第2話

 気高い山岳に囲まれた場所にその街はあった。


 豊かな自然の中に鎮座しているボナージュ地方の主要都市ミゼオン。


 この街はガザフシニア国とタード国との国境が隣接している地域であり、昔から採掘場では希少な鉱物であるフローライトとアパタイトが多く産出された。


 また交通の主要地点ということもあり、国境紛争に絶えず巻き込まれていた危険な場所で知られていた。


 そしてその街の近くには、平和維持組織と銘打っている連合政府軍の駐留基地があった。


 ガザフシニア国とタード国との停戦条約が結ばれて八年。


 紛争は徐々に沈静化の一途を辿ったものの、二つの国の国境地域であり希少な鉱物が産出されるとあっては人々が集まらないわけがない。連合政府軍がここに要塞を築き、駐留しているのはそういう理由もあってのことであった。


 しかし一般的には知らされていないが、もう一つ。連合政府軍がこの場所に駐留しているのには理由があった。


 蛇龍スネーク・十字団クルセイダー


 十字架に翼が生えた蛇が巻きつく紋章をシンボルとし、始祖も発足地域も一切不明なこの謎の秘密結社は、機械技術と科学技術を推奨する連合政府軍と真っ向から対峙する魔術と呪術を推奨する組織であった。


 そしてこの秘密結社は表舞台には顔を出さず、主に紛争地域を拠点としていた。


 だからこそ連合政府軍はこの場所を離れるわけにはいかなかった。


 連合政府軍と蛇龍十字団。互いの主張が相反しているこの二大勢力の闘争は、未だなお水面下で密かに争われている。




「いやー、美味かった。久しぶりに人間らしい食事をしたぜ。なあ、リンゼ」


 シュミテッドはほどよく出た自分の腹をさすりながら隣に目を向けた。


「はい。大変美味しゅうございました」


 リンゼは両目を閉じて口元をハンカチで拭っていた。その表情からは心の底から満足している様子が窺える。


「しっかし二人ともよく食べたね。軽く六人前はあったのに」


 イエラはテーブルの上に散乱している空の食器郡を見て呆れていると、台所から出てきた筋骨隆々とした男はデザートが乗せられている皿をテーブルに置いた。


「よかったらこれも食べな」


「あ、頂きます」


 シュミテッドはテーブルの上に置かれたデザートを食べ始めると、筋骨隆々とした男は無精髭を掻きながら白い犬歯を剥き出しにして笑った。


「まったく、父さんは本当に旅人に甘いんだから。こんな無一文の宿無しに気前よくデザートなんて出さなくてもいいのに」


 イエラがぼやくなり、父親であるカールはすかさず娘に反論する。


「その無一文の宿無しを連れてきたのはお前だろうが」


「連れてきたくて連れてきたんじゃない」


 イエラが大きなため息を漏らすと、カールは笑いながら再び台所に戻っていく。デザートを平らげたシュミテッドは椅子の背もたれに身を預けて、「余は満足じゃ」と恍惚な笑みを浮かべていた。


 ここはミゼオンの繁華街から少し歩いたところにあるイエラの自宅であった。


 窓の外はすでに宵闇に包まれており、時刻は夜の八時を回っていた。閑静な住宅地域ということもあって、繁華街の喧騒もこの辺りまでは届いてこない。


 イエラはテーブルの上に顎を乗せて考えていた。


 何でこんなことになってしまったのだろう、と。


 イエラは彷徨わせていた視線をシュミテッドのこめかみに向けた。


 シュミテッドのこめかみには一切の傷跡がなく綺麗なものであった。それがイエラにはどうしてもわからない。たしかにシュミテッドの左のこめかみには傷ができていたはずであった。


