第5話

「俺には何も見えねえが一体どんな奴だ?」


 源内が誰もいない裏庭を睥睨しながら宗鉄に問いかける。


「そうですね……」


 宗鉄は目を細めると、柿の木の横に佇む黒い物体を注視した。


 黒い物体の背丈は五尺七寸(約百七十センチ)ほど。


 手もなければ足もなく、喜怒哀楽を判別する顔すらもなかった。


 しかも全体的にゆらゆらと振り子のように揺れており、蛸や烏賊のように骨のない身体を思い浮かべてしまう。


 見れば見るほど奇妙な物体である。


 間違いなくこの世の生物ではないだろう。


「幽霊の類でないことは確かなようです。だからといって一言に危険な物ノ怪と断定するのもどうかと。遠目からこちらをじっと見据えているような感じですし」


「俺たちじゃなくてお前さんをだろ?」


 宗鉄から黒い物体の全体像を教えてもらった源内は、ひとまず一服しようとキセルを口に咥えた。


「そういや何て名前だったかな、お前さんのその力……〈元気〉の力だったか?」


「〈元気〉ではありません。〈見鬼〉ですよ」


 源内は「そうだった」と言って上向きにした左掌に握った右拳を叩きつける。


「しかし、物ノ怪が視える異能の力なんざ難儀だろう?」


「どうですかね。特に気にしたことはありません。まあ、周囲から頭のおかしい子供だと馬鹿にされたことはありますけど」


 ははは、と頭を掻きながら笑う宗鉄だったが、このように自分の特異体質についてべらべらと喋ることができるのは気心が知れた源内ただ一人だけだった。


 普通の人間が聞けば頭がおかしい人間だと思われかねないが、稀代の天才と謳われた一方で江戸の奇人と呼ばれていた源内だけは疑わずに信じてくれた。


(だけど、本当にいつだったかな?)


 ふと宗鉄は〈見鬼〉の力に目覚めた頃を思い出す。


 いつからこの物ノ怪などを視認できるようになったかは忘れたが、ふと気づくと普通に視えていたことだけは覚えている。


 天井にヤモリのように張りついていた奇妙な影。


 顔が二つもある猫や犬。


 その他にも往来を歩いていると必ず十人以上の死んだ人間とすれ違う。


 そしてさる高名な呪術師に尋ねてみると、自分の力は彼岸の住人を視認できる〈見鬼〉の才と言うらしい。


 何でも彼岸とは死んだ人間が住むあの世のことであり、仏教では生死を超越した人間だけが行き着く悟りの境地と同義語だという。


 源内は大きく煙草を吸い込むと、庭先に生えている柿の木に向かって紫煙を吐いた。


「どっちにしても厄介な力を授けられたもんだな。異国狂いの鉄砲小僧という異名だけならまだマシだったが、それにもう一つ物ノ怪が見えるとなったらさすがに面子を気にする武家から縁談はこねえわな」


「まあ、こればかりは仕方ないですね」


 何気なく口にした源内の言葉は的確に的を射ていた。


 武家は何よりも面子を重んじるが、それ以上に縁起も担ぐ。


 上方では鰻を捌くときは腹から捌くが、江戸では腹から捌くと「切腹」に通じるからと鰻は背から捌く。


 それもすべては縁起を担いだ結果であった。


 鰹もそうである。初鰹などは庶民に大層人気だったが、その中でも武士はこの鰹を食することを大いに好んだ。


 なぜなら鰹は「勝つ魚」に通じ、削り節は「勝男武士」に通じるからに他ならない。


 それは鮎原家も例外ではなかった。


 宗鉄の父親である鮎原能登守は何十両もはたいて丸々と太った初鰹を毎年何本も購入してくる。


 それ故に武家は縁起が悪いものは好まない。


 大事な日には仏滅を避け、死者が頭を向ける北の方向には枕を向けない。


 また、年越し蕎麦は年が明けると縁起が悪いということから年越し前に必ず食べ切る。


 これらはあくまでも庶民を含める一般的な縁起についてだったが、いつしか武家の間ではこの他にも奇妙な噂が立った。


 普請奉行の三男坊は悪鬼に魅入られた鬼の子だという噂である。


 無論、これには語弊があった。


 宗鉄は以前に〈見鬼〉の力を使ってさる武家に起こった物ノ怪の災いを勝手に調伏したことがあった。


 結果的には被害が収まったものの、実体化した物ノ怪と話し合っている姿をあろうことか中間者に見られてしまい、武家の間では鮎原家の三男は災いを呼ぶ人間だと勘違いされたのである。


