いのち紅(くれない)

須能寛治

第1話 希望の追分

『 GA歴八十七年 四月二日 午前六時 』


 東の空がゆるやかに白みはじめ、街並みはまだ眠っているかのように静まり返っていた。春の空気はひんやりとして、窓越しの風が頬を撫でるたび、まどろみを呼び戻すかのような優しさを含んでいる。


 二階の一室。その扉が静かに音を立てて開くと、欠伸あくび混じりの吐息が廊下に漂った。


「ふぁ……ぁ……」


 ゆっくりと姿を現したのは、白いジャージを羽織った少女。肩が少しだけずれ落ちているその姿は、着るというより引っ掛けただけのように見えた。


 いつもはしゃきっと起きてくるはずの彼女にしては、めずらしく足取りが重たい。眠気が抜けきらない顔にはぼんやりとした赤い瞳が浮かび、長いブロンドの髪も寝癖が残ったまま跳ねている。


(うぅ……まだ布団にいたい……)


 心の中でそんな弱音を吐きながら、彼女は手にした赤いリボンを指先でくるくると弄んでいた。髪を結ぶつもりだったはずが、どうにも気持ちが追いつかない。やる気だけが、どこかに置き去りになっているようだった。


 一段、一段と階段を降りるたび、体がさらに重くなる気がした。いつもの朝とは違う――そんな違和感を、自分でもはっきりとは説明できないまま。


 透き通るような肌に朝の光が射し込むが、それすらもまぶしく感じて、思わず目を細めた。


(今日は……なんだか、しんどいです……)


 少女にしては珍しい、気だるげな朝だった。


階段を降りきった少女の耳に、温かな声が届いた。


「おはようさん」


 眠たげな瞳が、ゆっくりと声のする方を向く。そこには、玄関先で柔らかく微笑む一人の老婆の姿があった。


 背は小柄で、肌は透き通るように白く、髪は明るいブロンド。肩までのショートヘアにはゆるくパーマがかかっていて、年齢を重ねた今もなお品のある佇まいを見せていた。しわの刻まれた顔には、かつての美しさの面影がほのかに残り、その穏やかな表情には見る者を包み込むような優しさが滲んでいる。


「おはようございます」


 少女はぴたりと足を止め、頭を軽く下げてしっかりと挨拶を返した。眠たげな顔つきではあるが、その一言にはきちんとした礼儀が感じられた。


「なんや、だいぶ眠たそうやなあ」


「そうなんですぅ……ちょっと寝不足ですぅ」


 そう言いつつも少女の声はややぼんやりしていて、目の焦点もまだ定まらないようだった。


「寝不足?どないしたん」


「昨日、部屋に戻ったら、パパとママから入学祝いのプレゼントが置いてあったです」


「へぇ〜、そらえぇなぁ。良かったやん」


 老婆は目を細めながら、ほんのり頬を緩ませた。孫の嬉しそうな声を聞けることが、何よりの喜びだった。


「すっごい嬉しかったです。それに、ずっと欲しかっただったんです」


「なんやったっけ?あれやろ、ぬいぐるみみたいやつ?知らんけど」


「知らんけどって……もう。ぬいぐるみみたいで、お空も飛んで、通信もできて、色んな機能が付いてるんです!」


 嬉しさが勝ったのか、語るうちに少女の声は少しだけ明るくなってきた。


「へぇ、そら、飛ぶんかいな。はぁ〜、なんやすごいなあ」


「でっ!そのの設定を、夜遅くまでしてたです」


「ははぁ、そら眠いわけや」


「めっちゃ眠いです……ふわぁぁぁ……」


 思わず欠伸あくびを噛み殺しながら、少女は口元に手を当てた。ぼんやりとした瞳に、まだ夢の名残が滲んでいる。


「そない寝不足やのに、走りに行くんか?」


「行くです」


 迷いのない声だった。眠くても、やると決めたことはやる。それが彼女の中にある、ちいさな矜持きょうじのようだった。


「そかそか。……ほな、ペッポッドは連れていかへんの?」


「あっ!スリープモード解除し忘れた。……まあ、いいです」


「ほな、行っといで」


 老婆の言葉に少女は無言で頷くと、手にしていた赤いリボンを握り直し、トレーニングシューズに足を滑り込ませた。まだ跳ねている髪を慣れた手つきでひとつに結い上げる。最後に深くひと呼吸――そして、玄関の扉を勢いよく開けた。