 昼過ぎに自分の不可抗力でつけてしまった傷がである。


 そのせいでイエラは目の前にいる珍妙な格好をした二人組みを自宅に連れてくるはめになったのだが。


「石が当たって怪我したのって嘘だったんだね」


 腹を満たして満足していたシュミテッドは、イエラのその言葉を聞くなりあからさまに態度を急変させた。シュミテッドの隣で座っていたリンゼの目線も何となく泳いでいる。


「ば、馬鹿なことを言うな。いくら数人分の飯を食われたからってそんな言いがかりはよしてくれ」


 そう言いながらわざとらしく口笛を吹き始めたシュミテッドは、冷や汗をだらだらに流しながらイエラから視線を外した。


「じゃあその傷口がなくなっているのはどういうこと?」


 イエラは訝しげにシュミテッドに顔を近づけていくと、その問いには何故かリンゼが答えた。


「シュミテッドは傷の治りが通常の人間よりも早いんです……と、いうことにしておけばよろしかったですか? シュミテッド」


 シュミテッドは一本だけ立てた人差し指を自分の口に縦につけると、リンゼに向かって頭を左右に振った。


「おい、違うだろ。打ち合わせだと俺は飯を食えば食うほど体内の新陳代謝を向上させることができる特殊体質の持ち主だってことにして……」


「あっ、シュミテッド」


 リンゼが声を漏らすなり、シュミテッドの顔面にイエラの拳がめり込んだ。二メートルの巨体がリビングの端まで吹き飛んでいく。


「やっぱり嘘だったのかこのただ飯食らい!」


 イエラがシュミテッドに強力な右ストレートを叩き込んだ直後、後ろのほうから扉が開く音がした。


「あらあら、今日は随分と賑やかね」


 扉から出てきたのはショールを身体に羽織った女性であった。


 栗色をした長髪を後ろで束ね、目鼻立ちや顔の輪郭などはイエラとそっくりであった。だが身体は細く、肌の色も一目で血色が悪いと見て取れた。


「ダメだよ母さん。安静にしていないと」


 イエラは寝室から出てきた母親に振り向くと、心配そうに駆け寄っていった。


「いいのよ。あんまり寝てばかりもいられないから……ゴホッゴホッ」


「ほら、ちゃんと寝てないと治るものも治らないよ」


 咳き込む母親の背中をさすりながら、イエラは母親を寝室まで送っていく。


 二人が寝室に入っていくと、台所からカールが出てきた。その顔には先ほどの笑顔が嘘のように暗く沈んだ表情が浮かんでいた。


「奥方様はご病気なのですか?」


 椅子に座っていたリンゼがそっとカールに質問した。


 カールは一度だけ頷く。


「ええ、もう二年ですかね。サブリナは元々身体が弱いやつでしたし、長年苦労をかけてきたせいもあると思いますが、最近はずっと寝たきりの状態が続いてましてね」


 カールがどっと肩を落とすと、玄関のほうでチャイムが鳴った。


「お客様ですか?」


 リンゼはチャイムが鳴っている玄関のほうを見つめると、カールは待ち焦がれたように顔を玄関のほうに向けた。


「多分、シモン先生です。よかった、もう今日の診察はないと思っていたのに」


 カールは急いで玄関のほうに向かっていくと、リビングにはリンゼとシュミテッドの二人だけとなった。


「どう思います」


 リンゼはリビングの端に視線を転じると、シュミテッドは胡坐をかいていた状態からすくっと立ち上がった。


「俺は医者じゃないからよくわからん」


「そうですか」


 リンゼが相槌を打つなり、カールと一緒に白衣姿の男がリビングに入ってきた。


 金色の短髪に四角形をした眼鏡をかけた壮年の男。羽織っている白衣と手にしている鞄から漂ってくる薬品の匂いから、男の職業が医者だとわかる。


「ささ、シモン先生。どうぞこちらへ」


 カールは手を差し伸べながらシモンを寝室へと案内する。シモンはリビングにいたシュミテッドとリンゼを見向きもせずに寝室へと入っていった。


 同時にイエラが寝室から出てくる。つかつかとリビングに来て椅子に腰かけると、頬杖をついてため息を漏らした。


「おふくろさん。そんなに悪いのか?」


「うわッ!」


 いつの間にかシュミテッドはイエラに近づき顔面を覗き込んでいた。


 そのことにまったく気がつかなかったイエラは、思わず右ストレートをシュミテッドの顔面に放っていた。


「あ、ごめん。つい」


「つい、でポンポン手を上げるな。女ならもっと繊細でおしとやかに生きろ」


 シュミテッドが自分の鼻を押さえながらイエラを睨みつける。


「そうですよ、イエラさん。あまり暴力はいけません」


 リンゼがすかさず仲介に入った。だがその表情にはシュミテッドを労わる気持ちなど微塵も感じられなかった。


「それで、お母様の容態はどうなのです」


 隣で怒り狂っていたシュミテッドを無視して、リンゼは話題を変える。


「うん。それがあんまりよくないんだ」


 きちんと椅子に座りなおしたイエラは、母親の診察が行われている寝室に視線を向ける。


「シモン先生は過労だって言ってるけど……母さんは昔から心臓が弱かったから」


 そしてイエラは寝室を見つめながらボソリとつぶやいた。


「魔法が使えればな」


 イエラのその言葉にシュミテッドとリンゼの眉が動いた。


「お前、魔法なんてもの信じてるのか?」


 シュミテッドが鼻先を掻きながらイエラに問う。


「もちろんさ!」


 イエラは目を輝かせながら目の前にいる二人に語り始めた。


 何百年も前に人類は魔物たちと死闘を繰り広げ、劣勢を強いられた魔族たちは異界から魔王を呼び出して人類を絶滅の危機にまで陥れたこと。


 そんな人類は魔物と魔王に対抗するために天界の神々と契約を結び、自然の物理法則を凌駕する魔法を手に入れたこと。


 そして人類は魔法を使ってついには魔王と魔族を打ち倒したこと。


 イエラは何百回も聞かされた子守唄の内容を覚えているかの如く、一言一句噛まずに二人に長々と語りつくした。


「誰に聞いたのか知らないが、壮大な夢物語だな」


 だがシュミテッドはイエラの夢を簡単に打ち砕く一言を放った。その余計な一言によりシュミテッドの顔面にまたもやイエラの拳が突き刺さる。


「夢物語じゃない! ちゃんと証拠だってあるんだ」


 シュミテッドの顔面に拳を放ったイエラは、そのまま椅子から立ち上がり奥の部屋へと向かった。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る