第2話 事新しい朝

 西暦二千三十五年、第三次世界大戦が勃発した。

 それは、人類が自ら築き上げた英知と傲慢が、ついに臨界点を越えた瞬間だった。


 先進各国が競うように開発していた衛星兵器、そして数多の核兵器が一斉に解き放たれた。まるで神の怒りを買ったかのように地上は紅蓮の炎に包まれ空は鉛色に染まり生命はわずか七日間で滅びの淵へと追いやられた。


 だが、その終末の只中で人類はある「光景」を目の当たりにすることとなる。それは滅びゆく世界の中で確かに刻まれた、忘れえぬ記憶。今なお語り継がれる、その逸話が静かに息づいている。


『…… そのさまは、まるで無数の火の剣が天より降り注ぐがごとく。火は地を焼き人はその怒りを免れ得まぬがれえなかった。全てが焼き尽くされるその終わりに一筋の光が天より差し来たり地を貫いた。

 その光を仰ぎ見し人々は悟った。これこそ、主の御言葉なり。

『悔い改めよ』と、神は語られ給うたのである。 ……』


 この未曾有の大戦により人類は人口の約99%以上を失う。

 三千万人を切った頃から混沌の時代へと突入し滅亡の道を進み始めた。


 疫病の蔓延、地球規模の大地震、環境破壊が重なりさらに人口は激減。

 さらに人々は暴力、略奪、殺人、凌辱を繰り返し弱者から順に死んでいった。


 大戦から約五十年が経過し人類の人口はついに一万人を切る。核兵器や衛星兵器による二次被害が比較的少なかった「元日本」の地に、生き残った人類は次第に集結していった。


 そんな絶望の中、十七人の才能ある若者たちが現れる。

 彼らは元日本の『神代町じんだいちょう』と呼ばれていた地に地下研究施設を建設すると、研究の末に電気に代わる新たなエネルギーを発見した。


 この発見を皮切りに技術は急速に発展していった。


 やがて地下一千キロメートル付近のメソスフェア内に巨大な空間が発見されると、そこに居住区を含むさまざまな施設を建設し地下都市が築かれた。さらなる研究と技術革新により土壌や水、大気の浄化も進み地上での生活も再び可能となった。


 この地球再生の時代は『第三地球創世期だいさんちきゅうそうせいき』と呼ばれ人類は新たな希望を取り戻した。


 そして地球を救った十七人の若者たちは『十二柱じゅうにはしら』と称され伝説となっていった。


 そして大戦から百年後、地球上で唯一の国家が誕生した。その名も『』である。


 * * *


『 GA歴八十七年 四月二日 八時十分 』


 七代家ななしろけの台所には、出汁のやわらかな香りが立ちこめていた。祖母の戸叶とかなが湯気の立つ鍋をかき混ぜながら、穏やかな朝の時間を過ごしている。

 外はまだ春の冷気が残るが、台所の中だけは温もりに包まれていた。


 そんな静寂を破るように、リビングの扉が勢いよく開いた。

「トカ婆ぁ! ごはん、ごはん!」

 赤いリボンでツインテールに結んだみことが、慌てた様子で駆け込んでくる。今日は入学式。身にまとった真新しい制服はまだどこか着慣れず、肩に少し違和感があるようだった。寝癖もそのままで、髪は少し乱れたまま。目元にはうっすらと眠気の名残が残っていた。


 どこか焦ったような足取りで、みことは部屋の中を見渡すと、すぐに戸叶とかなの姿を見つけて小さく安堵の息を吐いた。


みことかい。帰っとったんやな」

 鍋を見つめたまま、戸叶とかなが声をかける。口調は穏やかだが、内心では少し心配していた。朝早くから家を出た孫の姿が見えなかったため、何かあったのではないかと気を揉んでいたのだ。


「うん、寝不足だったから途中で引き返してきた……みたいです」

 みことは少しバツが悪そうに、どこか他人事のように言って肩をすくめた。実際のところ、自分でも記憶が曖昧で、気づけば布団に戻っていたのだ。


「みたい……変な子やなぁ?」

 戸叶とかなが呆れたように笑うと、みことも照れ隠しのように「ふへっ」と間の抜けた声を出して笑った。


(でも、無事でよかったわ……)

 そう思いながら、戸叶とかなは火加減を見て、湯気の中に浮かぶ家族の姿を思い浮かべる。


「まあええわ。すぐ用意するから、はよ座りぃ」

「はいでーす!」


 みことは、炊き立ての白米を自分のお茶碗によそい終えると、小さく満足げに頷きながらテーブルへ向かおうとした。

 ――そのときだった。


「おっとっ!」


 ちょっとした足のもつれに、みことの身体がふらつく。両手には大切な白米。転びたくない――そんな焦りが一瞬にして脳を駆け巡ったその刹那、背後からそっと彼女の肩に優しく手が添えられた。


「大丈夫かい? みこと。慌ててると危ないぞ」


 低く、どこまでも優しい声。耳元にすぐ近く、温もりすら感じる距離。みことはその声の主が誰なのか、確認するまでもなかった。


祈琉兄様いのるにいさま……!)


