いのち紅(くれない)
須能寛治
第1話 希望の追分
『 GA歴八十七年 四月二日 午前六時 』
東の空がゆるやかに白みはじめ、街並みはまだ眠っているかのように静まり返っていた。春の空気はひんやりとして、窓越しの風が頬を撫でるたび、まどろみを呼び戻すかのような優しさを含んでいる。
二階の一室。その扉が静かに音を立てて開くと、
「ふぁ……ぁ……」
ゆっくりと姿を現したのは、白いジャージを羽織った少女。肩が少しだけずれ落ちているその姿は、着るというより引っ掛けただけのように見えた。
いつもはしゃきっと起きてくるはずの彼女にしては、めずらしく足取りが重たい。眠気が抜けきらない顔にはぼんやりとした赤い瞳が浮かび、長いブロンドの髪も寝癖が残ったまま跳ねている。
(うぅ……まだ布団にいたい……)
心の中でそんな弱音を吐きながら、彼女は手にした赤いリボンを指先でくるくると弄んでいた。髪を結ぶつもりだったはずが、どうにも気持ちが追いつかない。やる気だけが、どこかに置き去りになっているようだった。
一段、一段と階段を降りるたび、体がさらに重くなる気がした。いつもの朝とは違う――そんな違和感を、自分でもはっきりとは説明できないまま。
透き通るような肌に朝の光が射し込むが、それすらもまぶしく感じて、思わず目を細めた。
(今日は……なんだか、しんどいです……)
少女にしては珍しい、気だるげな朝だった。
階段を降りきった少女の耳に、温かな声が届いた。
「おはようさん」
眠たげな瞳が、ゆっくりと声のする方を向く。そこには、玄関先で柔らかく微笑む一人の老婆の姿があった。
背は小柄で、肌は透き通るように白く、髪は明るいブロンド。肩までのショートヘアにはゆるくパーマがかかっていて、年齢を重ねた今もなお品のある佇まいを見せていた。
「おはようございます」
少女はぴたりと足を止め、頭を軽く下げてしっかりと挨拶を返した。眠たげな顔つきではあるが、その一言にはきちんとした礼儀が感じられた。
「なんや、だいぶ眠たそうやなあ」
「そうなんですぅ……ちょっと寝不足ですぅ」
そう言いつつも少女の声はややぼんやりしていて、目の焦点もまだ定まらないようだった。
「寝不足?どないしたん」
「昨日、部屋に戻ったら、パパとママから入学祝いのプレゼントが置いてあったです」
「へぇ〜、そらえぇなぁ。良かったやん」
老婆は目を細めながら、ほんのり頬を緩ませた。孫の嬉しそうな声を聞けることが、何よりの喜びだった。
「すっごい嬉しかったです。それに、ずっと欲しかったペッポッドだったんです」
「なんやったっけ?あれやろ、ぬいぐるみみたいやつ?知らんけど」
「知らんけどって……もう。ぬいぐるみみたいで、お空も飛んで、通信もできて、色んな機能が付いてるんです!」
嬉しさが勝ったのか、語るうちに少女の声は少しだけ明るくなってきた。
「へぇ、
「でっ!そのペッポッドの設定を、夜遅くまでしてたです」
「ははぁ、そら眠いわけや」
「めっちゃ眠いです……ふわぁぁぁ……」
思わず
「そない寝不足やのに、走りに行くんか?」
「行くです」
迷いのない声だった。眠くても、やると決めたことはやる。それが彼女の中にある、ちいさな
「そかそか。……ほな、ペッポッドは連れていかへんの?」
「あっ!スリープモード解除し忘れた。……まあ、いいです」
「ほな、行っといで」
老婆の言葉に少女は無言で頷くと、手にしていた赤いリボンを握り直し、トレーニングシューズに足を滑り込ませた。まだ跳ねている髪を慣れた手つきでひとつに結い上げる。最後に深くひと呼吸――そして、玄関の扉を勢いよく開けた。
「行ってきます」
きちんとしたその一言には、すでに覚悟と切り替えの色がにじんでいた。
少女が駆け出していく姿を見送りながら、老婆も玄関先まで出てきた。背中を少し丸めた体に小さな力を込め、そっと前に踏み出す。
「気ぃつけてな〜!」
その声は朝の空気に心地よく響き、少女の背中に届いた。少女は振り返らず、右手をひらひらと振って応える。
朝陽に照らされる坂道を、少女の小さな背中が軽やかに駆け下りていく――その姿を、老婆は目を細めて、いつまでも見送っていた。
* * *
さっき出てきた素敵オババは、私のおばあちゃん。
さて、そんな私がこれから向かうのは、毎日の日課――そう、ランニングです!