「行ってきます」


 きちんとしたその一言には、すでに覚悟と切り替えの色がにじんでいた。


 少女が駆け出していく姿を見送りながら、老婆も玄関先まで出てきた。背中を少し丸めた体に小さな力を込め、そっと前に踏み出す。


「気ぃつけてな〜!」


 その声は朝の空気に心地よく響き、少女の背中に届いた。少女は振り返らず、右手をひらひらと振って応える。


 朝陽に照らされる坂道を、少女の小さな背中が軽やかに駆け下りていく――その姿を、老婆は目を細めて、いつまでも見送っていた。


* * *


わたしの名前は七代命ななしろみこと。十二歳。今日から晴れて『神代中学じんだいちゅうがく』の一年生になります。


さっき出てきた素敵オババは、私のおばあちゃん。七代戸叶ななしろとかなっていうんですけど、私は『』って呼んでます。とっても優しくて、だ〜いすきなんです。


さて、そんな私がこれから向かうのは、毎日の日課――そう、ランニングです!


五歳のころから、ほとんど休まず続けてるんですよ? ふふ、ちょっとだけ自慢です。


走るコースは、『神代山じんだいやま』のふもとから頂上へと続く、ちゃんと舗装された道。そして、実は私の家……その『神代山じんだいやま』の頂上近くに建ってるんです!


だから朝のランニングは、まず一気に山のふもとまで駆け下りて、それから今度は家まで駆け上がる――ただそれだけ。なんですけど……これがあなどれないんです。


往復で約十五キロメートル。しかも、かなりの急勾配!


ふふふ……なかなか骨が折れるんですぅぅぅ。


走り始めた頃は、帰り道の上り坂で毎回バテてリタイアしてたくらい。でも、今ではちゃんと最後まで走りきれるようになったんです!だいたい、一時間三十分くらいで完走できちゃいます。


うふ。ね、けっこうスゴくないですか?


「…… 『神代山じんだいやま』は標高1,149メートルの山で、ふもとから山頂近くまで16.2キロメートルにわたって舗装道路が整備されている。道中は緑に囲まれ、落ち着いた雰囲気の中で自然の美しさを満喫できる。


標高約700メートルの地点には『神代山公園じんだいやまこうえん』があり、そこには一本の大きな桜の木が植えられている。春になると、桜は見事な花を咲かせ、周囲に穏やかな美しさを添えてくれる。


山頂には古くから人々の信仰を集める『神代神社じんだいじんじゃ』が鎮座し、訪れる者に静寂と荘厳そうごんさを感じさせる神聖な場所となっている。 ……」


「ぬわぁぁぁ……いやなこと思い出したです!」


 そう叫んだかと思うと、みことの顔つきが一気に険しくなった。


「そういえば……リタイアしてた頃、毎回『イチ』に背負われてうちまで運ばれてたです。今思うと……悔しいです。ホントに、気持ち悪いです。大っっ嫌いです……ふうふう……」


 思い出すだけで全身がぞわっとして、足取りまで少し乱れる。でも走るのを止めるわけにはいかない。みことはそのまま気持ちを切り替えるように前を向いた。


 すると――


「……ヒッヒッフー……あっ、『神代大桜じんだいおおざくら』ですっ!」


 視界の先に、堂々とそびえる一本の巨木が現れた。満開の花を咲かせたその姿に、思わず目を見開く。


「いやっふぅぅぅ!! 満開ですぅぅぅぅ!!」


 怒りも悔しさも、桜の美しさと共にどこかへ吹き飛んでいった。みことは満開の大桜に向かって、両手を広げるように駆けていった。


そこは広々とした公園で真ん中には一本の大きな桜の木がそびえていた。桜は満開の花を咲かせやさしい春風に揺られながら花びらがふんわりと舞い落ちていた。


この大きな桜の木、知ってるです?