 自然と身体がその胸元へと傾いていく。祈琉いのるの手は相変わらず温かく、そっとみことを支える力には、優しさと確かな安心感がこもっていた。


(チャンスです……触れ合えるチャンスです……。あぁぁぁぁ、今、わたし、祈琉兄様いのるにいさまのか・ほ・りに包まれている……)


 みことの頬がほんのり赤く染まり、内心では歓喜の雄叫びをあげていた。

 その一方で、表情はまるで無垢な妹のような微笑み――のはずが、気づけば頬は緩み、目元はとろけ、口元には明らかにニヤけた笑みが浮かんでいた。


(いけません……気持ち悪いくらいニヤついてます、わたし。でも幸せです……うふふ……)


 そんなみことの様子を見て、祈琉いのるはくすりと笑う。

「本当にみことは朝から元気だね。……こぼさないようにね」


 優しい声に頷きながらも、みことの頭の中では“祈琉兄様いのるにいさまの残り香”を全力で記憶に刻む作業が進行していた。


『…… 先ほどからみことが病的なまでに愛してやまないこの青年こそ、長男の七代祈琉ななしろいのるである。

 祈琉いのるは、金髪のロングヘアに欧州系の白い肌、そして深みのあるダークレッドの瞳を持つ、まさに超絶イケメン。


 中学時代に自作のAIで頭角を現し、高校は十七歳で卒業。その後、『神代大学じんだいだいがく』に進学し、現在は同大学の研究所で航空機やロボットの研究開発に携わる超天才である。 ……』


「ミコよぉ、お前らやっぱ双子だよな、キモいとこマジでそっくりだよ」


『…… 口の悪さが目立つこの青年は二男の七代比智ななしろひさと

 比智ひさとは黒髪の短髪にアジア系らしい健康的な肌そして兄と同じダークレッドの瞳を持つ、そこそこイケメンな男子である。

 現在は『神代高校じんだいこうこう』の二年生で成績は常にトップクラス。

 幅広い知識を身につけ、それらを自在に組み合わせて応用できる才能を持ち、『応用力の天才』とも評されている。 ……』


「ほらみこと、テーブルにつきなさい。僕もそろそろ大学に行かなきゃだから」

 祈琉いのるは、まだ甘えるように寄り添ってくる妹をそっと優しく引き剥がすと、その小さな肩を軽くポンポンと叩いた。


(名残惜しいけど……朝からこんなにくっつかれてしまうと、キリがないからね。まったく、相変わらずだなぁ、みことは)


 祈琉いのるの声には柔らかな笑みが滲んでいた。

 妹への深い愛情を隠すことなく、その瞳はどこまでも優しかった。


「はいです、祈琉兄様いのるにいさまぁ。いってらっしゃいませぇ~ん♡」

 みことは、まるで舞い上がる小鳥のようにテンション高く返事をし、炊き立ての白米がよそわれた茶碗を両手で持ち上げると、弾むような足取りでテーブルへと向かう。


 その顔には満面まんめんの笑み――祈琉いのるに触れられたことへの幸福と、耳元で囁かれた余韻に酔いしれている様子がありありと浮かんでいた。


(あぁ……幸せです。朝からこんなご褒美……今日一日、もう何があっても乗り越えられます)


 しかし、そんな浮かれたみことに――突如として、黒い影が背後から迫った。


「みーーーこーーーとーーーっ!!」

 突如として背後から飛び込んできた声に、みことはわずかに肩をすくめた。


(……この声、この気配……最悪です、また来ました)


 振り向く間もなく、一斗いっとが両腕を大きく広げ、愛しの妹を抱きしめようと一直線に突撃してくる。だがみことの反応は早かった。


「ふんっ……!」


 瞬時に身体をひねり、右足を軸にするりと一歩踏み出す。

 一斗いっとの突進を紙一重でかわし、そのまま背中に滑り込むようにして、まるで武道の間合いをとるかのように軽やかに背後に回り込んだ。


(……わたし、今すごい動きしたです)


 みことは驚きながらも、すぐさま感情を切り替えた。

 振り向いたその顔は、喜びではなく怒りに満ちていた。目は鋭く吊り上がり、眉間には深い皺、怒りで頬がわずかに紅潮している。


「おい、イチぃ!! 触るなよ、マジでキモいんだよ、大っキライだっ!!」


 怒鳴りつける声は鋭く、台所の空気が一気に凍るようだった。


(いったい何回言えば分かるんですか……! 朝から祈琉兄様いのるにいさまの香りに包まれてた、あの至福の時間が……あぁもう台無しです!)


 その言葉を真正面から浴びた一斗いっとは、床に膝をつきながらゆっくりとうつむいた。

 まるで世界が崩れ落ちたかのような表情で、彼の頬はほんのりと赤く、目元には今にも涙が浮かびそうなほどだった。


(な……なんでじゃ……さっきの“いってらっしゃいませぇ~ん♡”との温度差がエグい……)


 心の中で呟きながら、一斗いっとはひとり静かに凹んでいた。

 その背中は、どこか哀愁すら漂っていた。


 リビングを出ようとドアに手をかけた祈琉いのるだったが、背後から聞こえてきた騒がしい声に足を止めた。

 小さくため息をつきながら、彼はふと振り返る。


「こら、みこと。汚い言葉は使わないようにしよう。いいね?」


 その一言に、みことはビクリと肩を跳ねさせた。まるで雷に打たれたかのような衝撃。

 表情は一瞬でとろけ、頬はほんのりと赤く染まり、目元は潤んでいく。


「は……はいです、祈琉兄様いのるにいさま……」


 まるで愛の告白を受けた乙女のように、みことは胸の前で手を組み、祈琉いのるをうっとりと見つめる。


祈琉兄様いのるにいさま……祈琉兄様いのるにいさまが……わたしにだけ話しかけてくださった……それだけで、生きてて良かったです……)


 祈琉いのるはそんなみことの様子に気づきつつも、あえて微笑を深めることはせず、次に視線を一斗いっとへと向けた。


一斗いっと、朝から騒がない。ほどほどにしなさい」


 その声音はやわらかだが、芯のある兄としての指導が感じられる。


「はっ! 祈琉兄上いのるあにうえ、申し訳ございませぬっ!」


 一斗いっとは背筋を伸ばし、真剣な表情で一礼する。その姿はまるで忠義に厚い侍そのものだった。

 だが、彼の心の内には波立つ感情があった。ちらりと横目でみことを見ると、彼女はまるで天使でも見ているかのような表情で祈琉を見送っている。


(……みこと、兄上ばかり見おって……そなたの全てを知るのはこのそれがしだというのに……)