五歳のころから、ほとんど休まず続けてるんですよ? ふふ、ちょっとだけ自慢です。
走るコースは、『
だから朝のランニングは、まず一気に山の
往復で約十五キロメートル。しかも、かなりの急勾配!
ふふふ……なかなか骨が折れるんですぅぅぅ。
走り始めた頃は、帰り道の上り坂で毎回バテてリタイアしてたくらい。でも、今ではちゃんと最後まで走りきれるようになったんです!だいたい、一時間三十分くらいで完走できちゃいます。
うふ。ね、けっこうスゴくないですか?
「…… 『
標高約700メートルの地点には『
山頂には古くから人々の信仰を集める『
「ぬわぁぁぁ……
そう叫んだかと思うと、
「そういえば……リタイアしてた頃、毎回『イチ』に背負われて
思い出すだけで全身がぞわっとして、足取りまで少し乱れる。でも走るのを止めるわけにはいかない。
すると――
「……ヒッヒッフー……あっ、『
視界の先に、堂々とそびえる一本の巨木が現れた。満開の花を咲かせたその姿に、思わず目を見開く。
「いやっふぅぅぅ!! 満開ですぅぅぅぅ!!」
怒りも悔しさも、桜の美しさと共にどこかへ吹き飛んでいった。
そこは広々とした公園で真ん中には一本の大きな桜の木がそびえていた。桜は満開の花を咲かせやさしい春風に揺られながら花びらがふんわりと舞い落ちていた。
この大きな桜の木、知ってるです?
『
『
『…… 第三次世界大戦の勃発により、地球上の生命は絶滅の危機に瀕した。戦火を逃れ辛うじて生き延びた人類であったが、終戦後も疫病の蔓延や地殻変動による大地震に見舞われ、甚大な被害を受けることとなる。
さらなる混乱の中、人類は自らの手で暴力と破壊を繰り返し、略奪、殺人、凌辱といった蛮行が日常と化した。その果てに人口は激減し、文明は崩壊の淵へと追いやられたのである。
しかし、この絶望的な状況の中で、十七人の若者たちが現れた。
彼らは悪しき者たちを打ち倒し、人々を束ね、希望をもって導いていった。
やがて彼らによって地球は再生の兆しを見せ始める。この時代は後に『
「うわぁぁぁ……凄いです。ほんと、満開……」
――そのときだった。
「きゃあっ!」
突然、突風が巻き起こり、
その瞬間。
「
どこからともなく、誰かの声が囁いた。冷たい、淡々とした響きだった。
次の刹那、空気が裂ける音もなく、見えない刃が
風を纏った鋭い何かが、左肩から右腰へ向かって斜めに深く斬り込んだ。皮膚が裂け、筋肉が割れ、骨にかすかに触れていく。その感触が、確かに
「……っ!!」
息を飲む暇もなかった。直後、切断面から鮮やかな血が噴き出す。白いジャージに赤い染みが瞬く間に広がり、風に乗ったその
「な……んで……?」
震える声が、喉の奥でかすれた。
背後には、満開の『
そして、彼女を襲った何者かの気配は――まるで最初から存在しなかったかのように、完全に消え去っていた。
さっきまで荒れていた風もぴたりと止み、空に放たれていた赤いリボンが、ひとひらの花びらのように舞いながら静かに落ちてくる。
ふわりと、
だが、足元には厳然たる現実が広がっていた。
* * *
『 GA歴八十七年 四月二日 八時 』
「
「うーん……誰ですぅ……?」
「もう八時です。お目覚めくださいませ」
(あー、なんか体が重たい……それにお腹が妙に熱い……さっきから誰の声?……)
ゆっくりと上体を起こし、声のする方へ目をやる。
「ん? あっ、『ペッポッド』か……! ……そういえば、
* * *
夕食を終えたあと、しばらく兄たちとリビングで談笑し、
「あー、楽しかったです。でも『イチ』が居るなんて
いつものように祖母と兄三人と囲んだ食卓は賑やかで、心がほっとする時間だった。
ただ、今日は“あの”『イチ』がいた――そのことが、
(ふん……まあ、しかたないか。
頬を膨らませながらベッドに倒れ込んだ
先程から
『……
彼女はその兄を、憎しみすら込めて『イチ』と呼ぶ。
二卵性双生児である
アジア系の地黒の肌を持ち、真紅の瞳の
ただしこの
普段は叔父の家に居候しているが、この日は明日の入学式に備え、実家へと戻って来ていた。 ……』
「さてと、明日も早いから寝るです……」
そう呟きながら、
そのとき、ふと足元に目をやると――
「ん?」
そこには、見覚えのない大きな箱が置かれていた。
きれいな包装紙に包まれ、丁寧にリボンまでかけられている。まるでプレゼントのようだった。
「ベッドの上に……なにやらおっきい箱が置いてあるです」
(……もしかして、パパとママから?)
