第7話
黒光りする拳銃の銃口は間違いなくシュミテッドに合わされている。だが微妙に揺れているのは軍人たちが酒に酔っているせいであろう。
シュミテッドは考えた。自分は何も悪いことはしていないはずだ。それに、酒に酔っている軍人たちが放つ弾丸はどこに飛んでいくかもわからない。
シュミテッドはどうにかしてこの状況を治める思案をしていると、隣にいたリンゼがあっさりと言い放った。
「思う通りに行動すればよろしいのではないでしょうか」
シュミテッドはリンゼの顔を見つめた。
こいつに嘘はつけないな。などとシュミテッドは思いながら、とりあえずリンゼが握っていたペンだけは奪い取っておいた。
「きさまら、いいから早く手を上げろ! さもないと発砲するぞ!」
片手に拳銃を握っている熊顔の男が一歩前に出た。猿顔の男と狐顔の男は、熊顔の男を援護するかのように左右に広がる。
シュミテッドは長い息を吐くと、首を左右に回して辺りを一望した。何かを探しているような目つきをして。
やがてシュミテッドの目が一点に定まると、すたすたと軽い足取りで目的の場所まで歩いていく。
「おばちゃん、おばちゃん。このリンゴ一個もらうよ」
シュミテッドは宝石露店の隣に店を構えていた果物露店の前で足を止めた。陳列されていた果物の中からリンゴを一つ手に取る。
店の主人らしき中年の女性はただただうなずいている。持っていっていいらしい。
「あんがとさん」
シュミテッドは手に入れたリンゴをころころと手の平で遊ばせながら、軍人たちに笑顔を向けて歩を進めていく。その歩き方からでもよくわかる。シュミテッドは拳銃で狙われていることなどまったく意に介していない。
「て、てめえ、止まれって言う言葉が理解できねえのか!」
熊顔の男は堂々と向かってくるシュミテッドに少なからず恐怖を感じた。
三つの銃口に狙われているというのに、シュミテッドは欠伸などをして余裕の態度をしているのだ。こいつは馬鹿か危険人物のどちらかだ。本能的に熊顔の男はそう思った。
熊顔の男は引き金に掛かっている指に力を入れた。銃口はシュミテッドの太股の位置に狙いを定めている。
そしてまさに銃口から轟音とともに鉄の塊が発射される刹那、シュミテッドは手に持っていたリンゴを天高く宙空に放り投げた。
青空に吸い込まれるように飛距離が伸びていく真っ赤なリンゴ。その場にいた全員がリンゴに釘付けになった。もちろん、拳銃を構えていた軍人たちもである。
リンゴが宙に留まっていた時間はおよそ五秒。それは、シュミテッドには十分な時間であった。
不意にシュミテッドの姿がその場から消えた。
しかし実際には消えたと思うほどの速さで軍人たちに近づいたシュミテッドは、まず一歩前に出ていた熊顔の男に狙いを定めた。
シュミテッドはリンゴに気を取られていた熊顔の男の拳銃を左手で抑えると、すかさず振り絞った右拳を鳩尾に叩き込んだ。
深々と肉の奥を抉る異様な音が響くと、熊顔の男は口から大量の唾液を吐き出しながら白目を剥いて昏倒した。
だがシュミテッドの動きは止まらない。
シュミテッドの動向に気づいた猿顔の男は拳銃をシュミテッドに向けたが、銃口から弾丸が発射されることはなかった。
猿顔の男はシュミテッドがいつの間にか放った回し蹴りをまともに顔面に食らい、一発で意識を喪失したからだ。
これで二人は戦闘不能に陥った。となれば最後は狐顔の男である。三人の軍人の中で、唯一、大人しそうな雰囲気をしていたが、こういう人間ほど実は一番の実力者であることが多い。
シュミテッドは猿顔の男を即戦闘不能にすると、やや距離が離れている狐顔の男に鋭い視線を突きつけた。
一発もらう覚悟で突進するか。シュミテッドは瞬時に頭の中で幾通りも戦闘シミュレーションを立てたが、それらは見事に無為に終わった。
「あん?」
シュミテッドの直線状にいた狐顔の男は、指に拳銃を引っ掛けながら両手を上げてバンザイをしていた。降参の合図である。
結局、狐顔の男は雰囲気通りの男であった。
目の前で熊顔と猿顔の同僚があっけなく倒される惨劇を目撃して、一気に酔いが醒めたのだろう。身体をガタガタと震わせながら苦笑いを浮かべている。
シュミテッドは降伏を身体全体で表現している狐顔の男に一瞬で近づいた。
「う~ん、降参している相手にどうかと思うけど、増援を呼ばれると後々面倒なことになりそうなので……すまんな」
シュミテッドは申し訳なさそうな頭をすると、間髪を入れずに手刀を狐顔の延髄部分に叩き込んだ。狐顔の男は糸が切れた人形のように膝から崩れ落ちて失神した。
シュミテッドは三人の軍人が足元に倒れている光景を確認すると、おもむろに右手の掌を上向きに構えた。
すると、計ったように宙空のリンゴが手の掌に落ちてきた。
「ふっ、決まった」
一瞬の静寂の後、周囲からは拍手喝采が鳴り響いた。
普段大きな顔で街中にのさばっている駐留軍のゴロツキを一蹴した英雄に、野次馬たちは黄色い声援を送り始めたのである。