神代大桜じんだいおおざくら』って言うんですけど、昔からすっごく有名なんですよ。


第三地球創世期だいさんちきゅうそうせいき』っていう、すっごい昔の時代には――みんなの心の支えになるシンボルだったって、トカ婆が教えてくれたです。


『…… 第三次世界大戦の勃発により、地球上の生命は絶滅の危機に瀕した。戦火を逃れ辛うじて生き延びた人類であったが、終戦後も疫病の蔓延や地殻変動による大地震に見舞われ、甚大な被害を受けることとなる。


さらなる混乱の中、人類は自らの手で暴力と破壊を繰り返し、略奪、殺人、凌辱といった蛮行が日常と化した。その果てに人口は激減し、文明は崩壊の淵へと追いやられたのである。


しかし、この絶望的な状況の中で、十七人の若者たちが現れた。

彼らは悪しき者たちを打ち倒し、人々を束ね、希望をもって導いていった。


やがて彼らによって地球は再生の兆しを見せ始める。この時代は後に『第三地球創世期だいさんちきゅうそうせいき』と呼ばれ、人類史における新たな転換点として語り継がれることとなった。 ……』


「うわぁぁぁ……凄いです。ほんと、満開……」


 みことは目を輝かせながら、『神代大桜じんだいおおざくら』の前までくると。春の風に揺れる花びらが、まるで舞い降りる雪のように視界を埋めていく。


 ――そのときだった。


「きゃあっ!」


 突然、突風が巻き起こり、みことは思わず足を止めた。容赦ない風が正面から吹きつけ、髪を結っていた赤いリボンがふわりとほどけ、風に乗って空へ舞い上がっていった。


 その瞬間。


強風つよかぜざん――」


 どこからともなく、誰かの声が囁いた。冷たい、淡々とした響きだった。


 次の刹那、空気が裂ける音もなく、見えない刃がみことを襲った。


 風を纏った鋭い何かが、左肩から右腰へ向かって斜めに深く斬り込んだ。皮膚が裂け、筋肉が割れ、骨にかすかに触れていく。その感触が、確かにみことの身体の奥深くへと刻まれた。


「……っ!!」


 息を飲む暇もなかった。直後、切断面から鮮やかな血が噴き出す。白いジャージに赤い染みが瞬く間に広がり、風に乗ったその血飛沫ちしぶきは桜の花びらすらも赤く染めていく。


 みことの体は、一瞬まだ立っていた。だが、意識がついてこない。重力に引かれるように膝が崩れ、力の抜けた手足がそのまま地面に吸い込まれていく。


「な……んで……?」


 震える声が、喉の奥でかすれた。


 背後には、満開の『神代大桜じんだいおおざくら』。花びらがひらひらと降る中、みことはその根元に崩れ落ちた。視界が滲み、意識が遠ざかっていく。空はまだ明るく、風も暖かいはずなのに、全身から温もりが失われていく感覚だけが、妙にリアルだった。


 そして、彼女を襲った何者かの気配は――まるで最初から存在しなかったかのように、完全に消え去っていた。


 さっきまで荒れていた風もぴたりと止み、空に放たれていた赤いリボンが、ひとひらの花びらのように舞いながら静かに落ちてくる。


 ふわりと、みことの肩に戻ったその瞬間――世界が一瞬、時を止めたように感じられた。


 だが、足元には厳然たる現実が広がっていた。みことの体から溢れ出た鮮血が、土を赤く染め上げ、濃く、深く――無言のまま、地面を飲み込んでいた。


* * *


『 GA歴八十七年 四月二日 八時 』


命様みことさま、朝でございます」


みことは寝返りを打ち、ぼんやりと目を開けた。

「うーん……誰ですぅ……?」


「もう八時です。お目覚めくださいませ」


(あー、なんか体が重たい……それにお腹が妙に熱い……さっきから誰の声?……)


ゆっくりと上体を起こし、声のする方へ目をやる。

「ん? あっ、『ペッポッド』か……! ……そういえば、昨夜ゆうべ――」


* * *


昨夜さくやのことだった。

夕食を終えたあと、しばらく兄たちとリビングで談笑し、みことは笑顔のまま二階の自室へと戻ってきた。


「あー、楽しかったです。でも『イチ』が居るなんて鬱陶うっとうしい!」


いつものように祖母と兄三人と囲んだ食卓は賑やかで、心がほっとする時間だった。

ただ、今日は“あの”『イチ』がいた――そのことが、みことの中に微かな疲労と苛立ちを残していた。


(ふん……まあ、しかたないか。明日あしたは入学式……今日は我慢してやるです!)