胸の奥に、あたたかくて少し切ないような想いがゆっくり広がっていく。
両手でゆっくり持ち上げようとした瞬間――
「
思わず声が漏れるほどの重量だった。驚きながらも、何とかベッドの中央まで引き寄せると、包装紙を丁寧に剥がしていく。
その慎重な動きには、どこか期待と優しさが入り混じっていた。
やがて蓋を開けると、そこには一枚のカードがそっと添えられていた。
「ん? メッセージカードです?……どれどれ」
手のひらに乗せ、カードをそっと開いた
その瞬間、胸の鼓動が少しだけ早くなるのを感じていた。
(やっぱり……パパとママです?)
小さく息を呑みながら、彼女はメッセージを読み始めた。
『…… 入学おめでとう!ずっと欲しがってたペッポッドをパパとママからプレゼントします。たくさん可愛がって素敵な名前をつけてあげてね。ママより ……』
「パパ、ママ、ありがとうです……」
小さく微笑みながらカードを読み終えた
「ん? まだ先があるです」
『…… P.S. 入学式にはパパもママもそろって行くわよ。一緒にお祝いできるの楽しみね。じゃあ、明日学校でね。 ……』
その瞬間、胸の奥がふわりとあたたかくなる。
(やった……パパとママに明日会えるです……とっても嬉しいです)
心の中でそう呟いた
ほんの少しだけ寂しさをこらえてきた日々。だからこそ、明日が待ち遠しくてたまらない。
両親に久しぶりに会えるという、その事実だけで心が満たされていくのを感じながら、
だが次の瞬間――
それまで感極まっていた
涙を拭った顔に浮かんだのは、どこか危ういほどに嬉しさが暴走した笑み。口元がゆっくりと吊り上がり、瞳がぎらりと輝く。
「そんなことよりぃぃぃ! ぬをぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
突如、雄叫びを上げながらベッドの上にガッツポーズを決め、仁王立ちになる
全身からほとばしる興奮のエネルギーは、もはや暴発寸前といった様相だった。
(ついに……ついに、わたしのところにも……!!)
歓喜に震える指先で人差し指を突き立て、さらなる
「念願のぉ! ペッポッドぉぉぉ…… DEATH!!!」
それはまさに、彼女にとって人生最大級の“狂喜の瞬間”だった。
* * *
その頃、リビングでは
「ミコのヤツ、また叫んでんな」
ソファにもたれながら、次男が呆れたように言う。
だがその口調には、どこか微笑ましさが混じっていた。
「わっ
妹の歓喜の声を、まるで音楽のように受け止めていた。
「そういえば、さっき父さんが少しだけ帰ってきてたよ」
長男が、柔らかい口調でふと思い出したように言う。
「もしかすると、入学祝いのプレゼントを
「しっかし毎度毎度、マジでうるっせぇ!
