第1話
澄み切った青空からは、真夏の日差しが蒼穹のように大地に降り注いでいた。
見渡すとそこは青々と茂った草原が一望できる田舎道であった。
二台分の馬車が何とかすれ違える程の狭さの道であったが、それでも街に向かっていく馬車や行商人たちが激しく往復する姿が目立っていた。
時刻は昼過ぎ。
舗装されていないその田舎道に、風に乗って人間の声が運ばれてきた。
怒声をわめき散らす男の声と、それに反抗する少女の声である。
「いい加減にしろ! そんな物を認めるわけにはいかん!」
「何でだよ、この頭デッカチの馬鹿軍人!」
その声の発生源は田舎道からやや外れた場所であった。そこには深緑色の軍服を着た四人の男たちと、白の半袖シャツと細い線が入った赤のスカートを穿いた少女が激しい視殺線を繰り広げていた。
十代半ばと見える少女はやや巻きがかかった茶色の髪を翻しながら、腰に両手を当てて自分よりも頭二つ分は背が高い男たちと真っ向から対峙している。
少女の後ろには白髪の老人と年老いた馬が引いていた荷車が止まっていた。
老人はどうやら行商人であり、荷車の上には様々な国の古書が積まれていた。そのどれもが年季の入った本の数々で、まるで魂が宿っているかのような神秘的な雰囲気が本の表面から滲み出ているようであった。
「何でダメなんだよ! 理由を言え、理由を!」
夏の日差しを凌駕する少女の気迫に軍人たちもたじろぎそうになったが、このボナージュ地方を統括する軍の人間が、少女相手に気迫で負けるわけにはいかない。
「何度も言っているだろうが、イエラ。如何わしい外道の事柄が記されている書物の販売は禁止されているんだよ」
イエラと呼ばれた少女は泰然と反論する。
「何が外道の事柄だ! 何で魔法に関する書物の販売が禁止なんだよ!」
お互いの意見を絶対に譲らない軍人たちと少女の討論は激化の一途を辿っていた。
少女の後ろで傍観していた老人も、さすがにこれ以上無関係であった少女に迷惑をかけられないと思ったのだろう。
老人は猫背に曲がった身体を動かすと、軍人たちに深々と頭を下げた。
「わかりました。私はこのまま引き上げます。決して街には本を持ち込みません」
「ダメだよ、お爺ちゃん。大事な商売道具なんでしょ。こんなヘボ軍人の言うことなんて無視して堂々と売ればいいんだよ」
老人はイエラに「いいんですよ」と頭を下げると、止めていた馬を引いて街とは反対方向に進んでいった。
イエラが黙って老人の背中を見つめていると、軍人の一人が近づいてきた。
「まったく、あまり問題を起こすなよイエラ。街で見つかれば見逃すことすらできないんだぞ」
黒髪に褐色の肌をした精悍な顔つきの軍人は、先ほどの剣幕が嘘のようにイエラに優しく囁いた。後ろにいた他の軍人たちも「やれやれ」といった感じで溜息を漏らしている。
「……だって」
「だってじゃない。いいか、ああいう物に今後一切興味を持つな。子供の趣味では済まされないぞ」
褐色肌の軍人はイエラに人差し指を向けて釘を刺すと、他の軍人たちを引き連れて街のほうに帰っていった。
田舎道の脇に一人佇んでいたイエラは、ぷるぷると固く握った拳を震わせていた。唇を噛み締めて青く澄み切った空を睨みつけた。
「興味を持って何が悪いんだ馬鹿野郎!」
イエラは叫ぶなり足元に転がっていた石を蹴り飛ばした。不満と疑問の念が込められていた小石は、綺麗な半円を描きながら森の中に消えていった。
このとき、イエラは別に何かを狙ったわけではなかった。ただ、溜まった鬱憤を少しでも晴らすために小石に八つ当たりしただけであったが。
「いってーッ!」
どうやらイエラが闇雲に蹴り飛ばした小石は何かに当たった。それも罰が悪いことに人間に当たったようである。
イエラは青ざめた。まさか蹴り飛ばした小石の先に人間がいるとは露にも思わなかったからだ。
「だ、大丈夫ですか?」
イエラは小石が消えていった森に向かって声をかけるなり、運が悪い出来事に見舞われた本人が森の中から飛び出てきた。
「大丈夫じゃねーッ! 見ろッ、傷口から出た血と汗腺から出た汗が渾然一体となって俺の不快感を倍増させたぞ!」
森の中から飛び出てきた男に、イエラは慌てて頭を下げた。偶然とはいえ、自分が蹴った小石で怪我をしたのならば、それ相応に謝罪しなければならない。
「ご、ごめんなさい。まさか人がいるなんて思わなかったから」
何度も頭を下げて謝罪するイエラの前には、こめかみの部分を押さえて薄っすらと涙目になっている男の姿があった。
男だというのに腰まで伸びている流麗な黒髪は艶やかな光沢を放ち、尖った顎に伸びている鼻梁は理想的なほど細く長い。
また、怒りのため噛み締めている唇は天然の鮮やかな朱色をしており、鼻先まで垂れている前髪の間から覗いていた瞳は翡翠の色をしていた。
まさに美男という言葉がピッタリと似合う男はイエラに近づいてくる。
イエラは空を見上げた。
男は二メートル近くもある長身で、逆にイエラの身長は百五十そこそこの小柄な体格だったため、空を見上げるような姿勢にならなければ男の顔を見られなかった。
イエラは切れ長であった男の目を見つめると、全体に視線を彷徨わせていく。
身長が二メートルもある大男というと、筋骨粒々でやたらと自分の肉体を自慢したがる暑苦しい人間を想像してしまうのだが、イエラの目の前にいる男からはそんな無骨な印象は微塵も感じられなかった。
