第26話 祐筆

 フレイヤのヨトゥンヘイム滞在中、スリュムはずっと離宮に留まり愛する妃の側を離れなかった。

 オリアスは多忙な為、日中は離宮を訪れる事が出来なかったが、晩餐の時には両親と共に過ごした。

 多忙なオリアスの代わりに、という訳でも無いが、アールヴは多くの時間を離宮で費やし、その天真爛漫な素直さはフレイヤの心を和ませた。


「アールヴはこちらでの暮らしがとても気に入ったようですね」

 ヘルヘイムにいた頃よりずっと快活になり、顔色も良く元気そうな孫の姿に、フレイヤは目を細めた。

「おうさ。最近では弓がだいぶ上達したし、白虎や犬狼たちともじゃれあっとる」

「まあ、虎や狼と……?」

 心配そうに眉を顰めたフレイヤに、安心させるようにスリュムは笑った。

「ベルゲルミルが飼い慣らしておる大人しい奴らじゃ。図体はでかいが、仔猫や仔犬のようなもんじゃ」

「……それならば良いのですが」

 それにしても、と、フレイヤは続ける。

「オリアスはとても忙しくしているようですね。王太子としての公務はあるでしょうが、ここまで多忙にしているとは思いませんでした」

「それは……まあ、まつりごとの殆どをあいつに任せているからな。儂には、戦以外の事は判らん」

「それにしても、オリアスを補佐する文官がいるのではありませんか?」


 フレイヤの言葉に、スリュムは幾分か困惑気な表情を見せた。

 大きな手で顎鬚をなで、それから口を開く。


「……ヨトゥンヘイムは元々、豪族領の集まりに過ぎなかった。じゃから今のような大国の政を行えるような文官は、そう多くない。と言うより、殆どおらなかった。それでアルヴァルディが教育制度を制定したりして、文官の候補を育てていったんじゃ」

「それではオリアスの補佐をするどころか、オリアスがその者たちを啓蒙しなければならなかったと仰るのですか?」

「無論、アルヴァルディが直接教師役をやった訳じゃないし、ヴィトルや他の側近がかなり役に立っていた筈ではあるが、しかしまあ……アルヴァルディにそれなりに負担がかかったのは確かじゃな」


 弁解するように言ったスリュムに、フレイヤは微かに表情を曇らせる。

 そして宝石のように美しい深い蒼の瞳を窓外に向け、暫くそのまま視線を宙に漂わせていた。


「……では、オリアスの負担を軽くする為にも、ヘルヘイムから幾人か文官を遣わしてはどうでしょうか」

「ヘルヘイムからじゃと?」

 鸚鵡返しに、スリュムは訊き返した。

「ヨトゥンヘイムとヘルヘイムでは風習や価値観が大きく異なる。じゃからアルヴァルディは、数十年、数百年をかけてじっくり文官どもを育て、少しずつその権限を広げて行ったんじゃ。さも無ければ将軍たちから大きな反発を買う」

