第6話

 頭上目掛けて日本刀が振り下ろされる寸前、無我夢中で宗鉄は真横に跳躍した。


 そのまま畳の上を二、三度転げ回った末に態勢を整える。


「血迷われましたか、源内先生!」


 宗鉄は数瞬前までいた自分の場所に向かって叫ぶ。


 そこには何と刀を振り下ろしたまま硬直している源内がいた。


 しかもその刀は宗鉄が畳の上に置いていた銘秀正。反りが目立つ切っ先が小さい寛文新刀の業物である。


「源内先生!」


 再度、宗鉄は源内に向かって叫ぶ。


 だが、源内は宗鉄の声が聞こえていないのかうんともすんとも言わない。


 一体どうしたというのだろう。


 先ほどまで血色のよかった源内の肌が今では幽鬼の如く蒼白く染まっている。


(まさか、あの白煙のせいか?)


 今のところそれしか考えられなかった。


 あの白煙が書斎中に充満した際、源内の身体に何かしらの異変を起こさせたのかもしれない。


「げ……うげ……」


 頭の中で色々と思案していると、源内の口から奇怪な声がぽつぽつと漏れ始めた。


「がががあげるききなが……おいがでそんばううかじゃじてごごはつ」


 最早、それは人間の言葉ではなく呪詛と言い換えてもよかった。


 聞いているだけで頭が変になりそうな言葉の羅列である。


「先生……」


 沈んだ声で宗鉄が呟いたのと源内が予備動作もなしに動いたのはほぼ同時だった。


 畳を蹴った源内はその反動で一気に間合いを詰めてくると、手にしていた銘秀正を宗鉄の首筋に向かって横薙ぎに一閃させた。


 源内の放った太刀筋は下手な抜き打ちよりも数段速かったが、宗鉄は冷静に太刀の軌道を読んでこれを回避。


 と同時に源内の両手首をがっちりと摑む。


(失礼します、先生)


 宗鉄は心中で深々と謝罪すると、両手首を摑んだまま源内を投げ飛ばした。


 絶妙な体重移動を利用して投げられた源内は、障子を突き破って裏庭に放り出される。


 源内はよく手入れがされた庭を面白いように転げ回り、やがて書斎から二間(約三・六メートル)以上も離れた場所で静止した。


 仰向けに倒れた源内の近くには、宗鉄が元服祝いに父親から買い与えられた銘秀正が転がっている。


 白目を剥きながら昏倒している源内を視認した宗鉄は、心の師と仰ぐ人物を投げ飛ばしてしまったことを心底後悔した。


 はっきり言ってやり過ぎだった。


 庭にまで投げ飛ばさなくても、肉体を傷つけないようにその場で意識だけを絶つこともできたはずだ。


 これでは何のために武芸を修練しているのかわからない。


「大丈夫ですか!」


 宗鉄はぴくりとも動かない源内に声をかける。


 地面と接触したときに頭部を強く打ちつけてなければよいが。


 そう思った矢先、宗鉄は眉間に皴を寄せて意識を両眼に集中させた。


 視えたのである。


 失神した源内の肉体から汚泥のように抜け出る異形の姿を。


 それは全身が硯のような黒に覆われ、感情を表現する顔もなければ両手足もない。


 そしてゆらゆらと揺れ動くその姿形は不気味の一語に尽き、正式な名前こそ知らないが先ほど源内が面白半分に名前をつけた物ノ怪――。


 黒坊主である。


「貴様、源内先生に憑いていたのか!」


 宗鉄は怒気を孕んだ声を上げたが、黒坊主は泥鰌のように身をくねるのみ。


 まるで人間を小馬鹿にしているようにも見える黒坊主だったが、宗鉄は逆上せずに一つだけ大きな深呼吸をして冷静さを保った。


 もしかすると黒坊主は人語を喋れないのかもしれない。宗鉄はふとそう思った。


 かつて〈見鬼〉により視認できた物ノ怪の中には流暢に人語を操る輩もおり、逆に人語を話せず意思の疎通が行えなかった輩も多く存在していた。


 だからこそ宗鉄は慎重に相手を見定め、何とか意思の疎通を図ろうと努力したこともある。


 だが、人語を喋られない輩ほど非常にタチが悪かったことを宗鉄は如実に覚えている。


 それこそ、問答無用で襲われたことも一度や二度ではない。


(どうする……どうすればいい)