頬を膨らませながらベッドに倒れ込んだみことの瞳には、微かな不満と、ほんの少しの高揚が混ざっていた。


先程からみことが毛嫌いしている『』とは。


『…… みことには双子の兄がいる。名前は七代一斗ななしろいっと

彼女はその兄を、憎しみすら込めて『』と呼ぶ。


二卵性双生児である一斗いっとは、黒髪を七分刈りにした精悍せいかんな印象の少年だ。

アジア系の地黒の肌を持ち、真紅の瞳のみこととは異なり、一斗いっとの瞳は左右で色が異なるオッドアイ。右目は深いダークレッド、左目は鮮やかな真紅に輝いている。


ただしこの一斗いっと、妹への愛が病的なまでに強く、正直かなり痛い存在でもある。

普段は叔父の家に居候しているが、この日は明日の入学式に備え、実家へと戻って来ていた。 ……』


「さてと、明日も早いから寝るです……」


そう呟きながら、みことはベッドに倒れ込んだ体をゆっくり起こした。

そのとき、ふと足元に目をやると――


「ん?」


そこには、見覚えのない大きな箱が置かれていた。

きれいな包装紙に包まれ、丁寧にリボンまでかけられている。まるでプレゼントのようだった。


「ベッドの上に……なにやらおっきい箱が置いてあるです」


みことはそっとその箱に近づいた。

(……もしかして、パパとママから?)

胸の奥に、あたたかくて少し切ないような想いがゆっくり広がっていく。


両手でゆっくり持ち上げようとした瞬間――


おもっ!」


思わず声が漏れるほどの重量だった。驚きながらも、何とかベッドの中央まで引き寄せると、包装紙を丁寧に剥がしていく。

その慎重な動きには、どこか期待と優しさが入り混じっていた。


やがて蓋を開けると、そこには一枚のカードがそっと添えられていた。


「ん? メッセージカードです?……どれどれ」


手のひらに乗せ、カードをそっと開いたみこと

その瞬間、胸の鼓動が少しだけ早くなるのを感じていた。

(やっぱり……パパとママです?)


小さく息を呑みながら、彼女はメッセージを読み始めた。


『…… 入学おめでとう!ずっと欲しがってたペッポッドをパパとママからプレゼントします。たくさん可愛がって素敵な名前をつけてあげてね。ママより ……』


「パパ、ママ、ありがとうです……」


小さく微笑みながらカードを読み終えたみことだったが、ふとその下にまだ文字があることに気づく。


「ん? まだ先があるです」


『…… P.S. 入学式にはパパもママもそろって行くわよ。一緒にお祝いできるの楽しみね。じゃあ、明日学校でね。 ……』


その瞬間、胸の奥がふわりとあたたかくなる。

(やった……パパとママに明日会えるです……とっても嬉しいです)


心の中でそう呟いたみことの目に、じわりと涙が浮かんだ。

ほんの少しだけ寂しさをこらえてきた日々。だからこそ、明日が待ち遠しくてたまらない。


両親に久しぶりに会えるという、その事実だけで心が満たされていくのを感じながら、みことはそっとカードを胸に抱きしめた。


だが次の瞬間――


それまで感極まっていたみことの表情が、みるみるうちに狂喜へと変わっていった。

涙を拭った顔に浮かんだのは、どこか危ういほどに嬉しさが暴走した笑み。口元がゆっくりと吊り上がり、瞳がぎらりと輝く。


「そんなことよりぃぃぃ! ぬをぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」


突如、雄叫びを上げながらベッドの上にガッツポーズを決め、仁王立ちになるみこと

全身からほとばしる興奮のエネルギーは、もはや暴発寸前といった様相だった。


(ついに……ついに、わたしのところにも……!!)