 お陰で鮎原家でも宗鉄にだけ縁談の話はこなくなり、いつしか実家では「冷や飯食い」と疎まれる羽目になった。


 その中でも宗鉄を疎まずにいてくれた母親は数年前に他界し、ますます鮎原家には宗鉄の居場所はなくなっていた。


 だからこそ、宗鉄は一度江戸を離れて自分を見つめ直す機会を狙っていた。


 それが今日である。


 宗鉄は黒い物体を食い入るように見つめたが、黒い物体は柿の木の傍から動かない。


 どうやら人畜無害な奴なのだろう。


「黒坊主」


「は?」


 物思いに耽っていた宗鉄の耳にふと源内の声が聞こえた。


「何ですか? その黒坊主とは?」


「ああ、その裏庭に突っ立っている奴は全身真っ黒なんだろ? だったら黒坊主って名前がちょうどいいんじゃねえかと思ってな」


「真っ黒だから黒坊主……ですか。はは、それはいい」


 宗鉄は源内のこういう茶目っ気があるところが何よりも好きだった。


 世間体を何よりも気にする一角の武士ではこうはいかず、森羅万象すべての不可思議を肯定する学者ならではの気骨さが窺い知れる。


 そのとき、再び強い突風が吹いて書斎の中が荒らされた。


「すいません。話し込んでしまいましたね」


 宗鉄は開け放たれていた障子を隙間なく閉めると、突風により荒らされた紙の束を丁寧に拾い集め、長机の上にきちんと揃えて置いた。


「そういや、宗鉄。さっきお前さんは旅路に必要な道具を届けて貰うとか言ってたな。もしかして長崎遊学までここに居座る気か?」


「そのつもりだったのですがご迷惑でしたか?」


「改めて言われると別に迷惑ってわけでもねえ。お前さん以外にも来る奴は来るしな」


 この頃、平賀源内の屋敷には友人であった杉田玄白や中川順庵などの他にも多数の人間が出入りしていた。


 風刺や皮肉な和歌を詠んだ狂歌師の大田南畝や、浮世絵界に新風を巻き起こす錦絵を創始した鈴木春信などを中心にした作家や商人たちである。


 宗鉄は源内の手前に正座すると、袂の中から数枚の小判を取り出した。その小判を畳の上に置き、ずいっと源内に差し出す。


「これは?」


「長崎遊学までの滞在費ですよ。武士がただ飯を食らうわけにはいきません。その他にも何か必要ならば諸経費はすべてわたしが持ちます」


「おいおい、冷や飯食いと疎まれているわりには身振りがいいじゃねえか」


「父上は何よりも世間体を気にする人ですからね。いくら冷や飯食いの三男とはいえそれなりの小遣いはくれるんですよ」


「それは仕方ねえだろ。普請奉行ともなれば世間体は出世と同じくらい気にする事柄だ。悪い噂が立たないように必死なんだろうよ」


「それでも人間の口に戸は立てられないものですよ。それはわたしに縁談が来ないのが何よりの証拠ですしね」


「そんなに卑屈になるな。嫁なんて貰わなくても人間は生きていけらあ」


 源内はふううと紫煙を吐くと、宗鉄に「茶を持ってきてくれ」と頼む。


 本当に中間者のように宗鉄を扱う源内だったが、それでも宗鉄は嫌な顔一つ浮かべずに「では、台所を借ります」と言って颯爽と立ち上がった。


 そして台所に向かうために障子を開けようとしたとき、宗鉄は長机の横に転がっていた鈍色の物体を発見した。


「これは?」


 何気なく宗鉄はその鈍色の物体を手に取った。


 鉄製か真鍮製なのか微妙にざらつき、掌にすっぽりと収まるほど小さく重い。


 それでいて円形の輪郭はずっと握っていても飽きないほど感触がよかった。


 それによく見ると蚯蚓がのた打ち回るような異国の文字が所々に彫られている。


 以前の長崎遊学の際に購入した異国の品だろうか。


「ん? ああ、それか。以前に長崎へ遊学した際に骨董品屋で買ったもんだ。見た目からして異国の品には違いないだろうが、一体何に使う物なのかがさっぱりわからなくてな」


 宗鉄は源内の話を聞きながら鈍色の円盤を無遠慮に指先で突く。


 軽く振動が返ってくるところから、中身は空洞になっているのかもしれない。


「先生、これの中には何が入っているのですか?」


「さあな……っていうかそれ開くのか? 俺や杉田がどんなに力を入れても微塵も開かなかったんだぜ」


「へえ~、そうなんですか」


 と何気なく宗鉄が円盤の輪郭を指先でなぞっていくと、


「痛ッ!」


 宗鉄は指先に鋭い痛みを感じた。


 舌打ちしながら指先を見つめると、真一文字に綺麗な裂傷が出来ていた。


 尖った部分でも見落としたのだろうか、予想以上に傷が深かったのか傷口からはつうと血が流れ始める。


 刹那――。


「うおッ!」


 宗鉄は手に持っていた円盤を投げ捨てた。


 当然である。


 宗鉄の指先から流れ落ちた血が円盤に付着した瞬間、蒸気の如く白煙が漏れ出し、しかもその白煙はあっという間に書斎中に充満していったのだ。


 尋常ではなかった。掌に収まるほどの円盤からこれほどの白煙が溢れ出すなど。


(一体これは何だ?)


 無意識のうちに口元を手で覆い、宗鉄は原因の発端である円盤を睨めつける。


 依然として円盤からは秋刀魚を炙るときに生じる煙のような勢いで白煙が濛々と流れ出ている。


 ひとまずこの煙を何とかしなければ。宗鉄は低い姿勢のまま条件反射的に投げ捨ててしまった円盤の元まで駆けた。


 円盤の元まで駆けつけると、なぜか白煙の流出はぴたりと収まり、書斎の中を覆っていた残りの煙も嘘のように晴れていった。


 熱さや冷たさはもちろん、火事の際に発生する煙のように息苦しさもなかった白煙は一体何だったのだろう。


 宗鉄は奇怪な煙を発生させた円盤をおそるおそる見下ろす。


 念のために足先で軽く突いてみたが、再び白煙を発生することはなかった。


(これは危うい)


 このような奇怪な代物はたとえ異国の品だろうが捨てたほうがいい。


 宗鉄は円盤を慎重に拾い上げ、自分と同じく驚きを隠せなかったであろう源内に向かって身体ごと振り向く。


「源内先生、大丈夫でしたか?」


 その直後、宗鉄の視覚は目の前の光景を鮮明に捉えた。


 天高く構えられた白銀色に輝く日本刀の刀身の姿を――。

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