 一斗いっとの心に、嫉妬とも寂しさともつかない複雑な想いが静かに積もっていく。


 そんなふたりの様子に、呆れたようなため息が部屋に響いた。


「まったく……お前らは……」


 比智ひさとが腕を組みながらボソリと呟く。寝癖のままの髪に、まだ口の中には歯ブラシの味が残っていた。


「おい兄貴、さっさと行けよ。時間ねーだろが」


 口調はぶっきらぼうだが、内容は的確だ。

 兄弟の朝の儀式とも言えるこのやり取りには、もう慣れきっている。


 祈琉いのるは肩をすくめて苦笑する。


「悪いね、比智ひさと。あとは任せたよ。──じゃあ、行ってきます」


 軽やかに微笑むと、彼は背を向けてリビングを後にした。扉が音もなく閉まる。


 その瞬間、みことはまるで糸が切れたように、その場にふわりと立ち尽くした。

 両手は胸の上、祈琉いのるのぬくもりと声の余韻を、まるで心臓に封じ込めるかのようにそっと押さえている。


「……あぁ、祈琉兄様いのるにいさま……行ってしまいましたぁ……」


 夢見るような声と陶酔した瞳。彼女の頭の中では、すでに花が舞い、音楽が流れているに違いない。


 その隣で、一斗いっとは口元をわずかに歪め、低く呻くように呟いた。


「……むぅ……それがしみことを惑わすお方が、また一人……」


 その声は小さく、誰にも届かない。しかし一斗いっとの目には、兄を見つめるみことの姿が焼きついて離れなかった。


 * * *


 ひと騒動の余韻も冷めぬまま、七代家ななしろけの朝食はようやく落ち着きを取り戻していた。

 八人掛けの大きなダイニングテーブルには炊き立ての白米と味噌汁、焼き魚に小鉢の煮物が並び、香ばしい香りが部屋を満たしている。


 みことは、一斗いっとを避けるようにして比智ひさとの隣にちょこんと座り、真剣な表情で白米を頬張っていた。小さな口を一生懸命に動かしながら、まるで「この食事こそが人生」と言わんばかりの集中ぶりである。

 先ほどの抱きつき未遂事件など、なかったかのように。


(ふぅ……やっと落ち着けたです。祈琉兄様いのるにいさまの余韻は、朝ごはんで静かにかみしめるのが正解です)


 一方、みことの真正面に座った一斗いっとは、椅子の上に正座したまま、うなだれていた。が、その空気を破ったのは比智ひさとだった。


「……しかしよ、一斗いっと。せっかく背後に回ってんのに、なんでわざわざ“みこと”って叫ぶんだよ。毎回それでバレてんじゃねぇか」


 箸を動かしながらジト目を向ける比智ひさと

 それは呆れにも似た、しかし長年の“兄弟あるある”としての温かみすら感じる突っ込みだった。


 すると、それまでしょんぼりしていた一斗いっとの目つきが、急に鋭く光を帯びた。


「それは“セット”でござるゆえ!」


 その力強い声に、比智ひさとは思わず箸を止めた。


「……セットぉ? てか、切り替え早すぎんだろ、お前」


 苦笑を漏らしながらも、内心では(こいつ、ほんっとブレねぇな……)と感心している。

 一斗いっとはというと、いつものように真剣そのものである。否、むしろ“神聖な儀式”でも語るような面持ちで語り始めた。


「よろしゅうござるか、比智兄上ひさとあにうえ。まずそれがし、気配を断ちてみことの背後に立つ。そしてそのかぐわしき薫りを肺の奥底まで吸い込み、たかぶる衝動に身を委ね、“みこと”と名を呼ぶのでござる」


 その語り口はもはや武士というより詩人。いや、求愛を捧げる騎士にも似ていた。


「……いや、そこでバレるっつってんだろ」


 すかさず突っ込む比智ひさと。だが一斗いっとの語りは止まらない。どころかさらに熱を帯びていく。


「されど、それこそが儀式! 呼びしその名は、己が魂の咆哮にてあり、愛の始まりにてあり……その後、全身全霊をもってみことを抱きしめ、想いを注ぎ込む――これにて“愛の型・壱式”、完成でござる!」


 真顔で言い切る一斗いっと。その顔は清々しいほどに誇らしげで、まるで自身の信念を貫いた武士のようだった。


「はぁ~……もうさ、ミコのことになるとお前完全に壊れるよな」


 比智ひさとは肩をすくめて呆れながらも、その内心では(まあ、ここまで一途なやつも珍しいわな)と苦笑混じりに思っていた。


「はっ! 申し訳ござらぬ、比智兄上ひさとあにうえ!」


 一斗いっとは背筋を正し、凛とした姿勢で深く一礼する。その姿勢もまた、どこか誇らしげだった。


 一方のみことはというと、比智ひさとの隣で黙々と朝食を続けていた。周囲の騒がしさなどどこ吹く風、魚を器用にほぐしながら、煮物もバランスよく口に運ぶ。


(いちいち反応してたらご飯が冷めます……それに、今は祈琉兄様いのるにいさまの余韻に浸る大切な時間……)


 本当に聞こえていないのか、あえて無視しているのか、それは本人にしか分からない。

 だが、表情は一貫して真剣そのものだった。


 比智ひさとはそんな妹をちらりと見て、小さく呟いた。


(……ミコ、お前もだいぶ強くなったな)


 朝の光が差し込む七代家ななしろけの食卓は、どこか騒がしく、どこか温かかった。


 * * *


「ところでよ、ミコ。それ……お前のだろ?」


 比智ひさとが何気なく問いかけると、みことはぱっと顔を上げ、目をきらきらと輝かせた。


「そうです、可愛いでしょ?」


 彼女の隣――空中には、丸っこいクマのようなフォルムのペッポッドが静かに浮かんでいた。長い耳がふわりと揺れ、ゆっくりと滑るようにみことのそばに寄ってくる。その浮遊は重さを感じさせず、まるで空気に抱かれているかのようだった。