歓喜に震える指先で人差し指を突き立て、さらなる咆哮ほうこうが部屋に響き渡った。


「念願のぉ! ぉぉぉ…… !!!」


みことの叫びには、喜び、興奮、そして何よりも夢が叶った瞬間の爆発的な感動が込められていた。

それはまさに、彼女にとって人生最大級の“狂喜の瞬間”だった。


* * *


その頃、リビングではみことの兄たちが、まだ談笑を続けていた。


「ミコのヤツ、また叫んでんな」

ソファにもたれながら、次男が呆れたように言う。

だがその口調には、どこか微笑ましさが混じっていた。


「わっわたくしみことが今日も喜んでおりますぞ……ふふっ」

一斗いっとはうっとりと宙を見上げ、手を胸に当てて恍惚こうこつの表情を浮かべる。

妹の歓喜の声を、まるで音楽のように受け止めていた。


「そういえば、さっき父さんが少しだけ帰ってきてたよ」

長男が、柔らかい口調でふと思い出したように言う。

「もしかすると、入学祝いのプレゼントをみことの部屋にそっと置いていってくれたのかもしれないね」


「しっかし毎度毎度、マジでうるっせぇ! 親父おやじも直接手渡しすりゃいいだろ!」

次男が肩をすくめながらも、にやけがちの口元を抑えきれずにぼやいた。

妹の反応は、何度見ても騒がしくも愛嬌がある。


「まあまあ、父さんも忙しいしね。それに……これはうち風物詩ふうぶつしみたいなもんだから」

長男の声は、どこまでも穏やかで優しい。

その言葉には、家族への深い理解と愛情が滲んでいた。


「はぁぁ~ん、みことの声は心地よく耳触りがとても良きですぞ! まさに福音ふくいんですぞ!」

一斗いっとは両手を広げ、まるで神を讃えるかのような動きで天井を仰いだ。

その姿には、もはや常軌を逸した崇拝すら感じられる。


一斗いっと! てめぇ!さっきから言動がキモいんだよ!」

次男が即座にツッコミを入れる。

それはもはや兄弟間のいつものやりとりだった。


そして、みことの部屋では――

まだまだ、歓喜の絶叫が続いていた……。


* * *


またしても、みことの表情が変わった。

今度は、先ほどまでの狂喜が嘘のように真剣な面持ちに切り替わり、右手の人差し指を天へと突き立てる。

顔を少し上げ、目は未来を見つめるかのように輝いていた。


「説明しよう! 『』とは『光次幻科学こうじげんかがく』のすいを集め、『虚空こくうネットワーク』を利用した通信と高性能AIを搭載するペット型情報通信端末である!」


声には誇らしさと興奮、そして心の底からの尊敬が込められていた。

まるで、大好きなものを紹介する時の子どものように、みことの全身から情熱が溢れている。


やがて、一頻ひとしきり感涙かんるいし、狂喜し、全力で解説を終えたみことは、深く息を吐いて肩の力を抜いた。


「ふぅぅ、さてとっです」


胸いっぱいに詰まっていた想いを吐き出し、ようやく現実に戻ってきたような、そんな柔らかな表情が彼女の顔に浮かんでいた。


* * *


箱から『』と、付属の『』を取り出し、みことはそっとベッドの上に並べた。


目の前に並んだそれらを、しばらくのあいだ無言で見つめ続ける。

触れるのも惜しいほど愛おしくて、ただ、じっと見ていた。

その瞳はまるで、初恋の相手を見つめるかのようにうるんでいた。


やがて――


「オウ、マイガッ!!……スバラシイデス」


唐突に、たどたどしい片言でみことがしゃべり出した。

感情があふれて言葉にならず、なぜか片言の異国風になってしまう。


「フォルム、ハ……ベア? フライデキソウナ、ビッグナイヤー……ソシテ……」


その顔には、恍惚こうこつとした陶酔の笑みが浮かび、言葉はどこかなまめかしく甘く囁かれる。


「オゥ……モーニング……」


まるで夢の中のように、みことはペッポッドを見つめながら動かない。

ただ、深く深くその余韻よいんひたりながら、幸福という名の静寂に身を委ねていた。


* * *


「さっ、起動して初期設定するです」


感傷に浸っていたかと思えば、すぐさま実務モードに切り替わる――それがみことである。

興奮の余韻を残しつつも、その瞳にはすでに知的好奇心が灯っていた。


「えーと、何々? 説明書によると……まずはこの『ブレス』を左手に装着。そして……『ブレス』の表面の『タッチパネル』を人差指でタッチする」


言われた通りに操作すると、すぐに『ブレス』から機械的なアナウンスが流れた。


『Start PetPod Setup. GenomeScan Started.』


ピピッと小さく音を立て、『ブレス』が静かに作動を開始する。

みことは思わず息を呑み、その動作を見守った。


「ふむ……タッチすることで皮脂をスキャンし、ゲノムを解析する……そして……『』で『ゲノム照合』する……なるほどです」


仕組みを理解するたびに、その声には納得と感心が滲んでいく。

目の前のテクノロジーに対する敬意と興味が、みことの中でどんどん膨らんでいった。

(すごいです……これ、わたし専用になるんですね)