次男が肩をすくめながらも、にやけがちの口元を抑えきれずにぼやいた。
妹の反応は、何度見ても騒がしくも愛嬌がある。
「まあまあ、父さんも忙しいしね。それに……これは
長男の声は、どこまでも穏やかで優しい。
その言葉には、家族への深い理解と愛情が滲んでいた。
「はぁぁ~ん、
その姿には、もはや常軌を逸した崇拝すら感じられる。
「
次男が即座にツッコミを入れる。
それはもはや兄弟間のいつものやりとりだった。
そして、
まだまだ、歓喜の絶叫が続いていた……。
* * *
またしても、
今度は、先ほどまでの狂喜が嘘のように真剣な面持ちに切り替わり、右手の人差し指を天へと突き立てる。
顔を少し上げ、目は未来を見つめるかのように輝いていた。
「説明しよう! 『ペッポッド』とは『
声には誇らしさと興奮、そして心の底からの尊敬が込められていた。
まるで、大好きなものを紹介する時の子どものように、
やがて、
「ふぅぅ、さてとっです」
胸いっぱいに詰まっていた想いを吐き出し、ようやく現実に戻ってきたような、そんな柔らかな表情が彼女の顔に浮かんでいた。
* * *
箱から『ペッポッド』と、付属の『ブレス』を取り出し、
目の前に並んだそれらを、しばらくのあいだ無言で見つめ続ける。
触れるのも惜しいほど愛おしくて、ただ、じっと見ていた。
その瞳はまるで、初恋の相手を見つめるかのようにうるんでいた。
やがて――
「オウ、マイガッ!!……スバラシイデス」
唐突に、たどたどしい片言で
感情があふれて言葉にならず、なぜか片言の異国風になってしまう。
「フォルム、ハ……ベア? フライデキソウナ、ビッグナイヤー……ソシテ……」
その顔には、
「オゥ……モーニング……」
まるで夢の中のように、
ただ、深く深くその
* * *
「さっ、起動して初期設定するです」
感傷に浸っていたかと思えば、すぐさま実務モードに切り替わる――それが
興奮の余韻を残しつつも、その瞳にはすでに知的好奇心が灯っていた。
「えーと、何々? 説明書によると……まずはこの『ブレス』を左手に装着。そして……『ブレス』の表面の『タッチパネル』を人差指でタッチする」
言われた通りに操作すると、すぐに『ブレス』から機械的なアナウンスが流れた。
『Start PetPod Setup. GenomeScan Started.』
ピピッと小さく音を立て、『ブレス』が静かに作動を開始する。
「ふむ……タッチすることで皮脂をスキャンし、ゲノムを解析する……そして……『ガイアネットワーク』で『ゲノム照合』する……なるほどです」
仕組みを理解するたびに、その声には納得と感心が滲んでいく。
目の前のテクノロジーに対する敬意と興味が、
(すごいです……これ、わたし専用になるんですね)
その胸は、未来を手に入れたような高揚感でいっぱいだった。
『…… 『ガイアネットワーク』とは、ガイアが運営する仮想ネットワークであり、虚空内に構築された高度な情報基盤である。
このネットワーク上には国民情報システムをはじめとするさまざまな行政・社会インフラが統合されており、国家運営や市民生活を支える中心的な役割を担っている。 ……』
『……Complete. Mikoto Nanashiro STANDBY』
音声アナウンスとともに、ブレスから『ホロスモニター』が展開され、
「…… 『ホロスモニター』とは、三次元ホログラム技術を用いて、何もない空間にモニターを展開する先進的な表示技術である。
映像は2D・3Dの両方に対応しており、表示形式も平面パネルや立体パネルなど、用途に応じてさまざまなサイズや形状で展開が可能。
状況に応じた複数のモニタータイプが用意されており、柔軟かつ直感的な情報表示を実現している。 ……」
「おっ!『ゲノム照合』が終わったです。ふむふむ、私の情報で間違いないですね。で、ここからは音声認識っと……」
「ペッポッド、起動!」
その瞬間、ブレスから再び機械的なアナウンスが流れた。
『音声データを解析中……
耳に響くその声は、自分だけのパートナーが目を覚ます合図のように思えて――
次の瞬間、目の前のペッポッドがふわりと宙に浮き上がった。
「うぉっ、浮いた……!」
思わず声を上げたものの、すぐに
「くっ……分かってたです。何度も見てたです、ポッドが浮くとこ……」
街で、学校で、実際に見かけてきたあの光景。
知ってはいたけど、いざ自分の目の前で起きると、どうしても感動してしまう――
そんな自分が、ちょっとだけ悔しかった。
そんな彼女の耳に、ブレスからさらにアナウンスが届く。
『最後に、名前の登録を開始します』
「そっ、そうでした! 悔やんでる場合じゃないです、名前、名前……!」
(えーっと……これって、クマ? で、この服……モーニングってことは執事?)