(……すげーな、なんだあれ。顔はクマっぽいけど、耳がやたら長ぇし。選んだの、お袋か……)


「そっ、そうだな。可愛いと思うぞ。で、名前はつけたんだろ?」


「名前です? もちのろん! つけましたよぉぉ〜……聞きたいです?」


 みことはにやっと笑い、わざとらしく身を乗り出してくる。


(うわ、きたよこの感じ。絶対面倒くさいやつだ)


「あぁ、ぜひ教えてくれ」


 比智ひさとが諦めたように答えると、みことは立ち上がって自分の胸に手を当て、まるで大女優のような演技を始めた。


「仕方ないですね。では、発表します……ドゥルルルルル……!」


 自分で口でドラムロールをしながら、ほっぺを伸ばしたり、唇を尖らせたり、変な顔のオンパレード。


(……顔芸、どんだけ持ってんだよ)


「ジャァァァン……名前はぁぁぁぁぁ……!」


 そして、右手を空高く掲げて高らかに宣言する。


です!!」


 その瞬間、みことの隣で浮いていたペッポッドが、すっと前に出てくると、小さく頭を下げた。身のこなしは丁寧で優雅、所作にも無駄がない。


「ご紹介にあずかりました。わたくし『』と申します。命様みことさまの良きともとなれますよう、微力ながら尽くしてまいります。以後、お見知りおきくださいますよう、お願い申し上げます」


 バクマの低く穏やかな声が、室内に心地よく響く。その礼儀正しい佇まいに、一瞬、場の空気が凪いだ。


(……うわ、口調まで執事だし。名前は……やっぱそのセンスか)


「おぉぉ、可愛い名前じゃねぇか? なぁ、一斗いっと!」


 比智ひさとがニヤリとしながら、向かいに座る一斗いっとへと水を向けた。


「そ、そうでございますなっ! 比智兄上ひさとあにうえのおっしゃる通りにございますっ!」


 やや慌てつつも、一斗いっとは背筋を伸ばして応じる。その目はみことの顔を追っているが、どこか不安げに揺れていた。


「でしょ、でしょ! 名前考えるの、瞬殺でしたよ。すっごいでしょ?」


 みことは胸を張り、にんまりと笑った。その様子は満足げというより、“認められたい末っ子”のそれだった。


(……悩めよ。ちょっとは悩んでつけろよ)


「そうだな。すごいな……ミコは、すごい! かわいい!」


「へっ!」


 比智ひさとの全力フォローに、みことの顔がぱっと赤らむ。だがそのまま変な笑みを浮かべ、また奇妙な顔芸のループに入ろうとしていた。


(……ほんと、お前らは疲れるわ)


 そんなみことの顔芸をよそに、比智ひさとがふとブレスに目をやって目を見開いた。


「そんなことよりミコ! 時間ねぇぞ、早く食え!」


「その通りにございますっ! 本日は入学式でござるゆえ!」


 一斗いっとが反応し、椅子をガタリと引いて立ち上がる勢いで叫んだ。


 みことは一瞬だけ硬直したが、次の瞬間には箸を持ち直し、ご飯をまるで吸い込むようなスピードでかき込む。


「ごちそうさまですっ! では、行ってくるですっ!」


 立ち上がるやいなや、茶碗を丁寧に洗い場に置き、そのまま風のようにリビングを駆け抜けていく。

 その後を、バクマが空中をすいっと滑るように追いかけた。身体は一切揺れず、無音で、静かに――だが凛とした存在感を残して。


「ま、待ってくだされぇぇぇ! みことぉぉぉ!!」


 一斗いっとが勢いよく追いかけようと立ち上がったその瞬間――


「ぶふっ!!」


 口に残っていたご飯を盛大に噴き出す。

 飛び散った白い飛沫は、完璧な放物線を描いて、真正面の比智ひさとの顔面へと――


「うあっ!? てめぇ一斗いっと、なにしてくれとんじゃ!!」


「ぁぁ……大変申し訳ございませぬ、比智兄上ひさとあにうえ……!」


 顔を真っ青にして、ぺこぺこと頭を下げる一斗いっと。だがその姿は、どこか魂が抜けかけていた。


 比智ひさとは静かに顔についたご飯粒を指でつまみ取ると、大きくため息をついた。


「……まず座れ。まだ残っているだろ。一口ずつ、落ち着いて食え」


「はっ……申し訳ござりませぬ……」


 一斗いっとは素直に腰を下ろし、今度こそ慎重に、ご飯を口へ運びはじめる。

 だがふと、手を止め、きょろきょろと周囲を見回した。


(……あれ? 御婆様おばあさまの姿が見えませぬな……)


 いつもは台所に立ち、黙って全体を見守っているはずのあの人が、どこにもいなかった――。


 * * *


 みことは、家の前の舗装された山道をひた走っていた。

 春の朝、まだ冷気の残る山の空気は清々しく、木々の間から差し込む光が、道の斜面にまだらな模様を落としている。鳥のさえずりがどこか遠くで響き、小さな虫たちが目覚めの羽音を立て始めていた。


* * *


 その背後――木立の影の中に、ひとつの影が潜んでいた。


 ぴたりと動かず、ただみことの姿を見つめるだけのそれは、風とともにゆらぎ、かすれた声を落とす。


「……なぜ、生きている……?」


 低く、深い呟き。

 その直後、影は輪郭を曖昧にしながら風へと溶け込むように、静かに姿を消した。


* * *


 そんな異変にはまだ気づかず、みことは一定のリズムで駆け続けていた。


 軽く汗ばむ額を手の甲で拭いながら、彼女は斜め上に浮かぶ相棒へ問いかける。


「バクマ、今は何時です?」


 バクマはみことの進行方向に合わせ、空中を滑るように移動していた。クマのようなぬいぐるみ型の身体が、木漏れ日の中に浮かび、耳をゆっくり揺らす。


「現在、八時四十分でございます。このままのペースで下山を続ければ、『神代中学じんだいちゅうがく』への到着は八時五十五分頃。ややギリギリでございますね、命様みことさま


「ありがとうです」


 みことは軽く息を整えながら返すが、その口調にはどこか違和感があった。


 本人もその自覚があるのか、心の中でふと自問する。


(……そういえば、わたし今朝、本当にランニングしてたんでしょうか……?)