その胸は、未来を手に入れたような高揚感でいっぱいだった。


『…… 『ガイアネットワーク』とは、ガイアが運営する仮想ネットワークであり、虚空内に構築された高度な情報基盤である。


このネットワーク上には国民情報システムをはじめとするさまざまな行政・社会インフラが統合されており、国家運営や市民生活を支える中心的な役割を担っている。 ……』


『……Complete. Mikoto Nanashiro STANDBY』


音声アナウンスとともに、ブレスから『ホロスモニター』が展開され、みことの国民情報が映し出された。


「…… 『ホロスモニター』とは、三次元ホログラム技術を用いて、何もない空間にモニターを展開する先進的な表示技術である。


映像は2D・3Dの両方に対応しており、表示形式も平面パネルや立体パネルなど、用途に応じてさまざまなサイズや形状で展開が可能。


状況に応じた複数のモニタータイプが用意されており、柔軟かつ直感的な情報表示を実現している。 ……」


「おっ!『ゲノム照合』が終わったです。ふむふむ、私の情報で間違いないですね。で、ここからは音声認識っと……」


みことは左手に装着されたブレスに顔を近づけ、胸を高鳴らせながらはっきりと声を発した。


「ペッポッド、起動!」


その瞬間、ブレスから再び機械的なアナウンスが流れた。


『音声データを解析中……七代命ななしろみことの音声として登録しました。続いて音声データから使用言語を解析……に該当。AI使用言語をガイア標準言語に設定します』


耳に響くその声は、自分だけのパートナーが目を覚ます合図のように思えて――

みことの鼓動がさらに速くなる。


次の瞬間、目の前のペッポッドがふわりと宙に浮き上がった。


「うぉっ、浮いた……!」


思わず声を上げたものの、すぐにみことの表情が少しだけ悔しげに曇る。


「くっ……分かってたです。何度も見てたです、ポッドが浮くとこ……」


街で、学校で、実際に見かけてきたあの光景。

知ってはいたけど、いざ自分の目の前で起きると、どうしても感動してしまう――

そんな自分が、ちょっとだけ悔しかった。


そんな彼女の耳に、ブレスからさらにアナウンスが届く。


『最後に、名前の登録を開始します』


「そっ、そうでした! 悔やんでる場合じゃないです、名前、名前……!」


みことはペッポッドをじっと見つめながら、腕を組んで考え込む。

(えーっと……これって、クマ? で、この服……モーニングってことは執事?)


「クマの執事……うーん、執事はバトラー……クマだから……!」


閃いたようにぱっと顔を上げ、みことは満面の笑みで叫んだ。


「そうです!『』です!!」


それはまさに、自分だけの存在に初めて名前を贈る特別な瞬間だった。

……そのネーミングセンスが“残念”だったことに、みことはまだ気づいていない。


すると、みことの声に反応するように、ブレスから再びアナウンスが流れた。


『名前をで登録しますか?』


「はいです!」


『了解しました。機体番号:BNHB-PP-M0003510はで登録しました』


アナウンスが終わると同時に、宙に浮いていたペッポッドの目がゆっくりと開く。

丸みを帯びたその姿は、まるでぬいぐるみのように愛らしく、みことの方へふわりと向き直った。


その光景に、みことの胸は新たなときめきで満ちていった。

(これから一緒に過ごすんです……わたしだけの、パートナーです!)


