静謐の凪、謳う波紋

朝早く、僕は、ピアノのスランプを少しでも解消する為に、朝陽が綺麗に見える丘の上を目指し、ランニングをする。


丘の上に到着すると、先客の小柄な女の子がいた。


朝陽に向かって、その小柄な女の子が柵を乗り越えようとする。僕は、


「早まるな!!!」


と、小柄な女の子の腰の辺りに腕を巻いて、柵から引き離す。それと同時に、


「え!?ちょっとー!なにするんですか!?」


僕の耳にスッと入り込む、小柄な女の子の叫び声。

叫び声にも関わらず、ランニングの疲労が一瞬で、消息するような、その澄んだ声、まるで水面の波紋のような声に、僕は、驚く。


「めっちゃ、いい声…。」


「あの、とにかく離して下さい。久遠 永遠君。」


「え…?あ!漣さん?」


「はい、漣 謳歌です。」


「ごめん、離すね。柵を乗り越えようとしてたからさ…。」


「あ、そういうことですか。すみません、私、チビなので、柵に登ったら、もっと朝陽がよく見えるかなと思って。」


「なるほど!早とちりだった。それにしても、漣さんって、普通に喋るんだね!」


「まあ…。学校の私は、暗くて目立たないし、ほとんど喋らないので。」


「そこまで言ってないけど?あと、漣さん…声、すごく綺麗だね。叫び声なのに、耳の奥に不快感なく届いた。」


「…そうですか。」


「僕、ピアノしてるから、耳には自信あるんだけど、漣さんの声、本当にすごく綺麗だよ!」


「ピアノがすごく上手ってことは、知ってます。久遠君よく学校から、表彰されてますから。」


「そっか!知っててもらえて、嬉しい!

あのさ、漣さん。歌、謳う?」


「…謳います。」


「マジか!?今度の文化祭、僕が伴奏するから、ステージ発表でようよ!漣さんの謳う声に伴奏したい!」


「遠慮します。人前でとか、私には無理なので。」


「漣さん、ちょっと待ってよ!諦めないから!」


漣さんは、ため息をついて丘を下っていく。これがきっかけで、僕と彼女の交流が始まった。



「漣さん、おはよう!」


「…、はい。」


次の日、登校してすぐに漣さんに挨拶をする。クラスの皆が驚く。あの漣さんに挨拶した、あの漣さんがちょっとだけ応えた、と。


漣謳歌は、クラスでは、あまり目立たない女の子で、笑うこともなく、淡々としている。クラスメートや先生との会話は、相づちが基本。だが、その声は、人の耳に残る。


あの丘の上で、初めて彼女の声を面と向かって聴き、僕は、その声に、こだわってしまっている。


僕は、隙有らば、漣さんに話しかけてみる。どうにか、距離を縮める為に。


何回か、交流(これが正しい表現かは、疑わしい)し、僕は、ある日、彼女に妥協した提案をする。


「漣さん、文化祭のステージ、でようよ!」


「でません。他をあたってください。謳うことは、好きです。だけど、人前では、やはり厳しいです。何回も言ってて、申し訳ないですが…。」


「そっか。けど、やっぱり漣さんの謳う声、聴きたい!僕の家、来てよ!」


「……。」


「僕の家にグランドピアノが置いてある防音室があって、そこで謳って欲しいな、と…!」


「ちょっと、心が揺れます。久遠君のピアノを生で聴けるのなら、聴きたいです…。」


「謳いたい歌、伴奏してあげるよ?」


「う…!魅力的なお誘い過ぎます…。悩みます…、何回も断ってて、申し訳ないので、その、よろしくお願いします…。」


「OK!じゃあ、放課後互いに時間あれば、謳いにきて!今日、大丈夫なら、僕のお家まで一緒に行こう!」


「今日は、用事が…ないです。仕方ないです…。」


そこから、互いに時間があるときは、僕の家に彼女は、謳いにきてくれた。彼女の謳う声は予想より、遥か上の声を持っていた。



1ヶ月経ち、スムーズな会話ができるようになった。


「謳うの楽しい?」


「はい。とても楽しいです…。こういう性格なので、昔から、孤立気味で…。謳うときだけ、違う自分になれます…。」


「うん!音楽は、自由だよ。僕も伴奏とかが、もっとしたいんだけど、周りがね…なかなか。ソリストだから、伴奏なんてもったいないって。」


「そうなんですね。久遠君のピアノは、私がいて欲しい場所に音が待っていてくれるので、とても謳いやすいです。

ソリストとして、超一流だと思いますが、伴奏者としても超一流だと思います。」」


「ありがとう!そう言ってもらえて、嬉しい!