「クマの執事……うーん、執事はバトラー……クマだから……!」
閃いたようにぱっと顔を上げ、
「そうです!『バクマ』です!!」
それはまさに、自分だけの存在に初めて名前を贈る特別な瞬間だった。
……そのネーミングセンスが“残念”だったことに、
すると、
『名前をバクマで登録しますか?』
「はいです!」
『了解しました。機体番号:BNHB-PP-M0003510はバクマで登録しました』
アナウンスが終わると同時に、宙に浮いていたペッポッドの目がゆっくりと開く。
丸みを帯びたその姿は、まるでぬいぐるみのように愛らしく、
その光景に、
(これから一緒に過ごすんです……わたしだけの、パートナーです!)
「……オハヨウ、ゴザイマス」
ぬいぐるみのようなフォルムのペッポッドが、宙をゆっくり漂いながら静かに口を開いた。
「おおっ、しゃべったです!」
「ナナシロ……ミコト、サマ……デスネ?」
「うん、そうだよ。これからよろしくね、バクマ!」
ふわりと
「ヨロシク……オネガイ、シマス」
ぬくもりはないのに、心が満たされていくのを感じた。
「さて、初期設定も終わったし……寝るです。あっ、そうです、バクマっ! スケジュール登録できるですか?」
「すでに ジンダイチュウガッコウ の ネンカン スケジュール トウロク されてマス。コジン スケジュール トウロク しますカ?」
「よろしくです。えーっと、明日は何時までに学校行ったらいいです?」
「アスハ ゴゼン9ジ マデニ トウコウ。ホームルーム オワッタアト、10ジカラ ニュウガクシキ デス」
「そっかぁ。普段の登校時間は?」
「マイニチ ゴゼン8ジ45フン マデニ トウコウ。ホームルーム オワッタアト、9ジカラ 1ジゲンメ ハジマリマス」
バクマは宙を滑るようにゆっくり旋回しながら、
その動きは柔らかく、まるで空気に抱かれているようだった。
「なるほど……じゃあ、毎日の起床を朝六時でお願いです!」
「カシコマリマシタ。キショウ マイニチ ゴゼン6ジ ニ トウロク シマシタ。ホカニ ゴザイマスカ?」
「とりあえず大丈夫……です。後はまた学校が始まってから決めるです」
「リョウカイ です」
「さてと……って、うわっ、すっごい時間!? えーと、バクマ!寝るです!」
「カシコマリマシタ。スリープモード イコウ シマス」
バクマは軽やかに宙を一回転すると、
「……さてと、私も……おやすみです」
布団にもぐりながら、
その胸には、明日から始まる新しい日々と、バクマとの時間への期待が静かに灯っていた。
* * *
「そうだそうだ、バクマです。おはようございます。バクマ!」
すでに目を開き、宙に浮かんで
「おはようございます、
その丁寧で穏やかな口調に、
「あれ? でも、わたしって六時に起きてランニングに行ったです?」
自分の行動に自信が持てず、記憶を探るように問い返す。頭の中がぼんやりしていて、今ひとつ現実感がない。
「はい、確かに六時にご出発なさいました。そして、六時三十分にはお戻りになられ――その後、再びお休みになられたのです」
「……そうだったんだ」
目をぱちぱちと瞬かせながら、
けれど、はっきりしない。胸の奥に、じわりとした違和感が広がっていく。
(えっ? なんで? 六時三十分です? いつもは往復で一時間以上は掛かるです。今日は……かなり早いです?)
思っていた時間の感覚と実際の出来事にずれがある。
その小さな食い違いが、
「ところで、バクマ?」
声をかけると、バクマはふわふわと軽やかに宙を移動し、ぴたりと
「はっ。何かご用でございますか、
「話し方、昨日より――
眉をひそめながら
「さようでございますか? お気のせいではございませんでしょうか」
バクマはとぼけたように静かに答えると、くるりと宙を一回転し、話題をさりげなく変えた。
「それより、
「気のせいです?……はっ! そうです?! とにかく急ぐです!」
そして身なりを整えると、バッグを手に慌ただしく部屋を出ていく。
胸の奥に残った小さな違和感に気づきつつも、それを振り払うようにして。
* * *
このとき
それを彼女が知るのは、まだ遥か先の未来のこと。
無垢な笑顔のその裏で、静かに動き出した運命の歯車。
家族にとっては、かつて経験したことのない扉が開かれる朝。
それはまるで、希望と絶望が交差する、運命の
そして――誰にも止められない、激動の時が、そっと幕を上げた。
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