「それではせめて、祐筆など補助的な役割を果たす文官を遣わすのはいかがでしょう? ヨトゥンヘイムで新規に任官される文官たちの助けにもなるでしょうし」

「その程度ならば、まあ……」


 曖昧に、スリュムは語尾を濁した。

 本心を言えば、軟弱なヘルヘイムの文官をヨトゥンヘイムの政治に係わらせるのは気が進まない。

 が、内政外交問わず政治面でオリアスに頼りすぎているのは事実だし、息子の負担を僅かでも減らしたいと願う母の気持ちを無碍にはできない。


「……判った。後でアルヴァルディと相談して、ヘルヘイムからの文官受入を進めさせる」

 渋々、言ったスリュムに、フレイヤはおっとりと微笑んだ。



 フレイヤは予定されていた十日を超えて半月ほどヨトゥンヘイムに留まり、それからヘルヘイムに戻って行った。

 帰国後、フレイヤはオリアスを補佐する為の文官をヨトゥンヘイムに送る事を考えていると、アグレウスに話した。

「それは良いお考えです」

 そう、アグレウスは言った。

「むしろ、もっと早くにそうすべきでした」

「まだ正式に決まったという訳では無いのですが、いずれ連絡が来ることでしょう。それまでに相応しい人材を選んでおいて下さい」

 文官とは言っても祐筆などのような補佐的な役割を担う者を遣わす予定なのだと説明してから、フレイヤは言った。

「仰せのままに」

 言って、アグレウスは優雅に一礼した。



 自室に戻ったアグレウスは、暫く思案した後にアロケルを呼んだ。

 アロケルはアグレウスの子息の一人ではあるが、親王の宣下の無かった公子の身分なので、王子の称号で呼ばれる事は無い。

 生母は第一王子ザガムの母の侍女だった女で、ザガムの母がアグレウスの寵を得るために自らの侍女から特に美しい女を選んで側室として差し出したうちの一人だった。

 そういった背景がある為、アロケルはザガムの近習として仕えている。


「お召しでございましょうか」

 父の私室に呼ばれるのは初めてであるアロケルは、突然の呼び出しに不安そうな表情をしていた。

 美しい母親に似て色が白く肌は滑らかで瞳は明るい蒼、癖の無い金色の髪を腰のあたりで切りそろえた小柄な姿は少女と見まごうばかりだ。

「そなたに重要な役目を申し渡す」

 無表情のまま言ったアグレウスに、アロケルは緊張が高まるのを覚えた。

「オリアスを補佐する為、祐筆としてヨトゥンヘイムに赴くのだ」

「祐筆……で、ございますか?」

 鸚鵡返しに、アロケルは訊いた。

 祐筆は文書の代筆を職務とする下級文官であり、その地位は決して高くない。

「不服か?」

「い……いえ、決してそのような事は……」


 アロケルは慌てて否定したが、内心では不服というより、むしろ強い不安を感じていた。

 暫く前に第四王子のフォルカスが伯爵家の婿養子として皇宮を離れた事は、廷臣たちには事実上の追放と看做されている。

 宮中にフォルカスと妹グレモリーに関する不穏な噂が流れた為に、親王の位を剥奪して皇宮から放逐したのだと彼らは考えていた。

 そんな事があったばかりなので、突然、ヨトゥンヘイム赴任を命じられたアロケルは、何らかの理由で自分もアグレウスの不興を買い、追放されるのではないかと危惧したのだ。


「これはとても重要な役目だ」

 もう一度、念を押すように言って、アグレウスはアロケルに歩み寄った。

「祐筆であれば、公文書に触れる機会が多くなる。ヨトゥンヘイムの内政や外交について、詳しく知る事も可能だろう」

 そなたの役目は、と、アグレウスは続けた。

「ヨトゥンヘイムのまつりごとと王宮の内情に関して、知りえた事全てを私に知らせる事だ」

「全て……で、ございますか?」

 アロケルの問いに、アグレウスは冷ややかに頷く。

「知らせるのは私にだけだ。ザガムを含め、他の者に他言してはならぬ」

「……お言葉ではございますが、私は兄上の近習――」

「その任は、解く」

 短く、そして確固たる口調でアグレウスは言った。

「そなたの母がザガムの母の侍女であったが故に、そなたはザガムの臣下であるように看做されてきた。だがそなたがこの役目を無事に果たすのであれば、その立場もおのずと変わるだろう」

 その意味が判るな? と、アグレウス。


 アロケルは、ごくりと唾を飲んだ。

 ザガムの母がアロケルの母を側室として差し出したのは、あくまで彼女がアグレウスの寵を得る為である。

 従って、アロケルの母がザガムの母以上にアグレウスから寵愛を受ける事など許されない。

 それゆえザガムの母は、常にアロケルの母を牽制し、自分を裏切らないよう厳しく見張っていた。

 母親が王族出身ではない為、親王の宣下が得られる希望の持てないアロケルは、最初から異母兄ザガムの臣下のようにあしらわれ、成人後には実際に近習として仕えている。

 そしてそれは生まれながらに定められた運命であり、変えることなど出来ないのだと諦めていた。


 それが今、変わろうとしているのだ。


 だがそれは果たして許されることなのか?