 起きた時にはすでに着替えて家を出ていて、気づけば山道を走っていた。


 走っていた、というより――気がつけば、部屋に居た、という感覚。


(やっぱり、記憶があやふや……まぁ、遅刻しなければいいです)


 そう思い直し、ペースを少しだけ上げたそのとき――


命様みことさまぁぁっ、ストーーップ!!」


 バクマの声が、いつもの優雅さを帯びながらも、明らかに緊迫した調子で響いた。


「なっ、何です!?」


 みこと咄嗟とっさに足を止める。しかし急な下り坂で踏み込みが甘く、身体が前のめりに傾く。


「わっ……!」


 倒れる――そう思った瞬間、みことは反射的に片足を一歩前に突き出し、両腕を広げて体勢を立て直した。ギリギリのバランスで踏みとどまる。


「ふうっ……危なっ……もう少しで転ぶところだったです。で?何です?バクマ」


 みことが息を整えながら振り返ると、バクマは少し先に浮かび、こちらを見ていた。

 その瞳には、珍しく緊張の色が宿っている。


「『』の反応を探知いたしました」


「……『妖魔』? ああ、トカ婆が”気ぃつけるんやで”って言ってた、アレ……です?」


 みことは思わずつぶやいた。


 山の木々がざわりと揺れ、どこかひやりとした空気が頬をかすめた。


(……まさか、本当に“出る”とは……)


 心の奥で、ほんのわずかに不安が芽吹く。


 けれどそのすぐ横で、バクマは空中にたゆたいながら、しっかりとみことの側に寄り添っていた。


「反応は前方、『神代大桜じんだいおおざくら』の付近と思われます。詳細な位置特定にはもう少し近づく必要がございます」


 静かな山の下り道に、緊張感が漂いはじめていた――。


 そのときだった。


 不意に突風がみこととバクマを襲った。


 体ごと持っていかれそうなほどの猛烈な風圧。木々が一斉に軋み、山肌の枯葉が巻き上がる。


「きゃああっ!」


 みことは思わず目を閉じ、身体を縮めた。足元が滑りそうになり、かろうじて踏ん張る。


命様みことさま、攻撃来ます! 対魔法・対物理結界、全方位展開いたします!」


 バクマの声が鋭く響く。空中で素早く旋回すると、その小さな身体の周囲に淡い光の陣が幾重にも展開されていった。陣は瞬時にみことを包み、透明な球状の防御結界となる。


 その直後だった。


強風つよかぜ! ざん!」


 風の中に紛れて、どこからともなく声が響いた。声の主は見えない。だが、その直後に襲ってきたものは明確だった。


 ――斬撃。


 空を裂くような鋭い風の刃がみことの正面から突っ込んできた。視認すら困難な速さで迫る斬撃。


 だがそれは、バクマが張った結界に命中すると、甲高い音を立てて弾かれた。


「っ……な、なに、今の……」


 みことは肩を震わせ、周囲を見回した。敵の姿はない。だが、風は異常なほど生暖かく、ただの自然の流れとは思えない。


(今の……『妖魔』? まさか、本当に、戦うことになるなんて……)


 内臓が冷たくなるような感覚。心臓は早鐘のように鳴り、喉の奥が張りつく。


 そんなみことに追い打ちをかけるように――


強風つよかぜ! 連撃斬れんげきざん!」


 再び、声が木霊する。


 今度は一度きりではなかった。風が吠えたかと思うと、複数の斬撃が波のように押し寄せてくる。


 斜めから、上空から、足元から――あらゆる角度から襲いかかる風の刃。

 バクマの結界はそのすべてを受け止め、硬質な音を連続して響かせた。


「……っ!」


 みことうずくまり、耳を塞ぎ、ただ耐えるしかなかった。恐怖で膝は笑い、指先まで震えている。


(怖い……なにこれ、死ぬ……)


命様みことさま、結界に亀裂確認。防御限界に達します――!」


 空中で急旋回していたバクマが警告を発する。


 結界の表面には蜘蛛の巣状のヒビが広がっていた。ヒビは連撃のたびに音を立てて拡大し、崩壊の予兆をはらんでいた。


「緊急通信、発信いたします!」


 バクマは宙に浮いたまま、柔らかな身ぶりで空中に片手を差し出すと、そのまま静かに通信を開始した。表情は変わらぬまま、だがその声色には、どこか緊張感が滲んでいた。


 みことの背後ではまだ斬撃が続いていた。


 バクマの結界は辛うじて持ち堪えているが、あと数発……もつかどうか。


(早く……誰か、来て……)


 みことの心は、今にも崩れそうな結界と共に揺れていた――。


 * * *


 七代家ななしろけのダイニングでは、比智ひさと一斗いっとがまだ朝食をとっていた。

 窓からは春の光が射し込み、外の小鳥の声が聞こえる。だが、その穏やかな空気を破るように、突如として比智ひさとの腕に装着されたブレスから、ホロスモニターが自動展開された。


 映し出されたのは、宙に浮かぶバクマの姿だった。その表情は変わらぬままだが、声には焦りの色が滲んでいる。


命様みことさまが……妖魔に襲撃されております……!」


 比智ひさとの目が瞬時に鋭くなる。箸を置くと、ホロスモニターに顔を向けて即座に問いただした。


「どこだっ?」


 その声音は冷静そのもので、しかし内心では血が逆流するような感覚を押し殺していた。


「現在位置は――『神代山公園じんだいやまこうえん』でございます。」


 バクマの声は丁寧でありながらも、必死に抑えた焦りがにじんでいる。


 比智ひさとはすぐさま立ち上がり、背後の一斗いっとへと声を飛ばした。


一斗いっとぉ!!」


「はっ!」


 一斗いっとは瞬時に反応し、椅子を鳴らすこともなく立ち上がると、そのまま無言で玄関へ駆け出した。


 躊躇ためらいも迷いもない。みことの危機と聞いた瞬間、思考よりも身体が先に動いていた。


みことが……みことが、危ない……!)


