三つ目の紐: ほしがる



じーわ、じわじわじわ。

蝉の声でありながら、まるでその不快な暑さに身を削られていく体力をそのまま擬音にしたかのように感じる。木陰が少しましにしてくれても、それでも生き物には堪えるようだった。


そこをゆっくり歩いていく少年。

手には小ぶりな斧を持っている。あどけない手から汗がそのまま持ち手に伝って、ぽたりと雑草を濡らした。草臥れながらも歩を進めて、扉の中で暗闇を享受した。蒸し暑い古屋の中でも、ただ日差しが遮られているだけで多少は暑さを凌ぐことができた。


暗がりの中いつもの通りに、一人暗闇の中で紐に繋がれていた。ただ不思議と、目の前には湯気が立つ容器があり。


「こんにちは。そろそろ来る頃かなーって思ってたよ。どう、お茶でも飲む?」


そう言って、妙に濃い色の茶を差し出した。少年は先程水筒で潤し、喉は渇いていなかったので、その申し出を断る。そしてさっそく、斧を振りかぶり紐を切る準備。今日は、右足首を縊る紐を切ろうとする。


「来て早々で大丈夫?無理はしないでね」


「大丈夫。おれ、ちゃんとやるよ」


気合いのはいった、えいやという掛け声と共に振り下ろされる斧。一発で半ばまで千切れ、そこからは引っ張られる縄自身の張引力に勝手に千切れてしまう。二発目を振りかぶっていた慈英は空ぶって、体勢を崩し転んでしまった。


ただ、木目に顔をぶつける硬さと痛みは襲って来ず、代わりに少年が感じたのは女人の身体のやわさ。そっと抱き抑えるイエトが、満足そうに腹部にうずまる慈英の頭部のつむじを眺めていた。



「ふふ、今日もお疲れ様ジエーくん。

でも繰り返すようだけど無理はしないでね、君が転んでうっかり持ってた物が刺さって…なんてなっちゃったら、お姉さん悲しいもん」


気づけば、先まで手に握っていた小斧はイエトの手に握られている。いつの間に取り上げたのかわからないが、その、確かに身を案じてくれているであろう行動に少年は胸が温かくなった。それが利用の為であったとしても、確かに。


さて、このような暗い場所だと風情がないからと、小屋の外に出てから再び女性は口を開く。屈んで姿勢を低くし、少年の目に、引き摺り込まれるような漆黒の瞳を合わせて。


「立てる?…うん、よかった。

それじゃあ、今日のきみの願いは何かな?」


「う、うん…えっと…」


暫くの沈黙。よほど、言いにくい願いだろうか。と、思った瞬間に、慈英は非常に言いにくさそうにごにょごにょと呟いた。



「…おもい、つかない」


「ありゃ。何かやってほしい事があったんじゃないの?じゃあ何のために、汗水垂らしてまでこの紐を切ってくれてるの、きみ」


「いえとさんが喜んでくれるから」


「……もう!本当に可愛い事を言うなあ。でもそれじゃあ、ほんとにお願いごとはないの?」


そう聞かれて、申し訳なさそうに頷く少年。

それを見てからイエトはううんと悩ましげに口を尖らせた。繋がれたままの方の乾いたものとは異なり、いつものこの、新しく現れるイエトの唇は目を惹かれるような桃色をしている。


「まったく、欲がないなあジエーくんは!

人間もっと強欲なくらいが楽しいのに!」


「ご…ごめん」


「うーん…

あ、そうだ君くらいの歳ならさ。

欲しいものだってたくさんあるでしょ?」


「もの?」


「うん。カブトムシとかクワガタとか、レアなカードとかテレビゲームとか…今の子だとかきん?とかしたりするのかな。お姉さんが欲しいものなんでも出してあげる。まあ、本物じゃないから、今日一日で消えちゃうけど…」


「なんでも?」


「うん!なんでも。

ふふ、いいね。目が輝いてきたよ?」


なんでも、と言った途端に嬉しそうに口角を上げる慈英。それを見て、女性もまた笑顔になる。それまでの微笑みとはまた異なる、底意地の悪そうな笑み。だがそれは、直後の少年の言葉にまたきょとんと無くなってしまう。



「じゃあ、じゃあさ!

