第8話
高い山岳が連なる山並みの獣道を、イエラは木の籠をぶら下げながら歩いていた。
軽快に口笛を吹きながら沢沿いの小道に躍り出ると、目の前には清流があった。
上空から照りつける真夏の日差しも、目の前の清流を眺めていると心なしか涼しげな気分になってくる。
「今日もいい天気」
イエラは両手を羽のように大きく開いて深呼吸をした。肺一杯に流れ込んでくる清浄な森の空気は、心身ともに安らぎを与えてくれる何よりの自然からの贈り物だ。
「さて、頑張りますか」
心身ともに活を入れたイエラは、地面を食い入るように見つめながら目的の薬草や山菜を摘んでいく。
この辺りは薬の材料にもなる貴重な植物の宝庫であった。
人の手もあまり入っていないこともあり、素人は注意しなければ毒草を摘んでしまうことにもなりかねないが、イエラはそんなヘマはしない。
母親が病気になったキッカケに、イエラは早朝になると身体に良いとされる薬草や山菜を摘んでくるという仕事ができた。
もちろん強制ではない。早く母親に元気な身体に戻って欲しいという純粋な子供心からである。
イエラは熟練した目利きで薬草や山菜を見つけては籠の中に放り込んでいく。
その動きにはまったく無駄がなく、見ただけで薬草か毒草かを見分けているようであった。
とりあえず籠の中身が少し満たされると、イエラはすぐに別の場所へと移動する。
一箇所だけで摘んでいてはどうしても種類が乏しくなってしまうし、他の場所でもっと良質な薬草や山菜が摘めるかもしれない。
山菜取りを始めてからまだ二年しか経っていないが、元々直観力に恵まれていたイエラは、数あるうちの一つから本物を見分ける能力を自然に獲得していた。
そのお陰かイエラは誰にも教わっていないのにもかかわらず、いつの間にか山菜取りの名人になっていた。たまに余った薬草や山菜を近所の食材店に売ることもある。
「どうしようかな」
顎の先端をさすりながら、イエラは周囲をぐるりと見渡した。
今日は思いのほか気分が好調していた。籠の中に入っている薬草や山菜も青々と育っており申し分ない形をしている。これだけでも食材店に持っていけば定価の倍の値段で売れるだろう。
だがイエラの目的は薬草や山菜を売ることではない。
母親に品質の良い山菜や薬草を使った手料理を食べさせて、早く元気になってもらうためである。そしてそれにはどうしても決定的なものが欠けていた。
香草である。この辺りで取れる天然の香草を料理の隠し味に使うと、ほどよい甘い香りが鼻腔の奥へと広がっていき、食す者の心を落ち着かせる効果があるのである。
イエラは口ではなく鼻からため息を漏らした。
その安らぎの効果を与えてくれる天然物の香草が、気分が乗っている今日に限ってまだ一本も取れていないのである。
さてどうしたものか。イエラは大自然の中で腕組みをした。
イエラが佇んでいる場所はミゼオンに続く街道のすぐ近くの森の中であった。土地勘もあったため、この周辺では迷うということはなかった。
近くの木にでも登ればすぐにでもミゼオンの街並みが睥睨できるだろう。
くりっとしたイエラのつぶらな瞳が、森のさらに奥へと向けられた。
イエラが佇んでいる沢沿いの小道をさらに奥へと進んでいくと、陽の光が一切地面に届かない暗黒が広がっている。そこは、地元の人間でも足を踏み入れることはない魔の領域として知られていた場所であった。
そして今のイエラは、その魔の領域に踏み込もうか否か迷っていた。
この辺りで香草を見つけられなかったということは、もうすでに誰かが摘んでしまった後かもしれない。となると、目的の香草は未だ一度も足を踏み入れていない森の奥にある可能性が高い。
イエラは一歩だけ足を踏み出したが、続いての二歩目をすぐには出せなかった。
さすがにこの森の奥へ入ることに躊躇いがある。父親のカールに厳しく戒められていたせいもあったが、それ以上にミゼオンに伝わっていた奇妙な逸話がイエラの細い足の動きを止めていた。
それは、遥か昔に天空から飛来した黒い流星が森に落下したという逸話であった。
何でもその流星が落下した直後、一部の森の植物が異常成長し、今では何人たりとも立ち入りを許さない魔の領域と化したのだという。
実際、何人かの人間が真相を究明しようと森の奥へと足を踏み入れたが、誰一人として帰ってくるものはいなかったそうだ。
イエラはしばし思案した。その逸話を初めて聞かされたときは恐怖を感じたが、考えてみればもう何百年前の話である。
だが森の奥に奇妙な違和感が充満しているのは確かであった。
まるで巨大な怪物が大口を開けて、のこのこと口内に入ってくる餌を待ち構えているような感じさえする。
イエラは森の奥から背を向けようとした。
もし万が一、怪物とはいわないが肉食獣にでも遭遇したら一環の終わりである。
イエラは手にぶら下げていた籠の中身を覗き込んだ。数種類の薬草や山菜の中には、母親が好きな天然物の香草の姿はどこにもなかった。
例えここで引き返したとしても、母親は何一つ文句も言わず自分が作った手料理を食べてくれるだろう。だが、やはりあの笑顔が忘れられない。天然物の香草を初めて料理の隠し味に使ったとき、母親が向けてくれたあの太陽のように明るい笑顔が。
「ちょっとぐらいなら大丈夫だよね」
勇気を振り絞りながら、イエラは躊躇していた二歩目を前に出した。
柵のように木の上から垂れ下がっている無数の蔦を手で退けながら、イエラは闇深い森の奥へと消えていった。
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