二つ目の紐: ねむる


はっ、はっ。

雑草の群れを掻き分けて走る。

あの小屋の場所は、あてどもなく歩き回りついただけの、思い出せない所であったはずなのに、少年には不思議と場所はわかった。首の後ろの疼きが彼を、一直線に小屋に誘っていた。

虫除けのスプレーは汗で流れてしまって久しい。

だけれど、不思議と少年はもう蚊に刺されない。


小屋は、相変わらず辺鄙でぼろぼろだ。

そして変わらず、縄に巻かれている。

ただ周りの札が無くなっていた。少年はしかし、扉が開けやすくなったくらいの認識しか無かったが。


ぎい、と扉を開ける。

相変わらず中には幾本の紐と、人影しかなかった。



「やっほ。こんにちは、少年。

またきてくれて嬉しいよ」


病的なまでに白い肌と、真黒な髪と髪。引き摺り込まれるような大きな瞳で、どこまでも無害そのものの笑顔を向けて笑う。

慈英はそれに、ぱあと笑顔を返す。


「うん。だって約束だから」


「そうだね。でも約束を破る人って多いんだあ。

わたしも何回騙されたかな」


「いえとさんは騙されたせいで、そうなったの?」


「『これ』?うふふ、これはどっちかっていうと。いっぱいいっぱい騙したからこうなった、かな」


身体を縛る紐の一つを、先日に解放された右手でつんと突いて彼女は懐かしげに目を瞑る。そこには恨みなどはないようで。

それに少年はもやつく気持ちになりながら、それを誤魔化すように持ち物を探った。そしてそのまま、汚れた黒いランドセルの中から大きなニッパーを取り出す。


「あれ?ノコギリじゃないんだ?」


「昨日もってかえったら倉庫でまっくろになってこわれちゃってた」


「あ。それは悪いことしたね」


「ううん。もう誰もつかってなかったから」


ばちん。

切ることはとても簡単に出来た。それは道具の違いというよりは、紐そのものが昨日より、異常に脆くなっていたような感覚だった。どちらにせよ少年は力を込めすぎて、尻餅をまたついた。

瞬間、世界が揺れるような感覚があって。その次の瞬間には、またイエトは繋がれたままの身体と、もう一つ自由な肉体に増えていた。


「……はあ…ふふふふ…」


「うーーん…!あはは、肩を伸ばせるのって久しぶりだなー!凝って凝って仕方ないや!伸びするのって気持ちいい〜!あははは!」


暫く、そうして少女のようにはしゃいでいた。少年はここに来るまでにすっかりとくたびれていて、それを座りながらゆっくりと見ていた。気付けば彼女は旧式の体操服姿に着替えているが、それに着替える時間もその服そのものも無かった筈だ。

だけど少年は特にそれについて考えない。

自分で悩んでも、答えは出ないとわかっていた。



「…ふう、満足。

お待たせジエーくん。退屈だった?」


「ううん。楽しそうないえとさんを見てるの、すきだよ」


「そういうこと真っ直ぐ言うんだね。

お姉さんは君のそういうとこも好きだぞ〜」


動くのに適した首元の緩い服装のまま、屈んで少年の頭に手を置く。その体勢に驚くように、少年はイエトの胸元から目を逸らした。

その様子を見て、いたずらに笑いながら再び服装を変える。首元まで布があるハイネックの姿。


「じゃあ、今日もいいことしようか。

ね、ジエーくん。君の今日の望みはなに?」


「お姉さんに、何をして欲しい?」



「…僕は…」



少年は、願いを言った。






……




「……どうしても、寝れないんだ。

おれ、よるが嫌いで。だからお願い」


「……」



少年の願いは『一緒に寝たい』だった。

であるならばと、早速少年の家へとまた足を運んで。そうして布団の上で慈英は改めて顔を俯いて恥ずかしげにおねがいをした。家戸はそれに、ちょっとだけ動きを止めて考え込んでいた。