「……オハヨウ、ゴザイマス」


ぬいぐるみのようなフォルムのペッポッドが、宙をゆっくり漂いながら静かに口を開いた。


「おおっ、しゃべったです!」


みことの目がぱっと輝く。心の底から湧き上がる喜びが、声と表情にはっきりと現れていた。


「ナナシロ……ミコト、サマ……デスネ?」


「うん、そうだよ。これからよろしくね、バクマ!」


ふわりとみことの前に滑るように近づいたペッポッドが、丁寧に頭を下げる。


「ヨロシク……オネガイ、シマス」


みことは自然と笑顔になり、宙を漂うその小さな相棒にそっと手を伸ばした。

ぬくもりはないのに、心が満たされていくのを感じた。


「さて、初期設定も終わったし……寝るです。あっ、そうです、バクマっ! スケジュール登録できるですか?」


「すでに ジンダイチュウガッコウ の ネンカン スケジュール トウロク されてマス。コジン スケジュール トウロク しますカ?」


「よろしくです。えーっと、明日は何時までに学校行ったらいいです?」


「アスハ ゴゼン9ジ マデニ トウコウ。ホームルーム オワッタアト、10ジカラ ニュウガクシキ デス」


「そっかぁ。普段の登校時間は?」


「マイニチ ゴゼン8ジ45フン マデニ トウコウ。ホームルーム オワッタアト、9ジカラ 1ジゲンメ ハジマリマス」


バクマは宙を滑るようにゆっくり旋回しながら、みことの周囲を穏やかに移動していた。

その動きは柔らかく、まるで空気に抱かれているようだった。


「なるほど……じゃあ、毎日の起床を朝六時でお願いです!」


「カシコマリマシタ。キショウ マイニチ ゴゼン6ジ ニ トウロク シマシタ。ホカニ ゴザイマスカ?」


「とりあえず大丈夫……です。後はまた学校が始まってから決めるです」


「リョウカイ です」


「さてと……って、うわっ、すっごい時間!? えーと、バクマ!寝るです!」


「カシコマリマシタ。スリープモード イコウ シマス」


バクマは軽やかに宙を一回転すると、みことのベッドサイドにふわりと移動し、静かに動作を停止した。


「……さてと、私も……おやすみです」


布団にもぐりながら、みことは小さく微笑んだ。

その胸には、明日から始まる新しい日々と、バクマとの時間への期待が静かに灯っていた。


* * *


昨夜さくやの出来事をふと思い出したみことは、目の前で静かに宙を漂っているペッポッドに声をかけた。


「そうだそうだ、です。おはようございます。バクマ!」


すでに目を開き、宙に浮かんでみことを見守っていたぬいぐるみ型のペッポッドが、ゆっくりと姿勢を正しながら応じた。


「おはようございます、命様みことさま。ようやくお目覚めになられましたか」


その丁寧で穏やかな口調に、みことは少し首を傾げた。


「あれ? でも、わたしって六時に起きてランニングに行ったです?」


自分の行動に自信が持てず、記憶を探るように問い返す。頭の中がぼんやりしていて、今ひとつ現実感がない。


「はい、確かに六時にご出発なさいました。そして、六時三十分にはお戻りになられ――その後、再びお休みになられたのです」


「……そうだったんだ」


目をぱちぱちと瞬かせながら、みことは記憶の断片を繋ごうとした。

けれど、はっきりしない。胸の奥に、じわりとした違和感が広がっていく。


(えっ? なんで? 六時三十分です? いつもは往復で一時間以上は掛かるです。今日は……かなり早いです?)


思っていた時間の感覚と実際の出来事にずれがある。

その小さな食い違いが、みことの中に静かな不安を呼び起こしていた。


「ところで、バクマ?」


声をかけると、バクマはふわふわと軽やかに宙を移動し、ぴたりとみことの正面で静止した。


「はっ。何かご用でございますか、命様みことさま


「話し方、昨日より――流調りゅうちょうじゃない?」


眉をひそめながらみことは尋ねた。どこか昨日と違う。言葉の運びが自然すぎて、まるで“誰か”が話しているような気さえする。


「さようでございますか? お気のせいではございませんでしょうか」


バクマはとぼけたように静かに答えると、くるりと宙を一回転し、話題をさりげなく変えた。


「それより、命様みことさま。お支度をお急ぎくださいませ。ご登校のお時間が迫っております」


「気のせいです?……はっ! そうです?! とにかく急ぐです!」


みことは思わず飛び起き、制服へと急いで着替え始めた。

そして身なりを整えると、バッグを手に慌ただしく部屋を出ていく。

胸の奥に残った小さな違和感に気づきつつも、それを振り払うようにして。


* * *


このときみことの身に、何が起こり始めていたのか――

それを彼女が知るのは、まだ遥か先の未来のこと。


無垢な笑顔のその裏で、静かに動き出した運命の歯車。


みことにとっては、新たな始まりの朝。

家族にとっては、かつて経験したことのない扉が開かれる朝。


それはまるで、希望と絶望が交差する、運命の追分おいわけ


そして――誰にも止められない、激動の時が、そっと幕を上げた。

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