!そうでしょそうでしょ!」


お姉さんが、とてもすごいこと。誇らしげに自分に成果を話すこと。そしてその自分に対してえへんと誇る様子が、嘲笑の歯軋りの不穏を消し、今まで会って来た能天気で明るいイエトそのままであったこと。それら全てに少年は心の底から喜んだ。



さて、と。

閑話を休題し、二人はそっと古屋に赴く。中には相変わらず紐に繋がれた、呪詛の刻まれたイエトの姿。そういえば、今日は紐を切断する前からイエトは二人に増えている。半数ほどが無くなったことで、その不思議な力を抑える効力も薄くなっているのだろうか、と慈英は思った。

そして。

それならもう、自分は必要ないのではないかとも。


「ねえ、いえとさん」


「うん?なあに?」


「…ううん、なんでもない。

今、きるね。ちょっと待ってて…!」


『おれはもう、いらない?』

という質問を、しようとしてやめた。

もしそれでそうだと言われてしまったら、また自分は誰にも必要のない存在に戻ってしまうのだから。

きっと、この猜疑と恐怖は既に彼女には分かられている。でなければ、あのような意地の悪い笑みを浮かべてはいるものか。だけどイエトはそれらの質問をせず、鎌を取り出した少年に別の質疑を与えた。


「きみはさ。躊躇したり、しないの?」


「なにに?」


「ジエーくんは頭がいい。さっきの人たちを見て、私が怪しいだけじゃなく、君をだけ殺そうとしてたわけでもなくて。もっともっと危ないものなんだなってわかったはず。色んなものを壊すような、そういうのだって。怖くなって、やめたりしない?」


「……」



ぶつり。

果たして慈英少年の思い通りに、錆びた手鎌の一振りただそれだけで、イエトの左足首に付いていた縄はあっけなく千切れた。

質問に答えないまま紐を切断した少年に、しゃがんで視線を合わせる、縛られていないもう一人の方のイエト。

その笑みは先の男たちを見ていた、邪か。

彼に向けていた、優しい微笑みなのか。

暗闇の中故に、区別はつかなかった。


「ふふふ。やっぱり、わかっているよね。

それでも、紐は切ってくれるんだね」


「……どうでもいいよ、そんなこと。

いつだって、おれのことなんて誰も心配してくれなかった。おれに、風邪ぎみかなんて聞いてくれたの、いえとさんが初めてだった」


「だから、おれはそんなことどうでもいい。

いえとさんが喜ぶなら、そんなこと知らない…!」


ぐっと、動悸を抑えるように胸を握る慈英。一度たがが外れ、そのまま、だんだんと心の中で増幅する仄暗い感情を見て、ああ、先までの笑顔のままでイエトは語りかける。


「ふふっ。

ジエーくんが怒るとこ初めて見たなあ」


「…ねえ、いえとさんッ!」


「おれと、一緒にここから出て行こう。

おれはこんなとこ、いやだ…!」


『ここ』とは、この暗い古屋ではない。

この周囲を表していて、それだけで十分でない。

強い意志であって、目的地は曖昧なまま。

そういう頼みだった。

それを聞いてただイエトは一言、言った。



「……それが」


「今日のお願いかな?」



「……ッ!」



顔を上げて、首を横に振って。

それでも何かを言おうとして口を歪めてから。

慈英はただ、首を縦に振った。

力なく、こくりと頷くだけだった。



「……う、ん。それで、いい」


「うん、わかった!

でも、ごめんね。日暮にはまたここに戻らないといけないから…どうしても日帰りになっちゃうね。それでもいいかな?」


「…うん。…うん」



…少年は願いを、言った。

すれ違ったままに、頷いて。






……




「…うひゃあ、三時間待ち!?

冗談じゃないよ、そんな待ってたら日が暮れちゃう!」


「…」


髪を後ろに一どころに纏めて、動きやすそうなタンクトップの姿の状態でイエトは少年と手を繋いで歩いていた。アスファルトの照り返しが激しい道路を歩き続けて、そこでようやく見つけたバス停には、ついさっき通り過ぎてしまったバスと、次を知らせる運行情報が書いてあった。


「このまま歩いても途中になっちゃうしなあ…

どうする?ジエーくん」


「…それでも、できるところまで歩いてきたい。

いえとさんと一緒に、すこしでも」


「そっか。りょうかい」


そっと、手を繋ぐ。

相変わらずイエトの身体には全く汗が無い。さらさらとした手の感触と氷のような冷たさを、下を向いてずっと感じていた。消沈した慈英の様子を、そうして眺める彼女にも気づかずに。