 家の扉を開け放つと、一斗いっとはまるで風のように舗装された坂を駆け下りていった。


 その姿はもはや人間離れしており、木々を揺らす突風のように音を残さず山道を走り抜けていく。


 その背を見送りながら、比智ひさともすぐに動き出した。


「バクマ! 一斗いっとが先行した。俺もすぐ向かう!」


「承知いたしましたっ! 一斗様いっとさまの加勢、大変心強うございます……! どうか、お早めに……! 命様みことさまが……!」


 バクマの声は執事らしい口調を保ちながらも、平静ではいられないほど切迫していた。


 比智ひさとは通信を終えると、手早く上着を羽織り、玄関へ向かう。


みこと……耐えてろよ。今、助けに行く)


 七代家ななしろけの朝は、静寂から一転、緊張と疾走の気配に包まれていた――。


 * * *


「……もう、結界が……」


 バクマが低く苦い声を漏らした。その直後、風のような一撃がみことを包んでいた結界に叩きつけられた。


 結界の膜に走っていた亀裂が、一気に崩壊する。


 鋭い破裂音が山間やまあいに響き、淡く光っていた防御陣が粉々に砕け散った。


 みこととバクマの間に存在していた唯一の防御――それが、完全に消えた。


「っ……!」


 みことは思わず息を飲み、肩をすくめて目を閉じた。


 次の瞬間には、斬撃が身体を裂くのではという恐怖が全身を貫いていた。


(……ここで、終わるんです? わたし……)


 そのときだった。


 地面を震わせるような重圧が周囲の空気を変えた。


 みことが恐る恐る目を開けた瞬間、眼前に何かが割り込んでいた。


 巨躯きょく。鋼のように硬質な背中。

 みこととバクマの前に、突如として巨大な影が立ちはだかったのだ。


「――『甲賀猿飛流こうがさるとびりゅう――金剛こんごうぉぉぉぉ!』」


 その男の声は、獣じみた咆哮のように辺り一帯に響き渡った。


 みことの前に現れたのは、明らかに人間の域を超えた屈強な男だった。

 肩幅は異常なまでに広く、盛り上がった筋肉は衣服を内側から裂き、布が引きちぎれていく。

 肌の色は変化し始め、光の加減ではなく明確に――鈍い金属を思わせる光沢を帯びていた。


 その直後、またも風の斬撃が襲ってきた。

 正面から直線的に、容赦なく男の胸部を狙って突き抜けるように迫る。


 だが――


 斬撃は男の肉体に接触した瞬間、何か硬いものにぶつかったように跳ね返された。

 風の刃はすべて逸れ、砕け、消えていく。


 男は微動だにしなかった。


(な……何……今の……この人、もしかして……)


 みことはその背中を見上げ、声を失っていた。


 すぐ横では、バクマがまだ空中にとどまり、静かにみことの肩を守るような位置を保っている。


 小さな体を揺らさず、冷静な視線で敵の位置を探っていた。


命様みことさま、ご安心を。――味方でございます」


 バクマが低く囁く。


 その声に、みことはほんのわずかだけ、身体の緊張を解いた。


 前方には、斬撃を放っていた『妖魔』の姿が、木々の合間からうっすらと浮かび上がっていた。


 オブジェのような影に、明らかに異質な風の膜を纏っている。


 敵はひるむことなく、再び体勢を低くし、空気を巻き込んでいる。


 だが――今、みことの前には鋼の盾のような存在が立っていた。


 妖魔はそれをも斬れると信じているのか、あるいは、自分の刃が折れると気づかぬままか。


 ――戦いの主導権は、静かに、しかし確実に移ろい始めていた。


 * * *


「みーーーこーーーとーーー!」


 そこに一斗いっとがもの凄いスピードで向かってきた。


一斗いっとぉぉぉぉ、敵は大桜の下にいるぞぉぉぉ、全力で攻撃だぁぁぁぁ!!」


「えっ?師匠?分っかりましたぁぁぁぁぁ、うぉぉぉぉぉぉ!」


 叫びながら一斗いっとはさらに加速する。


 そして、一斗いっとが目視で『妖魔』を確認した。


(あれが『妖魔』?……えっ?扇風機せんぷうきだ!?)


「いくぞっ!!」


 一斗いっとは勢いを緩めることなく駆け抜けながら拳を固く握りしめて腰の位置、下段へと構えた。その瞬間、一斗いっと臍下丹田せいかたんでんが白く脈打つように光りはじめ全身に力がみなぎった。


「『甲賀猿飛流こうがさるとびりゅう――破邪光力波はじゃこうりきはぁぁっ!』」


 一斗いっとの腹部で脈打つ白い光が、ぎゅっと拳に収束していく。


 次の瞬間、一斗いっとは全身の力を解き放つように拳を突き出し眩い光の奔流ほんりゅうが轟音と共に『妖魔』へと放たれた。解き放たれた『破邪光力波はじゃこうりきは』は『妖魔』の体を真正面から貫き鋭い閃光が周囲を染め上げた。


「ふぅぅ!手ごたえありですぞ。」


「ぐはぁぁぁぁぁ」


 一斗いっとの一撃を受けた扇風機の姿をした『妖魔』は苦悶のうめき声を漏らしながら大きく蹌踉よろめいた。それでもなんとか体勢を保とうとするが、次の瞬間、その姿はふっと掻き消えるように消え去った。