文化祭のステージ…、ま、いいや!漣さんとは、こういう付き合いでもいいかな!漣さんのおかげで、最近ピアノの音が静かになったんだ♪」


「それって、いいことなんですか?」


「もちろん!さっき、漣さんがいて欲しい場所に音が待っていてくれるって、つまり静謐になったんだ!だから、以前より音の強弱に奥行きができた。

スランプ気味だったから、本当に助かったよ!」


「お役に立てたなら、光栄です。」



そんな風に、日々を一緒に過ごし、さらに1ヶ月。ついに文化祭の当日がやってきた。


結局、ステージ発表への参加に彼女は、首を縦に振ることはなかった。


だが、せっかくなので、文化祭を一緒に楽しむ約束はしている。


「デートっぽい!」


「デートじゃないです…。友達同士が楽しむのです。」


「ふーん、友達なんだね!」


「それは…そうです。残念ながら…。」


「残念なの?」


「ノーコメントです!」


「あはは、ノーコメントか!一応、ステージ発表見に行かない?」


「まあ、いいですよ。」


「よし!行こう!」


「ちょっと!?なんで、手を握るんですか!?」


慌てる彼女の手を、しっかり握り、体育館へ行く。


体育館入口を入る。すると、体育館内は、異様な雰囲気だった。


ステージ発表を見に、大勢の生徒や保護者や来客で満杯。だが、台風の海のような、人々の感情が荒れた重苦しさがある。


僕は、たまたま、入口の近くいたクラスメートの二人に声をかけた。


「よ!これ、どうした?めっちゃ、重苦しい雰囲気だけど…。」


「おお!永遠じゃん!ああ、これ?機材トラブルでステージ発表始まってすぐに止まって、そこから40分以上なにもないんだよ。」

「そうなんだよな。最初の5分ぐらいは、司会進行の生徒が頑張って、場を繋いでたんだけどね…マイクも入らなくて、厳しい感じ。

観客も野次とかしないで、がまんしてるけど、さすがに限界って感じ。それが現在進行形。」


二人の話を彼女も聞いていたようで、


「それは、大変ですね。みんな、一生懸命なのに…。」


「漣さん!僕がピアノ弾くから、謳ってよ!」


「え…?それは、無理…無理です!そもそも、機材トラブルでマイクも使えない感じですよね?」


「大丈夫だよ!漣さんの謳う声、耳にスッと入り込むから。それに、漣さんの声って、どんな時でも、必ず耳に届くんだ!

僕がピアノで、まず、この場の空気を変える!漣さんは、いつもみたいに謳って!」


すると、その会話が荒れた海のような、重苦しい雰囲気に波紋する。


「え!?今、漣さん、めっちゃ喋ってなかった!?」


「漣さん、最近はよく、永遠君とよく喋ってるよ!漣さんの声、なぜか、耳に入るんだよね。」


「漣さんが謳うの?やばない?すごく聴きたいかも!」


「久遠君、漣さん、やっちゃいなー!」


漣 謳歌という人物は、学校の七不思議の一つのように、不思議な、異質な、なんとなく目に入る人で、彼女のことを学校のいろんな人たちがなぜか、なんとなく知っていた。


そのなぜかの答えは、もちろん、彼女の声質によるもの。


波紋は、体育館内へ広がり、体育館の壁にぶつかり、僕と彼女にまた、集約される。


「漣さん、僕が君を精一杯サポートするよ!だから、一緒にやろ?」


「うん…わかりました。なんとなく、ここで逃げたら、ダメな気がします。」


僕は、体育館入口に彼女を残し、ステージ横のグランドピアノのもとへ。


彼女が謳えば、観客の目線は、ステージから体育館入口の方へ。


ステージの機材を復旧させようとしている人たちも、観客からのプレッシャー(観客に悪意はない)を受けない方が復旧作業が捗るだろう。


僕と彼女の良さが一番、活き、そしてこの雰囲気を打破できる曲は、rionosさんの『ウィアートル』。


僕の静謐なピアノの音色の前奏で、観客の話し声がなくなり、体育館内の荒れた海に、僕がスランプで陥った凪ではなく、今ここに必要な凪を創る。


そして、その凪に、彼女の謳う声が降り注ぐ。


凪にゆっくりと波紋が広がる。


観客は、ゆっくりとステージから、入口の彼女の方を向く。


そして、曲が進むにつれて、観客が、自然と左右に分かれ、体育館入口からステージへの道を作る。


僕も、彼女の為に観客が作った道に、華を添えるように、間奏を弾く。


間奏中に、彼女はステージ上へ。


ラストのサビになると、涙を流す人、両手を握り祈る人、心打たれ立ち尽くす人、と観客全員が聴き惚れていた。


僕は、ピアノがスランプに陥り、凪のように、何も感じない、無風の海を漂っていた。


だが、丘の上で彼女の叫び声を聴いた時、その凪に波紋ができた。


そして、彼女の謳う声は、波紋から、漣になり、僕の恋心に波打つ。


謳いきった、彼女に歩み寄り、抱き寄せる。


「ピアノがスランプになって、何事にも反応できない、凪の心に、波紋を起こしてくれて、ありがとう!漣さんのおかげで、また、歩きだせた。感謝しているし、大好きだよ、漣さん!」


「ちょっと!?たくさんの人が見てます…。

その…嬉しいです。ありがとうございます。

私も、人と上手に接することができないこと、接する必要なんかないこと、で葛藤していた、荒れた心に、あなたの静謐なピアノで凪ができ、心が穏やかになりました。私も、好き…です。」


聞き耳を立てていた観客は、一斉に歓声をあげる。


僕らは、これから凪のように穏やかに、時にその凪に喜びや哀しみや寂しさや愛おしさの波紋を広げ、一緒に歩もう。
























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