そのまま無言に暫く歩き続ける。

だんだんと、日が陰り始めた頃だろうか。


イエトは突如、地面に膝をついて。

顔と顔の位置を合わせた状態で、少年に抱きついた。汗まみれになっていた慈英は、イエトが汚れてしまうことを恐れ咄嗟に離れようとしたが、それすら離さないほどに強く。

そうして首元から、がり、と。

何かが削れる音がした。それでも痛みはなかった。


また、別の無言がある。

野暮な蛙の鳴き声と遠くに反響する蝉時雨が沈黙を劈いて、とくんとくんと、早鐘を打つ慈英の鼓動の音を薄めていた。



「…意地悪してごめん、ジエーくん。

ほんとはね。わたしも君と一緒にここを出たいんだ。今日のお願いのつもりじゃなくって、もっともっとずっと一緒にいたいってことを言ってくれたのもわかってた。それに、凄く嬉しかったよ」


「…!いえと、さ…」


「でもね。まだ行けないんだ。

それは、今ここにいる私が…」


「…ほんものじゃ、なくて。

ほんとうのいえとさんはまだ、縛られてるから?」


「うん。やっぱりきみは、かしこいなぁ」


狂おしく、泣きそうな顔の少年の鼻をくいと摘む。

そうして、鼻に抜けない変な声になった慈英を彼女は楽しそうに眺めて、鈴の転がるような高い音で笑った。



「ねえ。ゆびきり、しよっか」


「ゆびきり?」


「うん。

昨日、ジエーくんが言ったこと、考えたんだ。

紐が全部無くなったら、私はきみにあわないのか」


「私ね。それはとーっても嫌だと思ったの。

だからさ、一緒に約束しない?」


そうして小指を差し出して、潤んだ眼を向ける。真っ黒な瞳は、その真意を秘匿するように涙水の下から慈英を見つめていた。



「もし、私が自由になったら。

その時は、慈英くんとずっと一緒にいさせて。

だから慈英くんも、私とずっと一緒にいてよ」



慈英は自分の臆病な性格を、この時にこれ以上なく恨んだ。もっともっと嬉しそうに、笑顔で快諾をして。喜んでゆびきりをすればよかったのに。

なのに少年は、そうしたい心の中とは裏腹に、顔を真っ赤に縮み上がって、ごにょごにょと小指を差し出すことしかできなかった。

引っ込める直前のようなその小指を、捕食でもするようにイエトの指がとらえた。絡めるように、上下に振って。


ゆーびきーりげんまん。

嘘ついたら、針せんぼん、のーます。


そう言った。




「っと…いろいろしてる間に日が暮れちゃったね!ごめんね。またジエーくんの願い、中途半端にしか叶えられなかった」


「…ううん、ううん。

確かに、さっきのねがいはだめだったけど。

…もっともっと、しあわせだからいい」


「そっか。それはよかった。

それじゃあ、またね。また明日…」


「…あ!ちょっと待って!いえとさん!」



そう、円満に別れようとした時、ふと慈英は思い出して呼び止める。びっくりしたように、イエトもおっとと転ぶそぶりを見せた。


「その、あした。

おれ、いつもみたいにあの古屋に行って大丈夫?

さっきの、おとこの人たちがさ…!」


「ああ!さすがめざといね君は。

でも、大丈夫!いつも通りに来ていいよ。

あの人たちは二度と来ないから」


「にどと?」


「うん。もう二度と来ない」


ゆらり、と身体がまた揺らいでいくイエト。今度こそそれに慌てて、身だしなみを整えてからまた少年の顔の位置に、顔を合わせた。



「おっとと、今度こそ時間だ!

今度こそそれじゃあね、ジエーくん!」



「……また明日!待ってるからね。来てね?」


「!うん、うん!」



最後に、抱きかかろうとした瞬間。

イエトの姿はもう消えていた。そしてまた、周りのバス停の光景も、もう何もない自分の家に様変わりしていた。

嗅ぎ慣れた自宅の香りに落胆して、俯く。


残るのは、記憶と小指の温もりだけ。

そしてまた、同じようなうなじの痛み。



「……けほっ、え゛ほっ!げほっ、けほっ…!」


少年はその痛みに神経を払おうとしてから、激しく咳き込んだ。







……




古屋の中。

両腕と両足をぐい、ぐいと動かして暗闇で女性が嗤う。


「随分、汚しちゃったなあ…明日また、ジエーくんが来るまでにちゃんと掃除しなくちゃ。気にしない、なんて言ってくれてたけど、それでもあの子にはこんな姿、見せたくないもん」


男たちが新たに用意していた純白の札が、まずは血で赤く染まり、そうしてからぐずぐずと黒く腐り果てていく。

それを無感情に、家戸は眺めていた。

次第に目を閉じて、そっと頬を赤らめて、呟く。



「はーあ。早く明日にならないかなー」


上機嫌に、身体を揺らしてそう一人ごちる。

ぎい、ぎい、と。

首を縛る紐が身体の揺れに悲鳴を上げた。






……




残る紐は、あと三本。


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