どちらかというと細いのである。全体的にスラッと長く伸びており、だがひ弱という感じでもない。
年齢も詳しくはわからないが、二十代前半か半ばぐらいだろう。
まるで御伽噺に登場する貴族といった感じがする不思議な雰囲気の持ち主であったが、それでもイエラは顔を引きつらせて後ずさった。
男は真夏だというのに何故かダークスーツを着こなし、その上からロングコートを羽織っていた。そのコートの色がまた漆黒だったため、余計に暑苦しく感じる。
「おい、まさかこのままトンズラしようなんて思ってるんじゃないだろうな。そうは問屋が黙っちゃいねえぞ。見てみろ、この痛々しい傷口を。これは謝罪なんてものじゃ済まされねえな。よし、そうとなればたっぷりと俺の望みを……ぐおッ!」
男はまるで早口言葉のようにイエラに謝罪の方法を喋っていると、突然、森の中から恐ろしい速度で何か丸い物体が男に向かって飛んできた。
その物体は吸い込まれるように男の後頭部を直撃し、パコンといい音がした。
「何? 何なの?」
一瞬の出来事に何が起こったのかわからなかったイエラは、目の前で前のめりに昏倒している男から森の中に視線を転じた。
すると、うっそうと木々が生い茂る森の中から一人の女性が現れた。
カフス付の黒のワンピースの上から白のエプロンを着用しており、肩にはどこの山に登山に行くのかと問い詰めたくなるような大型のリュックを担いでいた。
メイドである。地域や役職により細かな名前に違いがあるものの、大抵の人間はイエラの前に現れた女性を「メイド」と呼ぶだろう。
珍しい蒼色の髪を肩まで伸ばし、小さな顔に収まっている表情は人形のように端正な顔立ちをしていた。年齢も十八、九ぐらいで、身長はイエラよりも少し大きい。
だがイエラはそのメイドを見るなり、またまた後ずさった。
何の変哲もないメイド、と思うほどイエラは世間に疎くもないし、下界から隔離されて過保護に育てられたどこぞのお嬢様でもない。
イエラはこの状況に身の危険を感じていた。
真夏だというのにロングコートを着た男と、メイド服姿の女が目の前に現れれば誰でも警戒するだろう。ここは華やかな大都会とは無縁なただの田舎道なのである。
イエラは何か大事になる前にこの場から退散することを瞬時に決めた。
「いってーッ! 何しやがる、リンゼ!」
イエラが逃走しようとした瞬間、死んだように地面に倒れていたロングコートの男が跳ね起きた。後頭部をさすりながらメイドの女性に怒声を浴びせる。
「すいません、シュミテッド。本当は延髄を狙ったのですが手元が狂って後頭部に飛んでしまいました。私もまだまだです」
そう言いながら、リンゼは地面に転がっていた丸い物体を拾った。
シュミテッドの後頭部を襲ったと思われる丸い物体の正体は、ピカピカに磨かれたフライパンであった。
リンゼは悪びれた様子もなくそのフライパンをリュックの中に仕舞い込んだ。
その手付きにはまったく無駄がなく、シュミテッドを止めるためにわざわざフライパンを投げつけたならば相当危険な人物だと判断できる。
少なくともイエラはそう思った。フライパンとはいえ金属の塊である。そんな物が人体の急所に当たれば痛いでは済まされないだろう。
「まったく、何が「まだまだです」だ。俺じゃなかったら死んでたぞ。おー痛え」
だがシュミテッドには「おー痛え」で済んだようであった。
やっぱりさっさと逃げたほうがよさそう。イエラはなるべく足音を立てずにその場から遁走しようとした。
しかしイエラが二人から背を向けた刹那、誰かがイエラの腕をがっしりと摑んで行動を制止させた。
「おっと、嬢ちゃん。ちょっと待ちなって」
イエラの腕を摑んだのはシュミテッドであった。シュミテッドはそのまま罰の悪そうな顔でイエラを見下ろしていた。
「いや! は、離してよ、変態ッ! 凶悪犯ッ! 強姦魔ッ!」
イエラは身の危険を感じると、ありったけの力を込めてシュミテッドの手を振り解こうとした。だが、イエラの腕を摑むシュミテッドの手は皮膚同士がくっついたようにびくともしなかった。凄まじい握力である。
その光景を傍観していたリンセがゆっくりと口を開く。
「シュミテッド、強姦はいけないと思います。きちんと和姦にまで持っていくか金銭を支払わなければなりません。タダはダメです」
「何の話だ、この馬鹿! 俺はそんなこと考えてもいねえしガキの身体にも興味はねえ。俺が言いたいのは……」
シュミテッドは突然イエラの両肩を激しく摑むと、その場に両膝をついた。
「な、な、な」
何が行われるのか理解できないイエラはただ狼狽えると、シュミテッドの後ろにいたリンゼが静かに両目を閉じた。
辺りからは虫の鳴き声が響き、照りつける日差しが容赦なく大地に降り注ぐ。
時間にして数十秒。シュミテッドは勢いよく頭を下げた。
「お願いします……何でもいいので飯を食わせてください」
「……は?」
イエラは惚けた顔でシュミテッドを見つめると、リンゼも頭を下げていた。
周囲の木々から響いていた虫の鳴き声に混じり、イエラの耳には人間二人分の腹の虫の鳴き声も聞こえていた。
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