「まったく、やっぱりエロガキだなぁ〜と思ったけど…ふふ。なんだ、そっちか」


「?」


こっそりと、一度着替えた淫靡な服を変えるイエト。一瞬姿を隠し、そしてすぐに彼女はさっきまでのハイネックの姿になった。ただし、スカートの材質が変わっている。

そうして布団に座っている少年の横に座る。正座をしてから、その自分の膝の上をぽんぽんと叩いた。


「おいで」


「う…」


慈英はその行動の意味がわからないわけではなかった。ただしかし、それを前にしてたじろいで、動かない。改めてもう一度膝を叩くと、今度は明確に首を横に振った。


「は、はずか、しいよ…」


そうして、断る少年の眼前に顔を動かし、イエトはじっと覗き込んでから。口を大きく横に歪めて微笑んで、首をそっとくすぐった。

ひゃっ、と声を上げ脱力した彼を無理矢理動かして、膝に乗せる。少年の身体は少し強張ってはいたが、次第にそのまま膝に頭を委ねた。


そのまま、暫く時間が経つ。

アナログ時計の秒分針の音だけが静かに鳴った。



「…気持ちいい」


「ふふ、でしょ?」


「…けど」


「けど?」


「あんまり、眠れない」


「あー…確かに。

ちょっと枕の位置が高すぎるか」


二人の体格は、大人と子ども。

だからイエトの膝で枕をするには、体格が合わない。微かな体温と太腿の柔さは心地良さではあったものの、その無理をした体勢ではノンレム睡眠は難しかった。


「でも、ありがとう、いえとさん。

すごく気持ちよかったからこれでいいよ」


「ううん。二回連続できみに気を遣ってもらっちゃったんじゃお姉さんの沽券に関わっちゃうからね。

きみには、今日はゆっくり眠ってもらうよ」


そうするとイエトは膝から少年をそっと下ろして、とん、と瞼を触って目を閉じさせた。そして次に少年が目を開けると、ふわふわとしたパジャマの姿になったイエトの姿がそこにはあった。

身幅に余裕があるその服にそっと包まれて少年は再び布団の中に入ることになる。すうと嗅いだ匂いからは乳のような甘い匂いとお日様の香りがした。


「あ…いえとさん、えっと、おれ」


「いいの。そのままゆっくり、ね」


そっと、抱き止めながら添い寝をして。少年を包み込みながら。とん、とん、と少年の鼓動音に合わせて手を置く。幼児を寝かしつけるような、身体をすこし揺らす動き。ゆりかごのような、優しい感覚。


「とおん、とん。

とおん、とん」


囁いて和らいで、まどろませて力を抜いて。感触と柔らかな声が少年の意識の周りにある壁を溶かして、入眠へいざなっていく。


ぎゅう、と。

微睡に曖昧になった意識の中で、少年は目の前の女性の身体に抱きついた。イエトはそれに笑い、そっと力を入れ返した。寝苦しくなってしまわないように、ほんとうにそっと。


(ジエーくん。寝ちゃったかな?)


小声で呼びかける。反応は、ない。

代わりにあるのは深い眠りと寝息。

彼の目の下にある、深い隈をそっとなぞって指で摘む。瞬間、慈英の隈は跡形もなく消えていた。

きみの顔に隈は似合わない、と心の中で呟いて。


そうして抱きあって、互いの体温を感じたままで暫くいると、イエトの身体が揺らいでいく。陽炎のようにゆらりと、存在感がなくなっていく。


「…両手だけなら長く保った方かな。

今消えちゃったら起きちゃわないかな?」


抱擁を解いて、離れていく。ぐ、と無意識下で空を掴むような動きをし、眉根を顰めてはいたが、少年が目を覚ますことはなかった。


よかった。

と、そう優しい顔で囁いてから。

そうしてからじとりとした笑みを浮かべた。

寝ている少年の首筋にそっと口を近づけた。

昨日と同じ、うなじに向けて。


かりっ。


皮膚の削れる音。



「またね、ジエーくん」



また、あした。



「……いえと、さん?」


慈英が目を覚ました時には外は既に暗く。

そして家には彼以外誰も居なかった。

誰も居ない空間で、ただ少し残った体温と。

うなじに残るうずきと、妙な痛みだけがあった。





……



残る紐は、あと五本。

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