「いやー、やるねアンタ」
果物露店の女主人は拍手をしながらシュミテッドに声をかけた。その顔は憑き物が落ちたように晴れ晴れとしていた。
「こっちこそ助かったよ。リンゴも食う以外に使い道があるもんだ」
シュミテッドは手にしたリンゴを店の陳列棚にそっと戻した。真っ赤に熟れたリンゴには傷一つついていない。
「でもアンタ、急いでこの場から逃げたほうがいいよ。あいつらはそれこそゴキブリのようにうじゃうじゃいるからね。あっという間に噂を嗅ぎつけて集まってくるよ」
女主人はシュミテッドに耳打ちするようにそっと囁いた。この街で老舗と呼ばれる店の人間たちは、嫌というほど駐留軍の人間の特性を知っている。
だがシュミテッドは手を振って余裕の笑みを女主人に返した。
「だからといってすぐに来るわけじゃないだろう。まあ頃合いを見てゆっくり逃げるさ。なあ、リンゼ」
シュミテッドは果物露店に隣接している宝石露店に顔を向けた。だが、連れ添いのメイドの姿はどこにもなかった。てっきり自分が軍人たちを大人しくさせている間、絶好の機会とばかりに商品の値札に名前を書き連ねていると思ったのだが。
「ちょいとアンタ」
宝石露店に顔を向けていたシュミテッドに女主人が話しかけてきた。何やら女主人はシュミテッドの後方に人差し指を向けている。
「あれ、アンタの連れかい?」
シュミテッドは恐ろしく嫌な予感がした。何故か自分の後方から数十人分の殺気がじわじわと背中に突き刺さってきたのである。
それに女主人の意味深な言葉。おそらく、間違いないだろう。
シュミテッドは嫌々振り返った。
「治安妨害罪に傷害罪。他に何か余罪を付け加えて欲しいか?」
女主人の言うとおりであった。この街の治安を守る軍人たちはゴキブリである。どこにでも姿を消し、どこからでも現れる。
シュミテッドの目線の先には、ざっと見渡しただけでも十人以上の軍人がこちらに銃口を向けていた。その軍人たちの一人に、シュミテッドほどではないが背の高いやや頬が痩せこけている中年の軍人がいた。
一切の着衣の乱れがない服装を見る限りでは、とても融通が利きそうにない昔気質の軍人だと見て取れた。だがシュミテッドはそれ以上に気になったことがあった。
自分に銃を構えている軍人たちの中で一番階級が高そうなその中年の軍人は、何故かメイド姿の女を捕まえていたのである。どう見ても軍人たちの関係者には見えなかった。
「何そんなに律儀に捕まってんだ、リンゼさんよ」
シュミテッドは自分の関係者であるリンゼに呆れた視線を送りつけると、リンゼは相変わらず無表情な視線を送り返してきた。
「すいません、シュミテッド。至極当然のように拿捕されてしまいました」
リンゼは特に抵抗もせずに大人しく捕まっている。
「シュミテッドも大人しく拿捕されたほうがよいでしょう。もはや言い訳は皆無です」
などと言っているが、リンゼの言葉の節々にはどこかシュミテッドに対して静かな怒りが込められている気がした。
「この野郎。まさか俺に対してのあてつけか」
シュミテッドは直感した。このメイドは唯一の趣味である商品の乱れ買いを戒められたことに腹を立てていたのだと。
そしてすぐさま報復の機会を狙っていたのだと。
とはいえ、こんな具合に怒りを返してくるとはシュミテッドにも予想外であった。
「少しは時と場所を考えろ! お前まで捕まってるじゃねえか!」
「すべては神の御心のままに」
もはや取り付く島もなかった。リンゼの口から〝神〟などという単語が出てしまってはすでに手遅れである。
「観念したか?」
中年の軍人は最大限に譲歩してくれたのか、シュミテッドに自分の運命を決定する時間を与えていた。
大人しく投降するか、蜂の巣になるかの二者択一をである。
しかし、そんなものは最初から決まっている。
シュミテッドは軍人たちを睥睨すると、左右の足を均等に開き、固めていた拳をゆっくりと開いた。
軍人たちは緊張しながらも手にしていた銃の引き金に指をかける。
軍人たちとシュミテッドの周囲には張り詰めた空気が充満していた。ピリピリと素肌を極細の針で突いてくるような緊迫した空間。思わず周囲にいた野次馬たちも喉に溜まった唾を胃の奥に飲み込んだ。
そして、シュミテッドが動いた。
「なにっ!」
中年の軍人は驚愕の顔をしながら叫んだ。扇状にシュミテッドを取り囲んでいた軍人たちも、目の前の光景に大きく目を見開いた。
そこには、ロングコートを羽織った大男が情けなく土下座をしている姿があった。
「ナイス土下座です、シュミテッド」
周囲があっけにとられている中、軍人に捕まっていたリンゼが親指を立てる。
結局、罪状――治安妨害罪および傷害罪で、シュミテッドとリンゼは周囲の野次馬に見送られながら逮捕された。
ミゼオン名物オークション市の二日目、早朝九時十四分の出来事であった。
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