「手ごたえありじゃないっ!力が後ろに流れてるぞ一斗いっと!」


 大漢おおおとこ一斗いっとに向かって大声で叱りつけたが、その声にはどこか悔しさも滲んでいた。苛立つように辺りを見回すと既に扇風機の姿をした『妖魔』の気配が消えていることに気付き歯噛はがみしながら小さく舌打ちをした。


「……ちっ、『妖魔』め……逃げられたか……」


 一斗いっとが放った『破邪光力波はじゃこうりきは』は扇風機の姿をした『妖魔』を貫いた勢いのまま背後にそびえる大桜の幹へと直撃した。これまで『第三地球創世期だいさんちきゅうそうせいき』の象徴シンボルとして語り継がれてきた『神代大桜じんだいおおざくら』は幹に大きな穴を穿うがたれ信じられないほどあっけなく、その巨体をゆっくりと倒していった。


 『神代大桜じんだいおおざくら』がゆっくりと倒れていく様子を目の当たりにした一斗いっと愕然がくぜんとしてその場に立ち尽くした。やがて現実を理解すると思わず頭を抱え顔面を蒼白そうはくにしながら呆然ぼうぜんとつぶやいた。


「あぁぁ、わたくしはなんてことを……」


 * * *


未だ震えの残る体を抱えるようにして、みことはその場にうずくまっていた。足元がふらつき、鼓動は速く、呼吸も浅い。頭では「終わった」と分かっているはずなのに、体は恐怖から抜け出せずにいた。


 そんなみことのそばへ、ふわりと滑るように宙を漂いながら、バクマが静かに近づいてきた。長い耳がかすかに揺れ、まるい瞳がやさしくみことを見つめている。


命様みことさま、すべて終わりましたよ」

 静かな声だった。けれど、その穏やかな響きがみことの耳に確かに届いた。


「えっ……? ……終わったの?」


 震える声で問い返すみことに、バクマは空中で小さく一回転するような動きを見せながら、柔らかな口調で応えた。


「はい。残念ながら『妖魔』を完全に倒すには至りませんでしたが――追い払うことには成功いたしました」


「……もしかして、イチが……?」


「はい、一斗様いっとさまです」


 その言葉に、みことの胸の奥がじんわりと熱くなった。恐怖と安堵と、それから込み上げてくる感情で、思わず目元が熱くなる。


「……そっか」


 小さく呟き、みことは深く息を吐いた。まだ足は震えていたが、それでもわたしは、立ち上がらなければと思った。守ってもらうことしかできない今の自分を、悔しく感じながら。


 みことは、ゆっくりと地面に手をつき、力を込めて立ち上がった。


 * * *


戦いが終わり、みこととバクマ、そして大柄な男が静かに一斗いっとのもとへと歩み寄ってきた。その中心で一斗いっとは、項垂うなだれたまま、じっと動かない。


「あっ! やっぱり、堅蔵叔父けんぞうおじさん!」


 みことの声に反応して、男が大きく片手を挙げる。


「やぁみことちゃん、久しぶりだね。どうだい、わたしの大胸筋は?」


 そう言って満面の笑みを浮かべながら、上半身を誇らしげに張ってみせる。明るい口調の裏には、無事なみことの姿を見て安心した気配が滲んでいた。


『…… 大胸筋をこれ見よがしにアピールしているこの大漢おおおとこの名は三雲堅蔵みくもけんぞうみことの父・朱角あけすみの弟にあたる、みこと叔父おじである。


 『甲賀猿飛流こうがさるとびりゅう』の棟梁とうりょうを務める一方で、表向きは『三雲酒店みくもさかてん』の店員として働いている。長身でがっしりとした体格を持ち、天然のくせ毛を誤魔化すために髪は七分刈り。


 肌は少し明るめのアフリカ系の色合いで、ダークレッドの瞳が印象的なイケオジである。 ……』


「あっ……」


 堅蔵けんぞうの裸同然の上半身を見てしまい、みことは頬を染め、思わず目を逸らした。直視できず、そっとうつむく。


(な、なんでそんな格好してるんです……!)


 照れと困惑が入り混じる中、みことは小さくため息をついた。


* * *


「十二歳の少女に大胸筋アピールは犯罪だぞ、叔父貴おじき


 遅れて姿を現した七代比智ななしろひさとが、明らかに困っているみことの様子を察し、鋭くツッコんだ。口調こそ軽いが、その眼差しには妹を守ろうとする兄としての本気が見えていた。


「ハッハッハッ! すまん、すまん、みことちゃん! 会うの久しぶりでおじさん興奮しちゃった、てへっ!」


 三雲堅蔵みくもけんぞうは笑いながら後頭部をかき、照れ隠しのように破顔した。緊張感の中で戦ってきた直後、ようやく家族に再会できた喜びが、つい空回りしてしまったのだ。


「その発言もギリギリやべぇぞ! そんなことより叔父貴おじき、『妖魔』は? 仕留めたのか?」


 比智ひさとは呆れながらもすぐに本題へと切り替える。場を和ませるのは得意だが、状況の深刻さを見誤るような男ではない。


一斗いっとの攻撃は当たるには当たったんだがな……あのバカがヘマやらかしてな。まあ、深刻なダメージは与えたようだが、倒し切れずに逃げられたよ」


 堅蔵けんぞうは苦々しい表情で顎をさすりながら答えた。あの瞬間、確かに一斗いっとの一撃は決まった。しかし――それは理想的な結果にはならなかった。責める気はないが、悔しさが胸に残っていた。


