第16話

 シモンは軽快な足取りで街の大通りを歩いていた。


 時刻は夕方の五時を過ぎていたが、空は山吹色に支配されて未だ明るい。季節も季節だけに暗くなるのはもう少し時間が経ってからである。


 人気も朝や昼よりもかなり多く、オークション市の二日目ということもあり熱気と活気に満ち溢れていた。


 シモンはそんな雰囲気が何よりも嫌いだった。特に仲のよい家族を見たときなど、どうしようもない孤独感と嫌悪感に襲われるのである。


 だが今日は違う。そんな人間たちを見ても一向に気にならない。気にする必要がないのである。


 帰路を急ぐ途中、顔見知りの人間に声をかけられたりしたが、シモンは軽く会釈をして足早に立ち去っていく。


 今日の診察先はすべて滞りなく回った。後は自宅へと帰るだけであった。


 その道中、シモンの心はいつになく高揚していた。理由はシモンの右手にあった。シモンの右手はずっと白衣のポケットに突っ込まれており何かを握っていた。


 石である。最初の診察先であったイエラの自宅で入手した不思議な石。その石を直に手に取ってみて確信した。


 この石こそ長年自分が求め続けていた〈マナの欠片〉だと。


 シモンは大通りを抜けて細長い路地へと入った。その先にある墓地の横を通り過ぎ、自宅へと辿り着く。


 いつもと同じ時間だけ診察をしてきたというのに、やけに一日が長く感じられた。それだけ早く石の力を試してみたいと、自分が焦っている証拠だとシモンは思った。


 玄関を抜けると、シモンは鞄を放り投げて一目散に寝室へと向かった。


 寝室に入るなりシモンは本棚に偽装された仕掛けを作動させた。そうすれば、ベッドの下に隠された地下への扉が開かれる。


 シモンはベッドをずらすと、地下へと続く階段の扉を開けた。薄暗い闇と湿った空気が肌を触っていくが、そんなものは一向に気にならない。


 薄暗い階段を降りて地下の研究室へとシモンは足を踏み入れた。他のものには目もくれず、部屋の中央に置かれたガラスケースと歩み寄っていく。


 ガラスケースには少女の死体が冷凍保存されていた。三年前に病に冒され、二度と目を開けなくなった最愛の娘カサンドラ。


 シモンはガラスケースに両手を貼り付け、中の様子を覗き込んだ。


 ガラスケースの中には、生まれたままの姿で保管されているカサンドラが寝かされていた。肌全体は冷気のせいで青白かったが、こうでもしておかないとたちまち人体の腐食化が進んでしまう。そんなことになれば生き返るものも生き返らなくなってしまう。それだけは避けなくてはならなかった。


「カサンドラ……私のかわいいカサンドラ……長かった、本当に長かった。この三年間、お前のことを忘れたことなど片時もなかった。一時は現代医学に絶望を感じ、自ら命を絶つことも考えたこともあった……だが、今考えれば思いとどまって正解だったよ」


 シモンは白衣のポケットから〈マナの欠片〉を取り出した。人体の体温のような熱を感じる神秘の石。それが今、自分の右手に握られている。


「私自身が死んでも何の解決にはならない。そんなことをすれば、誰がお前を生き返らせるというのだ」


 シモンはガラスケースに取り付けられていたボタンを操作した。


 ゆっくりとガラスケースが開かれていく。中からは身も凍るような冷気が噴出しシモンの下半身に流れてきたが、今のシモンには何の気にもならない。


 ガラスケースが開かれると、シモンは震える手でカサンドラの顔を優しく触った。体温など感じない。感じられるはずはない。しかし、それは今だけだ。


 シモンは手にしていた〈マナの欠片〉をカサンドラの心臓の位置に乗せると、ズボンのポケットから何かを取り出した。


 それは銀の十字架に翼が生えた蛇が巻きついている異様なアクセサリーであった。


 まるで邪教のシンボルのように禍々しい雰囲気が放出されていたが、そんなことは関係ない。娘を生き返らせる力があるのならば、それが悪魔でもかまわない。


 シモンは両手でしっかりとアクセサリーを握り締めると、何やら小声で呪文を唱え始めた。その言葉の意味はシモン自身さえわからない。ただ、結社の力を信じるならば成功するはずである。


 シモンは頭の中で娘が生き返った光景を思い浮かべながら、一心不乱に呪文を唱え続けた。


 やがて、カサンドラの身体に乗せられていた〈マナの欠片〉に変化が見られた。


〈マナの欠片〉は膨張と伸縮を繰り返し、まるで心臓の鼓動のように脈を打ち始めたのである。


 ドクン、ドクンと、それはカサンドラの心臓を直に見ているような光景であった。


 もう少し、もう少しだ。シモンは全身を震わせながら呪文を唱え続けると、ついにそのときが訪れた。


「おお……」


 シモンは呪文を唱え終えると、カサンドラの身体を見て感嘆の息を漏らした。


 カサンドラの身体には無数の脈が浮き出ており、その脈はすべて〈マナの欠片〉に繋がっていた。カサンドラの全身に赤い亀裂が走っているようにも見える。


「これで、これでカサンドラは再びこの世に生を受ける」


 シモンは手にしていたアクセサリーの先端を摑むと、おもむろに抜き放った。


 十字架には刃が仕込まれていた。全長十センチほどの小さな仕込み刃だったが、これくらいの長さで充分であった。

 シモンはカサンドラの顔を見下ろして覚悟を決めると、持っていたアクセサリーの刃で自分の右目を一気に貫いた。


「ぐおおおおおお――――ッ」


 シモンの絶叫が部屋中に響き渡った。だがシモンは右目を貫いただけではなかった。あろうことか、そのまま右目を抉り抜いたのである。


「う……ぐおお……うう」


 必死に痛みを堪えながらシモンは抉り抜いた右目を手に取った。生暖かい熱とぬるりとする感触に身を震わせながらも、シモンは何とか意識を保っていた。それもすべてはカサンドラのため。


「はあ、はあ、ああ、カサンドラ、カサンドラ……」


 シモンは右目から真っ赤な血と真っ白いガラス体を垂れ流しながら、手の掌に乗せていた自分の崩れかかった眼球を〈マナの欠片〉の上に落とした。


 ビチャッとした音ともに〈マナの欠片〉の上に落ちた眼球は、まるで〈マナの欠片〉と融合するように解けていった。


 その光景を見て、シモンは頬を吊り上げて笑った。


 これでようやくすべての作業が終わった。後はカサンドラが再び目を開けてくれるように祈るだけである。


 そう思いながら、シモンの意識は深い闇の中へと落ちていった。

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