第13話

 装丁は古く、ずっしりと持つ手に感じる本の重さ。


 それは単に項が多いというのではなく、この本を手に入れてきた持ち主と著者の人生が垣間見えるような〝歴史の重さ〟だとイエラは直感した。


 正直、本を持つ手は震え、ごくり、と大きな唾を飲み込む音が自分の耳に届いた。


 やっぱり返そう。イエラは本から目の前にいた老人に顔を戻すと、不思議なことに老人の姿は影も形もなかった。ほんの数十秒意識を向けていなかっただけで、老人は泡のように消えてしまったのである。


 イエラは周囲を一望した。


 イエラがいた場所は裏通りでも細い路地の奥ばった場所であったため、人の賑わいがある大通りに抜けるまではまだ結構な距離があった。


 それでも老人の姿はどこにも見当たらない。急いで大通りに出てみたが、老人が着ていた不思議な格好をしている人間の姿はなかった。


 文字通り消えたのである。自分の目の前から。


 あの不思議な体験は今でも忘れられない。


 イエラはう~んと唸ると、


「誰だったんだろう? あの人」


 とポツリと漏らした後に、玄関のチャイムが鳴った。


 サブリナはチャイムを押した人物に心当たりがあったのか、「来てくださったわ」と顔を玄関のほうに向けた。


「イエラ、シモン先生が午後の診察に来てくださったと思うの。お願いだから先生を迎えにいってくれない」


「うん、いいよ」


 イエラは席から立ち上がると、リビングを出て玄関のほうに向かった。


 鍵を外して玄関の扉を開けると、夏だというのに長袖の白衣を着ていたシモンが扉の前に鞄を片手に立っていた。


「こんにちは、シモン先生」


「こんにちは」


 とすぐに挨拶を返してくれるが、シモンの表情はいつものようにあまり変化がない。母親の診察に訪れてくるようになって一年以上が経つが、イエラはこのシモンの笑顔をまだ一度も見たことがなかった。そのせいか、喜怒哀楽のすべての感情が欠如しているように思ってしまう。


「どうぞ、上がってください」


 イエラが家の中に招き入れると、シモンは頭を下げながら入ってくる。きちんと靴を並べるところなどを見ると、さすがは大人だと感心してしまう。


 イエラがシモンを連れてリビングに戻ってくると、サブリナは昼食をすべて残さず食べていた。


「サブリナさん。どうですか、具合のほうは」


 ナプキンで口を拭っていたサブリナにシモンは声をかけた。サブリナはニコリと笑みを浮かべて頭を上げる。


「こんちには、シモン先生。今日は何だか体調が良いようなんです」


「それはよかった。見たところ食事もきちんと取れているようですね……」


 そう言いながらシモンはテーブルに並べてあった空の食器を眺めると、ある一点で視線が止まった。鳩が豆鉄砲どころか本物の銃弾で撃たれたように大きく目を見開いている。


「どうしました?」


 サブリナが急に様子を一変させたシモンに話しかけるが、シモンは返事もせずに固まっていた。


「どうしたの、シモン先生? 先生も具合が悪いの?」


 などとイエラが横から話しかけると、ようやくシモンの身体に変化が見られた。幽鬼のような表情でよろよろとテーブルに歩いていく。


 シモンはテーブルの上に置かれていた不思議な石を手に取った。


「……〈マナの欠片〉」


「え?」


 あまりにも小さな声だったのでイエラはよく聞き取れなかったが、シモンは何とかの欠片とつぶやいたのだと思う。


「先生?」


「え? い、いや、これは失敬。で、何でしたかな」


 サブリナの声に見るからに動揺したシモンは、先ほどとは別人になっていた。


 氷のように冷たい印象があったシモンだったが、今では額に玉のような汗を浮かべ、荒い鼻息で呼吸をしている。何を興奮しているのだろうか。


「あの……これはどこで?」


 シモンは不思議な石を持つ手を震わせながら、サブリナに問いかけた。声すらも裏返っていた。


「ああ、その石ですか。これはイエラが森の中で見つけてきたとか」


 シモンはすぐにイエラに顔を向けた。それは本当なのかと目で訴えかけてくるような顔つきをしている。


 イエラは表情も態度も一変したシモンにやや不気味さを感じながら、恐る恐る首を縦に振った。


「そうか……森……まさか……そんな身近に……」


 何やらうわ言のようにシモンがつぶやいていると、石を持つ手と反対側の手を白衣のポケットに突っ込んだ。


「イエラ、頼みがある。この石を私に譲ってはくれないか? いや、譲ってくれとはおこがましいな、よければ売ってくれないか」


 シモンは白衣のポケットから何枚かの紙幣を取り出した。その金額はイエラが父親から貰う一年分の小遣いの金額を遥かに超えていた。


「ちょっ、ちょっとシモン先生」


 イエラは執拗に紙幣を押し付けてくるシモンに手を振って拒否するが、シモンは売ってくれの一点張りであった。


 あまりのシモンの強引さに驚き、イエラはついに折れてしまった。


「わかった、わかりました。どうぞ持っていってください」


「ほ、本当かい?」


 このときのシモンはとてもいい笑顔をしていた。


 イエラは何故シモンがこの石にそんなに固執するのか気になったが、元々拾ってきた物である。手放したところでどうということはない。


 シモンは一通り石を見つめると、大事そうに自前のハンカチに包みながらポケットに仕舞い込んだ。


「ではサブリナさん。寝室で診察を致しましょう」


 シモンはサブリナを立ち上がらせると、何と手を取って寝室まで付き添っていった。普段のシモンからは考えられない行動である。


 二人が寝室に入っていくと、リビングにはイエラ一人だけが取り残された。


「どうしちゃったんだろう。あんな先生初めて見るよ」


 実際、シモンはどうしたのかとイエラは不安になった。


 あの不思議な石で人格が変貌したのか、それともあれがシモンの素の顔なのか、それはイエラにもわからない。


 ただ、何か胸中を騒がす不安感が走ったのは間違いなかった。


「う~ん、とりあえず」


 イエラはテーブルの上に並べてある食器を片付けることにした。


 母親が綺麗に料理を食べてくれたのは嬉しかったが、さすがにこれはどうしたものかイエラはため息をついた。


 テーブルの上には空になった食器の他に、シモンが置いていった数枚の紙幣が綺麗に折り畳まれていた。

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