「それで、なんで『神代大桜じんだいおおざくら』があんなになってんだ?」


 比智ひさとの視線が、変わり果てた桜の巨木に向かう。その声色には、怒りよりも呆れが滲んでいた。


「バカの攻撃が妖魔の後ろにあった大桜に直撃したんだよ」


 堅蔵けんぞうが片手を上げ、ため息混じりに応じる。


「そうなんです! 敵を倒さずに『神代大桜じんだいおおざくら』を倒すなんて、イチは本当に役立たずです」


 すかさずみことが強い口調で言い放った。遠慮のないその言葉には怒りというよりも、どこか情けなさと落胆が混ざっていた。守るべきは人も、想い出も、場所も。そんな当たり前のことすら果たせなかった一斗いっとに、がっかりしていたのだ。


 一斗いっとはその言葉にぐさりと胸を刺され、肩を落とし、顔を伏せる。自分の未熟さが痛いほど突きつけられ、立ち尽くすしかなかった。


(……どうせわたくしなんか……)


 心の奥底からこぼれたその声は、小さくて、けれど確かに、一斗いっと自身の存在を否定していた。


* * *


いたっ!」


 ほっと息をついたみことだったが、その拍子にズキリと膝に痛みが走り、思わず顔をしかめた。張り詰めていた緊張が解けたからだろうか。みことはそっと視線を落とし、痛みのもとを確認する。


「膝、擦りむいてるです……」


 赤く擦れた膝に、ほんの少し血がにじんでいる。みことは眉をひそめた。


「どれ、『』持ってきたから見せてみろ」


 比智ひさとが柔らかな声で言った。その声には、いつもの皮肉もとげもなく、妹を思う兄としての優しさがにじんでいた。


「はいです……」


 小さくうなずいたみことは、少しだけ不安そうに足を差し出す。


「さてと、!『応急キット』とデバイスリンク!」


 比智ひさとは自身のポッドに向けて命令を飛ばす。


「了解!……『応急キット』とリンクしました」


 レヴィアタンが応答した。


「ねぇ、ヒサ兄のレヴィアタンって変形してロボになるんですよね?」


 みことが少し気を紛らわせるように話しかける。その声には、ほんのわずかだが、震えが混じっていた。


「あぁ、ロボになると地上を二足歩行できる。そもそも浮いてるから歩行機能いらねぇと思うんだが、まあ兄貴あにきの趣味だから仕方ねぇ」


 比智ひさとは苦笑まじりに答えた。とはいえ、どこか誇らしげでもあった。


祈琉兄様いのるにいさまらしいです、さすがです」


 みことはほんの少しだけ笑顔を見せた。それはほんの一瞬の晴れ間のようだった。


「ほら、くっちゃべってねぇでさっさと始めるぞ」


 比智ひさとみことの顔色を見て、あえて口調をいつも通りに戻す。


「念のため、全身いっとくか……よしレヴィアタン。ミコにダメージスキャン、全身で開始!」


「了解! ダメージスキャン開始します」


 レヴィアタンがみことの周囲を静かに浮遊しながら、淡い光を放ってスキャニングを始める。みことはじっと立ち、少しだけ緊張した面持ちでそれを見守った。


 数秒後――


比智ひさと、ダメージスキャン終了です。結果を表示します」


「おう」


 比智ひさとのブレスからホロスモニターが展開され、みことのダメージスキャン結果が表示された。


「膝に軽い裂傷れっしょうだけか。毒やらは無さそうだし、精神干渉もねえな……ん? 少し精神不安定か……まあ、大丈夫だろ」


 表示された精神状態の数値に目を留めた比智ひさとは、小さくため息をついた。怖かったに違いない。だがみことは、必死にそれを隠そうとしている。


「ミコ、処置始めるぞ!」


 気持ちを切り替えるように、比智ひさとはきびきびと声をかける。


「処置開始」


 その言葉に応じて『応急キット』が起動し、消毒薬と絆創膏ばんそうこう、さらに個人のゲノムに応じて調薬されたが二粒、錠剤で出てきた。


 比智ひさとは手際よくみことの膝を消毒し、丁寧に絆創膏を貼っていく。その手は荒々しい口調とは裏腹に、驚くほど優しかった。


「よしミコ、この薬飲め!」


「うっ! お水って無いです?」


 口をすぼめて尋ねるみこと。だがその目は、兄を信頼している色に満ちていた。


「ねぇよ。安心しろ、ミコの好きなイチゴ味にしといたから噛んで食え」


「ヒサ兄、ありがとう。大好きです!」


 そう言ってみことは突然、比智ひさとにぎゅっと抱きついた。無邪気に見えるその仕草。しかしその小さな体は、わずかに震えていた。


 その震えに気づいた比智ひさとは、抱き返す腕に力を込め、そっとみことの背中を撫でた。


(怖かったんだな……でも、よく頑張ったよ)


 胸の内でそう呟きながら、比智ひさとはただ黙って、妹の震えが静まるのを待っていた。


* * *


 その時、比智ひさとはぞくりと背筋を撫でるような視線を感じた。ふと周囲を見回すと少し離れた場所で一斗いっとが恨めしそうにこちらを睨んでいるのが目に入った。


(やべっ!、一斗いっとか……)


 とうとう一斗いっとがゆっくり動き出す……


「どぅーしてだぁぁぁ、みごどぉぉぉ!敵を倒したのはお兄ちゃんだぞぉぉ」


 突然、荒ぶる一斗いっとみことに駆け寄ってきた。


「止まってください。一斗様いっとさま、そもそも敵を倒せてませんよ、逃げられています。」


 バクマの辛辣しんらつな静止に少し傷つくも構わず一斗いっとみこと比智ひさとに詰め寄った。


「うるさいです、イチ!敵を倒さないで大桜を倒しても意味がありません。反省してください」


 みことはさらに辛辣しんらつな言葉で一斗いっとを容赦なくなじった。だが、その口元にはどこか楽しげな笑みが浮かんでいる。やがて、みことはふっと視線を落とし一斗いっとには聞こえないように小さく呟いた。


「……イチ、ありがとう」


 その瞬間、みことの震えはすっと消え、さっきまで胸を締め付けていた恐怖もいつの間にか遠のいていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る