 ――その疑問が、アロケルの心中に沸いた。

 異母兄や母の元の主人を裏切るだけでなく、ヨトゥンヘイムの内情を探るとなると、叔父であるオリアスや、祖父スリュムへの背信行為では無いのか……?


「不安に感じる必要は無い」

 アロケルの内心を見透かしたように、アグレウスは言った。

「ヨトゥンヘイムはヘルヘイムの同盟国、連合王国だ。だが両国の間の情報連携は、価値観の相違のせいで余り行われてはおらぬ。本来であれば、もっと交流があってしかるべきだ」

 そなたの役目は、と、アグレウスは続ける。

「その魁となることであって、決して間諜の真似事をする訳では無い」


 間諜という言葉に、アロケルの指先がぴくりと震える。

 アグレウスはアロケルの顎に触れ、俯いていた顔を上げさせた。

 そして、氷のように冷たい蒼の瞳で、まっすぐに相手を見据える。


「そなたの役割は、オリアスを補佐し、ヨトゥンヘイムとヘルヘイムの交流に貢献する事だ。そしてその成果次第では、そなたの身分について再考しよう」

 良いな? 半ば囁くように、低くアグレウスは言った。

「御意のままに……」

 喉元を締め付けられるように感じながら、アロケルは言った。

 そう、答えるのが精一杯だった。



 ヘルヘイムのとある宿屋。

 その日、非番であったスルトは、数週間前に知り合った女と部屋にいた。

「お妃候補って、さぞかし綺麗な人なんでしょうね」

 拗ねた口調で言う相手に、スルトは苦笑した。

「何だよ、妬いてんのか?」

「だってあんたって人は、あたしと一緒にいる時にもいっつも他の女の人の話ばっかりして」

「いつもは言い過ぎだ。最近、ヘルヘイムからフレイヤ様一行が静養に来てたから――」

「ご一行はもう帰ったのに、いつまでもヘルヘイムの美人の話ばかりするのはどういう事よ?」

 スルトの言葉を途中で遮って、女は不満げに言う。

 スルトはもう一度、苦笑した。

「心配しなくても、俺なんかには到底、手の届かない女達だ。ただちょっと、目の保養をしたまでだ」

「あたしじゃ目の保養にならなくて、悪うございましたね」

 つん、と顔を背けた相手を、スルトは背後から抱きしめる。

「そんな拗ねた振りして、また櫛でも買って欲しいのか?」

「……櫛より何より、そこはお世辞でも否定するのが礼儀ってもんでしょうが」


 絡められた腕を振り払って言った女に、スルトは軽く肩を竦めた。

 それから、改めてまっすぐに相手の鳶色の瞳を見つめる。


「俺が欲しいのは目の保養になるような女なんかじゃ無い。跳ねっ返りって位に元気が良くて、ピチピチと活きが良くて、一晩中、抱いてても飽きないような女だ」

 スルトの言葉に、女は微かに頬を赤らめた。

「……つまり、あたしみたいな女って事?」

「そうだ。お前みたいな女って事だ」

 その言葉を聞いて、女は機嫌を直したようにニッと笑う。

「それで、そのお妃候補って、どんな人なの?」

「まだ続けるのかよ」

「焼きもちで言ってるんじゃないよ。ただの好奇心」

 邪気のない笑顔を浮かべて、女は言った。

「遠くから見ただけだからな。金髪の美人て事しか判らん。もう一人は確か黒髪だったが、それ以上は知らん」

「二人いるって事?」

 そうらしいと、スルトは頷いた。

「何でもその二人が、家柄と年齢の点で最有力候補だとか何とか」

「へえ……。何て名前?」

「名前なんぞ知るか。ヒルドなら知ってるかも知れんが――」

「またそうやって、他の女の人の話をする」

 再び不機嫌そうに頬を膨らませた女を、スルトは抱き寄せた。

「じゃあもう、今日のおしゃべりは終わりだ」

 女は一旦、つんと顔を背けたが、すぐにスルトに視線を戻し、そして嫣然と笑った。

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