おれ、おねえさんと一緒に外で遊びたい!虫取りしようよ!そうだ、川遊びしよう!おれ、いいとこ知ってるんだ! …あ」


「……」


「……ごめん、なさい。いえとさん。

急にその、大声出しちゃって」


「ん?

それは別にいいけど…本当にそんなのでいいの?」


「…!うん、おれ、物はいい!

だから、その…お姉さんの時間が、ほしい。

…めいわくだったかな…」



尻すぼみに、元気が無くなり、恥ずかしそうにいつもの引っ込み思案な様子に戻っていく少年をイエトは暫くじっと見て。そうしてから、またゆっくり微笑みそれから少年の瞼を二本の指でそっと抑えた。


一瞬の間だったけれど、次に少年が目を開けた時には、彼女の格好は様変わりして、さらりと白いワンピースを着て、麦わら帽子をかぶっていた。爽やかなそれらに比例するような胸にまでかかる濡烏の黒髪が夏風にたなびき、コントラストの元に危うい清楚さを醸していた。



「迷惑かって?そんなわけないよ!

さあ行こうよ、わんぱく坊主。

今日は私と一緒に、探検しよっか」


「今日一日中。

暗くなるまでずっと横にいてあげる」


「!…うん!」



少年は、願いを言った。






……



「来てきて、いえとさん!」


「ん?なに…きゃあっ!」


大きな蝉を、眼前に差し出されて思わず驚くイエトを見て、年相応の子供らしく笑う慈英。イタズラが成功し、笑う少年に向けてぷくと頬を膨らましてから、今差し出された蝉を掴み奪った。


「このイタズラ小僧〜〜…仕返しだ!」


「うわ、うわわわ!」


緩くなったTシャツから蝉をぐいと入れられ、素肌の布の間で暴れ回る蝉の感触にあわてふためきながら、それでも嬉しそうに笑う慈英。滑稽になるほど、虫籠の中には蝉の抜け殻を入れていた。

甲虫や鍬形虫はどうにも見つからなかったが、小さな蝗や蝉は、どこを見回してもいるくらいに、沢山いた。


「…あ、逃げられちゃった」


イエトは虫や蜥蜴を見つけはするものの、捕まえることは出来ず、肩をすくめていた。どうにも力の加減がわからないのだという。

コツを教えてあげると、手を重ねてから。

数秒後に、照れて少年が飛び退いてしまった。


「ぷは。…いえとさん、水、飲む?」


「ん?んー…貰おうかな。

せっかくだし、雰囲気も大事にしないと」


合間合間に水分補給をしてる時のこと。

ふと気付く。

イエトは全く汗をかいていない。

確かに慈英より落ち着き、走り回ってはいないものの、この殺人的な暑さで一滴もかかないことは、尋常なことではない。

そうしてじろじろと肢体を眺めていると。


「えっち」


「な、ちち、ちがうよ!おれは、その!」


「あはは、ジョーダン、ジョーダン!

でもそろそろ熱くなっちゃったね〜。

川遊びもしたいって言ってたよね。

そっちにそろそろ行かない?」


「…うん!人の来ない場所、しってるんだ」


「お、それは楽しみ!」


なぜ、人が来ない場所を選んだのか、どうしてそこにするのがいいと少年は思ったのか。そしてまた、なぜ人が来ない場所に詳しいのか。それぞれがそれぞれに、質問はできたがどちらもしなかった。






……



しばらく歩いた所に。浅瀬が広がり、しゃぱしゃぱと岩に当たり音を立てる小さな川があった。なるほどそこは太陽の光を反射して、きれい、としか形容のできない原風景だった。


「うわー、綺麗!