 宗鉄は黒坊主と地面に転がっている愛刀を交互に見る。


 さすがに物ノ怪相手に素手で挑むのは無謀だ。少なくとも刀はないと話にならない。


 黒坊主を意識しながら宗鉄はちらりと視線を落とす。


 腰帯にはもう一本の刀である脇差が差してあったが、こればかりは使えなかった。


 いや、使おうと思えば使えるが黒坊主には通用しないだろう。


 だとすると、残りの手立ては一つ。


 宗鉄はじりじりと摺り足で横に移動した。


 そして件の場所まで到達するや否や、畳の上に置いてあった鉄砲を足の甲に乗せ、真上に向かって一気に蹴り上げる。


 平行を保ったまま空中に浮いた鉄砲。その鉄砲を宗鉄は鮮やかに摑み取った。


「さあ、かかってこい!」


 耳があるかどうかも不明な黒坊主に対して、宗鉄は鉄砲を突きつけながら啖呵を切る。


 銃口を差し向けた宗鉄だったが、黒坊主を撃つつもりは毛頭なかった。


 玉と火薬はもちろん、着火させた火縄すら用意してなければ撃ちたくとも撃てない。


 それに何より黒坊主の身体は玉が通用するような身体ではないと思ったからだ。


 それでも鉄砲を構えたのは、少しでも時間を稼ぐために他ならない。


(せめて銘秀正が手元にあったなら……)


 宗鉄はぎりりと奥歯を軋ませた。


 鉄砲の玉が通用しない物の怪だったとしても、おそらく日本刀ならば通用する。


 大抵の物ノ怪は絶対的に鉄の攻撃に弱かった。


 たとえ身体がどんな状態だったとしても鉄を極限まで鍛錬した器物――日本刀での攻撃ならば通用するに違いない。


 しかし肝心の愛刀は自分よりも黒坊主の近くにあり、どう素早く動いたところでこちらが圧倒的に不利なのは言うまでもなかった。


 だからこそ宗鉄は鉄砲を手にした。


 玉を飛ばさないまでも相手の攻撃を防ぐ役目くらいには使えるだろうと踏んだからだ。


 そしてその間に銘秀正を拾って反撃する。


 この方法しかない。


 そう瞬時に頭を働かせた宗鉄は、どっと腰を落として中腰の姿勢になった。


 書斎から裏庭に跳躍するために少しだけ助走をつける。


「ん?」


 ふと宗鉄は足裏に異様な感触を感じた。


 どうやら何かを踏んでしまったらしい。


「な、何だ!」


 直後、宗鉄は高らかに叫んだ。


 無理もない。


 踏んでいたのは先ほど白煙を発した円盤であり、その円盤が今度はぼんやりと淡い光を放っていたのである。


 宗鉄は物ノ怪と対峙しているにも関わらず、魂を抜かれたような胡乱だ眼差しで蛍火よりも強く百目蝋燭の炎よりも弱い不思議な光に魅入ってしまった。


 その瞬間、黒坊主は好機と察したのか蛇のような俊敏さで宗鉄に襲い掛かった。


 一気に二人の間合いが縮まり、黒坊主が呆然と佇む宗鉄に肉薄する。


 書斎が目も眩むほどの膨大な光に包まれたのはその直後であった。


 特に何かが爆発するような音は発生しなかったが、直視すれば失明しかねないほどの閃光は二十間(約三六メートル)以上も大きく外に伸び、通りにいた行商人や表長屋に住んでいた住民たちを激しく驚愕させた。


 その後、不可思議な光を見た左官職人の一人が源内邸に押しかけると、そこには白目を剥いたまま昏倒している源内と抜き身の真剣だけが空しく転がっていたという。

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