ジエーくんさっすが!いい場所を知ってるね!」


そう言うとイエトは、そのまま川中へとぱしゃぱしゃと走って行ってしまう。小屋の中の落ち着いた様子が嘘のように、はしゃぐ姿。慈英は、彼女のそんなお転婆なところが、一番見ていて好きだった。



「…あっ、いえとさん、気をつけて!そのあたり深いところがあるから、沈んじゃうかもしれない!」


「ん?」


そう、慌てて追いかける少年。まったくもって、イエトと同じ道路を辿って行こうとしたはずだった。

なのに。

ずる、と。

少年の足元には、深い深い溝が存在した。さっきまで、そのまま走り抜けられていた筈の場所に。


ああ、と死を覚悟する。それは水場に近い場に暮らす人間の、水に対する過大評価しすぎない恐怖であり、また現実的な評価。川や海の無慈悲さは、よくわかっている。



しかし、今日の一日で二回目の体験。

目を瞑り覚悟した苦痛は訪れることはなく。

代わりに若草の匂いと甘い香りが彼を包む。

イエトの服の中に、ふわりと包まれて支えられて。


彼女は少年が沈まんとした溝の真上の水面に。

粗末な黒いミュールで立っていた。


「ごめんごめん、心配させちゃったね。

奥に行きすぎちゃうと危ないみたいだし、もう少しあっちで遊ぼうか」


そのまま、そっと抱き抱えてから浅瀬にぱしゃりと脚をつける。水面に立っていた、不思議な感覚を反芻しているうちに、わっぷ、と。

慈英は顔に水をかけられた。


「ほらほら!ぼーっとしてちゃもったいないよ!」


「…えい!」


「うわっ…あはは!」


そうして、二人は暫く浅瀬で水を掛け合った。

とても単純で単調で、道具も何も無く、原始的ですぐに飽きてしまいそうなものだったけど、それをずっとやっていた。惰性や示し合わせたそれではなく、ただそうしていることが楽しかった。


そうして気付けば、太陽の光をぎらぎらと照らしていた日差しはすっかりとオレンジ色に染まって、すっかりとびしょ濡れになった服は肌寒さを伝えるようになった。

つん、とイエトが服を指先で突くと、その服はあっという間に若草の匂いのただそれのみになる。そうしてくれたおかげで、濡れて身体に張り付いたワンピース姿から必死に目を逸らしていた少年は、ようやく彼女に安心して目を向けれるようになった。


「けほっ、けほっ…

もう、おひさまが沈んじゃう」


「楽しい時間はあっという間だね、ジエーくん」


「…うん」


「寂しい?」


「うん」


「大丈夫だよ」


そっと、手を合わせる二人。

慈英が寂しさの声のままに、続けて呟く。


「さっき、今日、あげられるものは全部にせものって言ってた」


「そうだね」


「じゃあ、ここにいるいえとさんも、にせもの?」


「…ふふ、ジエーくんは賢いなあ」


「そんなことない。

お姉さんについて、わからないことだらけだ」


「じゃあ、勘がいい、のほうがいいかな?

でも安心していいよ。お姉さんはここにいる」


「今日はもう帰っちゃうけど。

まだずっと遊ぼうよ。

紐はまだ4本も残ってるから」



「それが、それがなくなったら…」


「いえとさんは。

おれに会わなくなっちゃうの…?」


「…〜〜〜っ…」


イエトはそれに金縛りにあったように暫く動かなくなって。少年を屈んで抱きしめて。首に、うなじに歯を当てた。ぴくり、と身体を強く震わせた動きに、はっと正気に戻りイエトは動きを止めた。


「…はあ、可愛いなあ、慈英くん。

あんまりいじらしいこと言わないでよ。

お姉さん、おかしくなっちゃうから」


ぞっとするような笑みを、浮かべていたのかもしれない。だがその顔は逆光が覆い隠して、見えず映さず、虹彩を欺いた。

あるいは、それでよかったのだろう。


「でもごめんね。今日は解散!

それじゃあ、またね!少年」


「…う、ん。またあした。

…あえるんだよね、いえとさん!」


「うん。またあした」


彼女はまた、陽炎の揺らぎのように消える。夕暮れが落ち、日暮れを迎えた紫色の空は、すぐに星を映す空になる。

誰もいなくなった河原。

少年は、静かに咳払いをした。


「…げほっ」






……




残る紐は、あと四本。

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